皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

天満宮と天神信仰

2019-06-25 22:47:02 | 神社と歴史

 天神・天満とは天満大自在天神・天満天神の略称といい、菅原道真公を神格化した呼び方である。

道真公は平安時代初期の人で学問の名家に生まれ文章詩歌に優れ、政治家として右大臣まで上り詰めるが、その才能を恐れた時の左大臣藤原時平の讒言によって大宰府に左遷されてしまう。延喜元年(901)のこととされ、無実の罪で流された道真公はその2年後身の潔白を訴えながら59歳で亡くなってしまう。

すると都では災害異変が続発する。道真公を無罪の罪に陥れた貴族たちは相次いで亡くなり、宮中には雷が落ちるなどこれを道真公の祟りと信じるようになる。そのため朝廷では道真公の官位を右大臣とし、太政大臣の地位を贈るなどして祟りを鎮めようと努めた。

このころ地方では東国で平将門の乱、西国では藤原純友の乱が発生し情勢不安から、一層道真公の御霊に対して恐れと敬意を抱くようになる。これを御霊信仰と呼び当時の人々は道真公がこの世に怒りを抱き天変、天候を司る火雷天神になったと考えるようになった。

太宰府天満宮は道真公が亡くなった場所に廟所を建ててその霊を祀ったことを創祀とする。延喜5年(905年)のことである。また北野天満宮は多治比文子(たじひあやこ)という巫女に天神の神託が降り北野の地に創祀され、朝廷の守護神として篤い崇敬を受けた。

天神は当初祟る神、天変の神として恐れられたが、後にその御神徳は変化し、火雷天神の農耕神として、さらには無実の罪を晴らす神としても信仰されるようになった。江戸期になると現在と同じように学問の神として寺子屋や藩校で祀られるようになる。また道真公命日にあたる二月二十五日、または月命日の二十五日には天神講として子供が集まり学業成就を祈願するようになった。

 全国にある天神様は約10000社。御神徳の変遷を伴ないながら今日でも多くの人々が天神様をお参りしている。

 

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禍福は糾える縄の如し

2019-06-25 22:03:40 | 先人の教えに導かれ

中国の古典『史記』の「因禍為福、成敗之転、譬若糾纆」という一節による。糾うは縄をより合わせることで、幸と不幸は寄り合わせた縄の様に交互にやって来るものだという教え。

 源頼朝は父が平治の乱に敗れたことから伊豆へと流刑になり、その後三嶋大社にて挙兵し平氏を倒して武家政権を樹立。ところがその後十年も経たずに落馬が原因で急死。その後20年には源氏は滅んでしまう。こうした史実は幸不幸が交互にやってくることの証の様に考えられている。

自分はこの言葉が好きで、いつも心に留めておくようにしていたが、30代の頃仕事でお付き合いさせていただいたある職人からの言葉がても印象に残っている。「自分にとっていい時と悪いときは交互にやってくると思うだろ?」「でもその長さはずっと悪いときの方が長いんだよ。倍以上に。そこを我慢できるかどうかだよ」

流行っているとは言えない店の主人の言葉は、今でも心に響いている。

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しのつく雨に濡れながら

2019-06-24 23:26:35 | 生活
梅雨に入って二週間が過ぎます。梅雨には梅雨らしい雨が降ったほうが良いといいますが、ここ北埼玉でも、連日のようにまとまった雨が降っています。雨が多い国日本には雨降りを表す擬音語も多いといいます。『しとしと』『ポツポツ』『ざあざあ』など、天気予報の際にもよく使われています。あまり聞きなれない表現に『しのつく雨』というのがあるそうです。しっとり、緩やかにといった意味合いに思いますが、漢字で書くと『篠突く雨』と書き、細い篠竹が束になって降るような激しい雨を指すと言います。
今朝は篠突く程ではありませんでしたが、それでも境内が水溜りになるような、強めの雨でした。雨が上がれば雲の切れ間に青空が広がり、水面輝く田圃の景色はこの時期特有の美しさを醸し出し出してくれます。短い時間ですが、虹もかかりました。夏至を過ぎ梅雨明けが待ち遠しい頃ですが、もう暫く雨の季節も悪くないと感じます。
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佐倉市 臼井城跡

2019-06-12 23:31:07 | 史跡をめぐり

下総国佐倉市指定史跡臼井城跡。文明10年(1478)享徳の乱の折、千葉自胤に敗北した千葉孝胤はこの臼井城に籠城する。半年以上に及ぶ籠城戦の末、城方が討って出て激戦となり落城する。その際、太田道灌の甥太田資忠討ち死にし現在土塁の上に墓石が立っている。

その後足利政氏の次男足利義明が小弓城を制圧し、小弓公方と称した際、臼井城主臼井景胤小弓公方側に立ち、一方前城主千葉孝胤の嫡男、勝胤と対立した。天文7年(1538)国府台合戦により足利義明が討ち死にしたことで臼井景胤は後ろ盾を失い、千葉氏の勢力下に戻っている。

中世の土塁跡が良く残っている。

永禄四年(1561)臼井久胤が城主を務めたいた頃、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城城主正木信茂に攻められれ、臼井城は落城する。臼井久胤は結城晴朝を頼って出奔、ここで臼井氏は滅亡する。実はこの時臼井城は久胤の母方の祖母にあたる原胤貞に乗っ取られており、幼かった久胤は軟禁状態にあったといい、正木信茂の攻めに乗じて城を出て結城氏に付いた。此の後臼井城は原氏の手中に収まったとされる。

永禄九年(1566)上杉謙信に攻められた原胤貞は臼井城に立て籠り、落城間近となるも、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師白井浄三の策略により謙信を大敗させている。「関八州古戦録」や「北条記」によればこの戦いを臼井城の戦いとし、上杉勢が優勢に戦いを進めるも、赤鬼と称された北条軍松田康郷の武勇によって上杉軍に数千人の死傷者を出したことを伝えている。

関東の覇権を狙う上杉謙信にとって大きな痛手であったことは勿論、、常陸、上野、下野の諸将が謙信を見限る経緯となった戦いといわれている。またこれを機に謙信は北条氏からの越相同盟を受け入れる原因の一つになったといわれている。

臼井城の戦い以降関東において謙信に従うものは羽生城をおいてほかになく、その出城として皿尾城も謙信の情報収集機関としての役割を担うようになっていく。利根川の南で謙信に従属するのは羽生城主広田直繁、その弟、皿尾城城主木戸忠朋の兄弟ののみになったという。

臼井城を落とせば上杉謙信の運命も変わっていったことだろう。城郭址からは今でも印旛沼を見渡すことができ、この地を抑えれば下総の水利を抑えることができたと思われる。

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HOPE&DREAMS

2019-06-11 23:01:10 | 心は言葉に包まれて

 

詩に勇気づけられることが多い毎日。

梅雨入り後続く雨に心も身体も疲れてしまう。駆け抜けるようなリズムに沸き立つような歌詞を車中で何度も聞いいる。アップテンポの曲の中に「多様性」を認めようとする気持ちが込められている。特に「多数決が最良の答えを出すとは限らない」「それぞれ信じる空を見上げて」

という部分が好きだ。

作詞は松本俊明氏。MISHIAの代表曲「Everything」も松本氏の作曲となっている。

MISHIA~HOPE&DREAMSより

駆け抜ける飛行機雲 僕らの願いアテンションプリーズ

限りある時の中 走り続けていこう

I’m a Dreamer 夢を語るたびに 熱くなる思いは宝物

手を伸ばして待ち続けた空 旅立ちの時は 今 いつの日も

みんな空見あげて歩いてきたんだ 前を向いて笑えるように

つまずいてもいい 振り返りはしない 今だ飛び立て 夢ロケット

多数決が最良の答えを出すとは限らない

だって僕らが描く 未来はイマジネーション

Who is the Doreamer?

人と違う自分になぜ不安を感じるんだろう

孤独になれることなんてだめさ 願いは強さになるから 誇り高く

全てを真っ赤に染める夕焼けは 明日を信じる 情熱の色

いつも心には 広大なロマンス 空見あげて歩いてく

変わることを願う君 変わらぬことを望む人

それぞれ信じる空を見上げて My Dream

みんな空見あげてあるいてきたんだ 前を向いて生きてきたんだ

明日咲く花に涙をあずけて胸には HOPE & DREAM

長い夜を超え 星空の向こうで 出会うものはきっと素晴らしい

思い切り空へ 未知なる宇宙へ 今 飛び立て 夢ロケット

MISHA本人と松本俊明氏の声をラジオで聞きながらこのブログを書いています。

松本氏とMISHAが初めてあった際、「どんな歌手になりたいか」と松本氏がきいたところ、MISHAは「一生歌い続ける歌手になりたい」と答えたそうです。

 

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