天神・天満とは天満大自在天神・天満天神の略称といい、菅原道真公を神格化した呼び方である。
道真公は平安時代初期の人で学問の名家に生まれ文章詩歌に優れ、政治家として右大臣まで上り詰めるが、その才能を恐れた時の左大臣藤原時平の讒言によって大宰府に左遷されてしまう。延喜元年(901)のこととされ、無実の罪で流された道真公はその2年後身の潔白を訴えながら59歳で亡くなってしまう。
すると都では災害異変が続発する。道真公を無罪の罪に陥れた貴族たちは相次いで亡くなり、宮中には雷が落ちるなどこれを道真公の祟りと信じるようになる。そのため朝廷では道真公の官位を右大臣とし、太政大臣の地位を贈るなどして祟りを鎮めようと努めた。
このころ地方では東国で平将門の乱、西国では藤原純友の乱が発生し情勢不安から、一層道真公の御霊に対して恐れと敬意を抱くようになる。これを御霊信仰と呼び当時の人々は道真公がこの世に怒りを抱き天変、天候を司る火雷天神になったと考えるようになった。
太宰府天満宮は道真公が亡くなった場所に廟所を建ててその霊を祀ったことを創祀とする。延喜5年(905年)のことである。また北野天満宮は多治比文子(たじひあやこ)という巫女に天神の神託が降り北野の地に創祀され、朝廷の守護神として篤い崇敬を受けた。
天神は当初祟る神、天変の神として恐れられたが、後にその御神徳は変化し、火雷天神の農耕神として、さらには無実の罪を晴らす神としても信仰されるようになった。江戸期になると現在と同じように学問の神として寺子屋や藩校で祀られるようになる。また道真公命日にあたる二月二十五日、または月命日の二十五日には天神講として子供が集まり学業成就を祈願するようになった。
全国にある天神様は約10000社。御神徳の変遷を伴ないながら今日でも多くの人々が天神様をお参りしている。