語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】フランス ~ノートル・ダム~

2010年06月05日 | □旅
 700年間以上風雨にさらされつづけてきたゴシック様式建築の概観はうす汚れていたが、内部の暗い壮大な空間の高みにはヴィトロー(玻璃窓)が色鮮やかな光を発散していた。入口付近で老婆や若い夫婦が蝋燭をともし、蝋燭の光は河となって奥へつらなる。椅子にすわって頭をたれ、真剣に祈るあまたの人々。彼らは独りで絶対者と向かいあっているのだ。ノートルダムが落成した1245年以来、こうした情景が連綿とつづいいてきたはずだ。

 暗い寺院のなかで、森有正のことを考えていた。
 森有正は20年間、毎日のようにノートル・ダムを目にし、自分の思索を形成していったが、ついに完成しなかった。完成させるには、ノートル・ダムが建っていたのと同じだけの時間が必要だ、と感じていたのではないだろうか。
 すくなくとも私は、そう感じていた。むろん、人の一生はノートル・ダムが建っていた時間を越えることはできない。したがって、フランスはもとよりヨーロッパをほんとうに理解することは、ついにできない・・・・。

 『森有正エッセー集成』全5巻のなかで、わけても『遙かなノートル・ダム』には愛着がある。理由はごく単純だ。私が初めて森有正に接したのがこのエセーの一節だからだ。
 話は、高校生時代にさかのぼる。ラジオの受験講座、現代国語のテキストに『遙かなノートル・ダム』からの引用があった。引用箇所はよく覚えていない。また、講師がどんな解説をしたかも記憶にない。だが、その透明で明晰な文章が強く印象に残ったのは確かである。学生になってから、すこしずつ森有正を読んでいった。

 正直いって、いまもって森有正の思想はよくわからない。留学後の森は、まとまった著作を残さなかった。残されたのは、断片的なエセーばかりである。
 森有正は、一見西欧文化に埋没したかにみえて、「蜂が蜜をたくわえるように」(リルケ)蓄積していったその思想を、初めて体系的に書こうとしたとき、突然の死によって中断させられた。遺著となった『経験と思想』(岩波書店、1977)がそれである。

 「経験」は体験と区別される。感覚は体験を構成し、体験は加齢とともに機械的に増加する。体験は、反省をへて「経験」にいたる。言葉は、「経験」によって定義される。
 森有正の中心概念を簡単にいえばこういうことだろう、と思う。

 他方、『森有正エッセー集成3』に所収の『ルオーについて』で森有正はいう。
 「朝は早く起き、夜は早く寝、一分間もぼんやり夢想なぞしない、極度に規則正しい、勤勉な生活」・・・・朝早く起きるあたりは、わが国のサラリーマンと同じようにみえるが、その後がだいぶちがう。森有正はさらに続ける。「その規律がひと人から強制されずに、またいわゆる勤倹節約の標語ともならずに、そうしないでは不安でいられない、内側からおのずと湧き出してくるリズムとなっている生活、ルオーの生活は、フランス人一般の生活のすこしも例外ではなく、その一つにすぎない」
 そのフランス人一般の生活とは、要するに「衣食住の隅々まで、人に媚びるところの一切ない生活、実質的で落ち着きがあり、堅牢なその生活」である。
 こうした堅固な日常性のうえに立ってルオーの創造があり、森有正のいわゆる「経験」があった。
 21世紀の日本において、かかる堅牢な生活を維持できる人はそう多くないだろう。

【参考】森有正『遙かなノートル・ダム』((二宮正之編)『森有正エッセー集成3』、ちくま学芸文庫、1999、所収)
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書評:『戦場の掟』 ~ビッグ・ボーイ・ルール、民間軍事会社のイラク~

2010年06月05日 | ノンフィクション
 イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、2003年3月20日にはじまり、戦闘は2003年中にいちおう終了した。しかし、その後もイラク国内の治安はおさまらず、戦闘はたびたび勃発した。
 駐留した軍隊の後方支援は、アウトソーシングされた。「外注」によって、公表される戦死者の数値も軍事費も減る。議会に対して説明しやすい。かくて、イラクで民間軍事会社(本書では「民間警備会社」)が雨後の筍のように出現し(百を超える)、急成長をとげる。イタリア軍ほか、正規軍さえ民間軍事会社に警備された。日本の自衛隊もまた、民間軍事会社に警備された。2007年末までに、「ブラックウォーター」社(訳者あとがきによれば2009年2月以降は「Xe]社)は、イラク戦争により10億ドルを得ていた。
 本書は、イラクで活動した民間軍事会社の業務のうち、コンボイ輸送を中心に取材したルポタージュである。

 すぐれたルポタージュはいずれもそうだが、ピュリッツァー賞を受賞した本書も人間を描く。
 戦争に惹きつけられるとしか言いようのない人がいるらしい。
 プロローグから一貫して著者の関心のまととなっているジョン・コーテもその一人である。陸軍を満期除隊後、フロリダ大学で会計学を学ぶのだが、うまく適応できない。人付き合いのよい好男子で、彼を慕う異性もいるのだが、アフガニスタンとイラクの従軍体験が脳裡から消えない。かつての戦友の勧誘にのって民間警備会社「クレセント・セキュリティ・グループ」の社員となり、イラクにもどって墓掘り人夫のように陽気にすごすのだ。
 コーテの相棒ジョシュア・マンズも、海兵隊退役後に就いた仕事に死にそうになるくらい退屈し、「全身全霊にショックをあたえて、まだ自分が生きているんだと実感する必要があった」から、この仕事に転職した。
 二人をふくむチームのリーダー、ジョン・ヤングは、ふつうの勤め人の生活をしたいのだが、できない。「人生のふつうのことを味わいたい。でも、おれはふつうじゃない」、イラクを離れることはできない、という。

 民間軍事会社が提供する報酬は高額である。ことに優秀な軍歴保持者には。
 学費を稼ぐつもりのコーテは、退役時点で軍曹として月給1,967ドル70セントが支給されていた。しかるに、ふたたびイラクで銃を手にした報酬は7千ドルであった。米軍の准将の月給に相当する。それでも、この産業の水準からすると安いほうなのだ。
 「トリプル・キャノピー」社のチーム・リーダー、J-ダブことジェイク・ウォッシュバーンは日給6百ドル、月に2万ドルちかくを稼いだ。他の「エキスパート」の日給は5百ドルである。
 高額の報酬は、業務上の危険の対価である。のみならず、死傷後の保障がない代償である。
 それどころではない。社員には、ジュネーヴ条約やハーグ陸戦条約の定める捕虜の権利は適用されない。
 2006年11月15日、クレセントの車輌縦隊37台および護衛車5台が襲撃され、コーテ、マンズ、ヤングほか2名が拉致された。コーテの遺体がみつかり、その死をFBIが家族に公式に告げたのは、2008年4月24日である。他の4名も遺体となって発見された。拉致から死亡宣告までの間の家族の苦悩が本書のひとつの肝所である。「コーテは死んだわけでもなければ消滅したわけでもない。いまなおどこかにいる。それがもっともおぞましいことだった」
 著者は、取材中にガンで逝去した父親に対する思いをコーテたちの家族の思いと重ねている。

 民間軍事会社もまた、戦時国際法を無視する。いや、それどころか、米国の法規もイラクの法規も無視する。
 たとえば、前述のJ-ダブは、「きょうはだれかを殺したい」と遊び半分でイラク市民に発砲するのだ。J-ダブは、事件を報告した同僚ともども解雇され、同僚は起訴したため、事件が明るみにでた。
 闇から闇にまつられた事件は数知れないらしく、本書はそのいくつかを探しあて、報告する。イラク市民に対する賠償金をねぎる米軍当局のうごきも伝える。
 無辜の民を殺害しても、お咎めなしの法的根拠は、連合国暫定当局が最後に発行した CPA(連合国暫定当局)指令(Order)第17号である。民間軍事会社はイラクの法律に従う必要がない、とされた。あらゆる免責特権が認められ、完全に治外法権化された。そして、米国政府には民間軍事会社を規制する政府機関も法的根拠もなかった。
 「ビッグ・ボーイ・ルール」(本書の原題)すなわち「法の空白」が現地のルールとなった。民間軍事会社は、傍若無人にふるまい、イラク人の怨嗟の的となる。
 イラク在住の傭兵の正確な数は、ついに不明のままだ。国防省の推定によれば2万5千人、会計検査院の推定ではその倍の4万8千人、と本書は伝える。  

 2007年2月、デービッド・ペトレイアスがイラク駐留米軍の司令官に就任し、状況に変化が生じた。派兵兵員が増強され、治安維持が強化された。
 ペトレイアス司令官は、民間軍事会社をイラクから締め出す。
 しかし、国務省とつながの深い「ブラックウォーター」社は、依然として健在であった。
 ところが、2007年9月16日、「ブラックウォーター」社の輸送チームは、イラク民間人17人を殺害し、24人を負傷させる事件をおこした。
 本書に記されていないが、これを契機にイラク政府はついに厳しい措置をとる。2009年1月1日付けでCPA指令第17号の無効を宣言し、民間軍事会社から免責特権を剥奪したのだ。 この結果、民間軍事会社はイラクの国内法に従う義務が生じ、会社はイラクから撤収していく。

□スティーヴ・ファイナル(伏見威蕃訳)『戦場の掟』(講談社、2009)
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