皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

久喜市菖蒲下栢間 諏訪神社

2023-08-06 21:49:55 | 神社と歴史

旧菖蒲町下栢間は町の南西に位置し元荒川を挟んで蓮田市に接し、その南西は桶川市に隣接する。当地の開発は古く「栢間七塚」と称する栢間古墳群に見られるように六世紀ごろにまで遡る。奈良・平安期の集落跡も発掘され、平安末期以降武蔵七党の武士団の一つ野与党の「栢間氏」がここを本貫地としていたという。

天正十八年(1590)徳川家康が関東に入国した際、古参の重臣であった内藤四郎正成にこの地を与えている。正成は当地の西部に陣屋を構えその敷地内に諏訪神社を祀ったという。内藤正成は武勇に優れ幼いころより家康に仕えたとされる。「どうする家康」でも描かれている、今川家に属していたころの大高城兵糧入れにも同行。三河一向一揆では一揆方についた渡辺高綱を矢で射抜いたとされる。

武田との戦である三方ヶ原合戦では長男を失いながら奮戦し、高天神城攻防戦でも武田軍からその矢の威力を恐れられるほどの活躍を見せている。こうした武田軍との攻防もあってか、諏訪明神を勧請したのかもしれない。

但し関東入領後、正成にとって江戸から離れたこの地を拝領したことは不遇であって、実際には徳川治世となってからの配下の武将による抗争で武断派の内藤正成が政争に敗れたことを示しているという。当時開発の進んでいなかった武蔵国の内地に押しやられたのであろう。

徳川十六神将に数えられながらその活躍をドラマで見ることは今のところない。

現在の本殿は内藤家の管理していた山林から伐採した木材で建てられたとされる。改修されたのは明治三十八年。

武田の守護神である諏訪明神は五穀豊穣の神としても信仰される。

県内主要街道から離れた菖蒲の元荒川沿いに、徳川十六神将に纏わる諏訪神社は今も当時の様子を伝えるように建っている。

徳川二百年の太平の世は内藤正成の活躍なくしてはなしえなかったのかもしれない。

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身近な公園に見る地域社会の行く末

2023-08-03 22:45:07 | 郷土散策

夏休みに入りここ北関東でも連日の猛暑が続いている。防災無線で熱中症警戒アラートが伝えられ、「不要不急」の外出を控える放送が流れている。世代によっては食品スーパーなどを避暑地的に利用される方も多い。自宅で涼をとり続けることにためらう方も多いだろう。

子供たちはどうしているのだろうか。私たち世代(50代以上)は小学校なら近くの公園、神社で遊び中学校なら半日は部活に明け暮れていた。神社で育った私からすると夏休み中の神社は特に自治会館と接していると朝はラジオ体操、昼は子供会、夕方まで自由に遊べる最も自由な場所であった。もちろん安全面も含めて。神社の杜が木陰を生み出し風を感じる貴重な場所。年々杜も少なくなり、少子化のためラジオ体操がなくなり、子供会そのものがなくなってゆく。神社で子供たちだけで過ごす風景は遠い昔のことになってしまった。

一方公園はどうだろうか。自治会の管理下にある地域の公園はまだ多い。小さな子供を連れてベビーカーで散策する姿を見ると微笑ましく思う。それが大きくなって中学校くらいになるとサッカーなど球技をすることが多く、施設の管理面から締め出されることが顕著になっている。

子供だから建物にボールをぶつけても許されるということはない。されど一切の遊びを排除してしまっては子供も居場所をなくしていってしまう。やはりコミュニケーションの希薄化が見られる。お互い不快な面があるから規制で済ませてしまおうという簡潔なやり方だ。当事者にとってはこれが一番やりやすい。結果誰も寄り付かなくなる公共の公園が出来上がってゆく。

もう少し工夫の仕方がきっとあるだろう。「面倒くさがることをやめよう」自分に言い聞かせるようにすると、意外と人生が変わる。

面倒なことを皆で共有すると争いもあるかもしれないが、解決しようと努力することでより良い未来が開けるのではかと思う。

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丑の日の浮き城祭り

2023-08-01 23:30:02 | 日記

令和五年夏の土用の丑の日は七月三十日の日曜日でした。一年で最も暑さの厳しい時季で、陰陽五行では春は木、夏は火、秋は金、冬は水、そして各季節の間が「土」に当たります。年四回ある土用ののうち、夏の土用は特に暑さを乗り越えるのが厳しく特別視されています。

行田市民祭り「浮き城祭り」の前身は「だんべ祭り」です。私が子供のころはだんべ祭りでした。郷土の方言である○○だんべというフレーズを祭りの名称にしたのは私の住む地区の市役所職員だと聞いたことがあります(真偽はわかりかねます)

夏の土用は立秋前の十八日間。丑の日には鰻など「う」の付く食べ物を食べるなど、また「丑湯」という薬湯に入ったり土用餅を食べるなどの習慣が残っています。

盛大な山車のたたき合いが見どころの行田浮き城祭り。全身のだんべ祭りからその行われる日は七月の最終日曜日です。

もともとは忍城鎮守である忍諏訪神社の例大祭が七月二六、二七に行われ、その日だけは城鎮守である諏訪神社に町人も参詣が許されたことからこの時季に祭りが行われているようです。

城と町人との関係がいまだに顕著に残っている。人あっての城。城を誇りに思う人。

城下町忍の行田が益々栄えることを祈ります。

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