四日市宿での刃傷事件 最終章
最後に、16名の関係者を約14日間かけて江戸へ護送した経費だが、明確な記録が無いとありました(ナンヤ!)。ただ、付き添った同心1名につき1泊180文の賃が出ている。これは、四日市へ出向いた時よりも3割増しとなっている。遠路であるためだろうか?
さて、旅に出るとき前もって借り受ける内借金というのがある。旅費の前借りにあたるわけだが、2人いた宰判は22両、同心2人も10両借りているが、足りなくなって江戸でまた10両借用している。ちょっとした武家様は、江戸へ往復に一人10両はかかったという事でした。
結びとして上野秀治氏は、一つの問題点を挙げている。
それは、庄助への対応であります。庄助は、事件当日、惚源新田の安兵衛と尾州春日井郡の浅之助らとで武装し、大塩の泊まる徳右衛門旅籠へ乗り込んでいる。そして、現場では火鉢の灰をぶちまけて逃げ出したり、最後には吉五郎が連れ出した花香を駕篭で桑名宿へ送ったりしている。桑名藩は、庄助を重罪とみて、江戸への護送の折、庄助だけを目籠(竹で編んだ檻で重罪人)に入れて運んでいる。しかし、江戸の幕府道中奉行は、無罪放免とした。これを上野氏は、幕府法と藩法の違いから来ていると書いてみえました。この記録は、私領である桑名宿の人間が、幕領(天領)である四日市宿で起こした事件の記録で、大変貴重なケースであると記してありました。
<後記> 自分なりに咀嚼して書いたつもりでしたが、結果は上野氏の丸写しに近い形になってしまったことをお詫び申します。
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