花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

ホーミーについての考察

2005年12月07日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
夜、外人さんが店に入ってきた。無視していたら声をかける。あたしゃ英語がまるでダメ。英語の授業が大嫌いだった。英会話教室に通う金もない。
(わん)を見せて欲しいと輪(りん)を指差しておっしゃる。日本語がお上手だ。先日ブログで書いたダルデンヌ監督みたいな顔をしている。大きいのが良いというので。あまり大きいのは高いから、ほどほどのを出した。
らしてみましょうか?と言って輪を布団の上に置き、輪棒でたたいて見せた。良いですか?といって、その外人さんは自分で棒をとり、輪の周りをゆっくりこすり始めた。濡れた指でグラスの淵をこすると音が出る。あのやり方だ。音の出るはずがない。
度は軽くたたいてからこすり始めた。なんと音が出だした。響きは徐々に大きくなる。驚きだ。こんな輪の鳴らし方は初めてだ。もっと大きいのを出して見せた。オイラがするとうまく音が出ない。今後、練習しますといったら笑われた。
ーミー、を知っていますか?モンゴルの人がウイェ~とうなる、アレだ。自分はそれをしている。少し出来ると実演してもらった。コマーシャルでやっている程ではなかったが、たいしたものだ。唇をつぼめ舌を曲げて肺の奥から、細くゆっくり息を出すと音が出るそうだ。舌の動きで音程が変わる。90秒くらい続けることが出来るとのたまう。
をうならせながらホーミーをする。細く長く出す息は健康に良い。お経もおなじだ。低い音は難しい。出来る人は、あまり居ないとのこと。喉を広く開け、肺の底から震わすように音を出すととても気持ちが良いし血液が浄化されるそうだ。
の外人さんは、3年前にも当店で輪を買って行かれたという。それはありがとうございますと礼を言ったら。友達に教えるので又来ます、といって帰っていった。なんじゃそれ
人でこっそりホーミーの真似事をやってみたら、結構サマになっている。なんや、簡単に出来るやんか。でも本当のホーミーはこんなものではないのかも。
の外人さん、確か「ホーミー」のことを「チャン」といっていた。何か勘違い?

昭和時代のお正月 その3

2005年12月06日 | レモン色の町
昭和36年1月2日。布団の中で先日壊れた百連発のコルト銃をいじる。直そうとすればするほどバラバラになってきた。頭に来ているところへ、いとこの博ちゃんが遊びに来た。
イラはご機嫌が悪い。二人でボーリングゲームをして遊ぶ。直径10センチぐらいの木の玉をピンにあてて倒す。運動神経がよくないので博ちゃんに負けてばかりだ。おもいきり転がした玉が博ちゃんにあたった。怒って帰ってしまった。まあ、しかたないか。
正月になると、座敷の8畳には赤い毛氈がいっぱいに敷かれる。うまくしたもので、これでお正月気分がぐっと盛り上がる。うれしいので姉ちゃんと毛氈の上を転げまわった。戦前は、ハレの火には屏風を立てたりして、何らかの模様替えでその日を迎えたらしい。その頃の名残だ。毛氈も隅がほころび始めている。
の横で香具師が手品をしていた。15センチほどの板の上に10円玉を置いてお猪口をかぶせる。一振りするとその10円は消えていた。また一振りすると10円玉が出現する。出たり消えたり自由自在だ。
れはいい貯金箱になると50円はたいて買ってきた。板に碁盤の目状に筋が入っていて、下から指で押し上げると板の真ん中が回転してコイン1枚が入る隙間があった。何枚も入るような気がしていたが、結局1枚しか入らなかった。お姉ちゃんの前でやって見せたが、簡単に見破られてしまった。
っこいしょ」という香具師も店を出していた。もち花1個に紙切れが入っている。これが当たりだ。10個くらいのカスと一緒に箱に入れ、客の前で転がす。ゆっくりまわすのでよく見ていると当たりが分かるようだ。
い間見ていると、お客の中にいつも同じおじさんがいることを発見した。あれがサクラやに、とおっかあから教えられた。後で前を通ったら香具師のおじさんとサクラのおじさん二人が、いつまでも「どっこいしょ」をしていた。
は茶碗蒸しが出た。大きな器に茶碗蒸しがぎっしりだ。食べ過ぎてゲップが臭いと思ったら戻した。それからは、銀杏が嫌いになった。

昭和時代のお正月 その2

2005年12月05日 | レモン色の町
昭和37年の年が明けた。元旦。誰も起きてこない。家の中も外も静かだ。
日までの騒がしさがまるで嘘のようだ。布団の中で年末に買ってもらった百連発のコルト銃をいじる。調子が悪い。どうやら壊れたようだ。ねじ回しで分解していたらいよいよ再起不能となってしまった。
は菜っ葉で炊いたシンプルな雑煮と、お重に入ったおせち料理だ。急いで食べて学校へ出かけた。昨日仕上げた学級新聞の新年号を配達する約束してあったからだ。
庭に新聞部員7名が集まる。分担してクラスの生徒宅に配達し、1時間後、再び校庭に集合した。配達先でお年玉をもらったやつがいた。皆で分けろと迫った、最後には懇願したが断られた。その友達と自転車の二人乗りをして帰る。途中、着物姿のお嬢さんに後ろからぶつかった。大して勢いもなかったのだが派手にこけた。横についていたお袋さんらしき人が、大きな声で怒鳴っていた。
末からお正月にかけて、諏訪公園には香具師の店が出て賑わっていた。見世物小屋の前ではおじさんがマイクで説明している。気のどくな生まれの娘さんだそうで、下半身がけだものみたいで、火を食べないと生きていけないという。どんな娘さんだろう。
じさんが一瞬だけ幕を開けた。なんと裸の娘さんの背中が見えた。その向こうには観客がボーっとした顔で舞台を眺めている。料金がタダのようなことを言うので、入ってみようとオイオらは友達の手を引いて中へ入った。
さんの下半身は布で隠されていた。初めに火のついたローソク1本を口の中へ入れてすばやく出した。次に10本のローソクに火をつけた。煙がもうもうと上がる。何をするのかと固唾を呑んでみていると、娘さんは大きく息を吸ってそのローソクの火を吹き消してしまった。だまされたような気持ちで、さっさと出口に向かうと、そこで料金を請求された。友達にさっきもらったお年玉を出させた。
球ゴマを売っていた。かね枠に入った金属製のこまをまわすと、鉛筆の先でバランスを取って回っていた。友達にお金を出してもらい二人分買った。それから、綿菓子の一番大きな露店をようやく探し出し、二人で買って食べた。今度は友達が自分から払うといった。
日後、友達の親から連絡が入って、内の息子が100円持って出たが全部使って帰った、何に使ったのかと聞いてきたらしい。
かあんにしっかり叱られた。

昭和時代のお正月 その1

2005年12月04日 | レモン色の町
昭和36年12月終業式の日。職員室の前に並び通信簿をもらう。後はこれをどうやって母ちゃんに見せるか。その難関さえ突破すれば、楽しいことがぎっしり詰まった冬休みに入る。
24日はクリスマスイブだった。お姉ちゃんがケーキを買ってきて、アメリカさんのまねでパーティをした。朝起きたら枕元におもちゃがおいてあった。百連発のコルト銃だ。サンタクロースの存在は半信半疑だ。
30日は早朝、暗いうちから皆で餅をついた。おいらはもち米を蒸す火の番。父ちゃんと下の兄ちゃんが搗き役。上の兄ちゃんが手返し。母ちゃんが搗きあがったもちを平たく伸ばす。家の中は湯気が一杯で、皆、額に汗がにじんでいる。
めの5臼は、座敷に並べる。あとで、四角く切って雑煮や焼餅にする。それからお鏡餅を作る。小さいのはオイラも作るが、大きいのは、父ちゃんの仕事だ。さて、お楽しみの時間が来た。最後のひと臼は皆で食べる。菜っ葉の甘辛く炊いたのと、餡子と、黄な粉にそれぞれまぶして食べる。大仕事を終えた後に食べる搗きたての餅は柔らかくておいしい。
きあがったひと臼分をリヤカーに積んで、姉ちゃんと二人で親戚の家へ届ける。人っ子一人通らない薄明かりの町を、姉ちゃんがリヤカーを引き、オイラが押す。吐く息が白い。届け先では、おばちゃんが出てきてお菓子をくれた。よく一緒に遊ぶ、いとこの博ちゃんが寝巻き姿で起きてきた。お正月に遊ぶ約束をして帰る。町はすっかり明るくなっていた。
末の町は、お正月用品を買う人でごった返していた。三が日はほとんどのお店が閉まってしまうので、ちょっと贅沢で、のんびりとしたお正月を過ごすのには、今のうちに買い込んでおかないと困ってしまうからだ。
31日の夜。担任の葛山先生に呼ばれて学校へ行く。お正月発行する「たけのこ新聞」を完成させるためだ。6年生の初め、葛山先生は熱い口調でこう言った。ある学校で学級新聞を毎日出しているところがある。だからお前達も作れ、と。
生の情熱に負けて、オイラたちは新聞部を作り学級新聞を発行することになった。7名ほどの部員は、給食のあとの掃除は免除という特権を与えられた。代償として、部員一同は記事を集めて、せっせとガリ版に向かった。
の職員室は初めてだ。なぜ31日の作業だったのか?たぶん先生が宿直の日だったからだろう。新聞部員3名で仕上げにかかった。モーさんのお正月。これが、たけのこ新聞正月号のタイトル。新しい年は丑年だった。
ーさんの新年の挨拶で始まる。みなさん、あけましておめでとうございます。今年はうし年。ぼくの名前はモーといいます(中国人みたいだ)。これから親せきをまわってお年玉をあつめることにします。数軒挨拶に回るが、成績は思わしくなく、10円、5円と数えて嘆く。そんな内容だったと思う。
写版に書きあがった原紙を貼り付け、大きなチューブから出したインクをローラーに絡ませて、わら半紙に刷り上げていく。先生にも手伝ってもらい午後8時ごろに刷り上がった。学校近くから取り寄せたうどんをご馳走になって帰った。
だ商店街はにぎやかだ。自分の店が一段落すると、まだ買い足りない正月用品の買出しに走る。今日ですべてが終わってしまうような雰囲気だ。
くの諏訪神社を覗きに行く。数日前から用意されていた丸太に火がつけられていて、参拝の人で賑わっていた。遠くのお寺で除夜の鐘が聞こえる。

浅草フランス座の時間

2005年12月03日 | レモン色の町
図書館で面白い本を見つけた。「浅草フランス座の時間」井上ひさし・こまつ座編著。文春ネスコ発行の本だ。
和22年、新宿帝都座5階劇場で、額縁ショーが爆発的ヒットとなり、日本のストリップショーの火種となった。この年の8月浅草ロック座が出来ている。ロック座の大当たりに続き、たちまち浅草はストリップのメッカになった。浅草座、帝都劇場、美人座、フランス座、カジノ座、公園劇場、百万弗劇場が軒を並べるようになる。
こで育ったお笑い芸人には、そうそうたるメンバーが並ぶ。伴淳三郎・由利徹・長門勇・渥美清・谷寛一・関敬六・茶川一郎・財津一郎・東八郎・戸塚睦夫・三波伸介・萩本欽一・ビートたけし。
時の興行には、1時間半のショーに1時間の喜劇が付いた。客は女性の裸を見に来るのだけれど、裸を並べただけではありがたみが分からない。正反対の喜劇をショーの間に挟みこむことで「構造」を作った。
たき上げの喜劇役者が育った。何が何でも爆笑の渦にしてやろうと必死だったそうだ。渥美清は語る。当時は弁当持参でストリップショーを見に来る客が多かった。ほとんどがショーの間の喜劇芝居のときに弁当を食べる。そこで渥美清は自分の舞台で、客に弁当を食べさせる暇がないくらい笑わせようと頑張った。
なり前の事になるが、オイラも新宿歌舞伎町のストリップ劇場を覗いたとき、ショーの合間にコントをやっていた。日活ロマンポルノの「未亡人下宿」に出ていた学生役の俳優が一人でしゃべっていた。陰気な雰囲気をぶち壊すような面白い話に、救われた気分だった。
野武は昭和47年、フランス座で初舞台を踏んだ。井上ひさしは昭和31年に、フランス座の文芸部に入った。北野武の初仕事はフランス座のエレベーターボーイだったそうだ。二人の対話で武はこんなことを話している。彼の映画には不意打ちがある。
意打ちはわりかし漫才に似ている気がしますねえ。ぼくの好きなネタにこういうのがあります。クイズ番組の司会という設定で、「次の方どうぞ。お名前は?」「小林信夫といいます」「ああ、フランス人の方ですね」
さにナンセンスの不意打ちだ。おもしろいですか?
り子名鑑にも興味深い話が載っていた。演劇評論家の石崎勝久氏談だ。マリア・マリという踊り子がいた。ロック座とカジノ座だけで20年間まじめに勤め上げた、この世界のためだけに生まれてきたような子だった。弟を大学に通わせるために踊り続けた。一度結婚したが失敗、再び浅草に帰ってきたが、アパートの2階から落ち、その怪我が元で短い一生を終えたそうだ。ドラマを地でいっている。
り子というのはダマされやすいし、気の小さい、優しい子が多いから、酒に溺れる子が多いのもよく分かりますね。失恋の痛手から自らの命を絶った子もいます。きっとみんな寂しかったんでしょう」
して、関西から裸を見せるだけのショーが入ってきて、古き良き浅草のストリップショーは変貌していくのです。