語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】「High Noon」 ~『真昼の決闘』~

2010年06月07日 | 詩歌
   勇敢な男は立っていた
   丘のうえの高い一本の樹のように
   しっかり根をはって
   正午を待っていた
   静かだ、死が来る前の静かさだ
   時々、小川のせせらぎがきこえる
   「川というものには
   悲しさと嬉しさがまじっている」

   勇敢な男は拳銃をとった
   彼を愛している者は誰もなく
   彼が愛している者は彼から去った
   真夏の灼けつく土
   時計の音を失った時の地帯で
   ただ一人、四人の敵を待っている
   彼の心臓はぷつぷつと炎の泡を吹いた
   大海のように荒れ、また凪いだ

   火薬の匂いが軒下をはっていた
   勇敢な男の任務は終わり
   蝉が鳴いた
   あわてて教会の鐘が鳴った
   彼は急に自分の背が低くなったことに気づいた
   水道の栓をひねり
   すこしの水が喉を流れていった時
   彼は生命の流れていくのを知った

   *

 現代詩は難解をもって知られるが、こうしたわかりやすい作品もあるのだ。しかも、叙事詩である。格調がある。「彼は」のごとき欧文脈が、効いている。
 3つの連のいずれにおいても「勇敢な男」という言葉が繰り返される。反復されることで、「勇敢な男」をとりまく状況の変化、つまり事件の推移がくっきりと明かになる。
 ヤマは第2連にある。「彼の心臓はぷつぷつと炎の泡を吹いた/大海のように荒れ、また凪いだ」で頂点に達する。華麗な比喩がクライマックスの到来を告げる。

 この詩は、申すまでもなく、フレッド・ジンネマン監督の映画『真昼の決闘』を下敷きにしている。
 映画と(原作の)小説とは別のジャンルだ。
 同じく詩も映画とは別のジャンルだが、映画は小説よりは詩にちかい。
 映画をみて「感動した」という人はけっこういる。他方、映画をみて「新しい知見を得た」という人はすくない。
 「感動した」とは、情念を動かされた、ということだ。そして、詩は情念をもろに表出する。「映像詩」のごときフレーズが登場するゆえんである。
 映画は大衆芸術、詩は選ばれた少数のもの、という違いはあるが、情念の神経を刺激する装置という点で親近性があるのだ。

 中桐雅夫は、鮎川信夫、黒田三郎、高野喜久雄、田村隆一、三好豊一郎、吉本隆明たちとともに詩誌『荒地』に拠り、後に詩誌『歴程』にも参加した。詩集『会社の人事』(藤村記念歴程賞受賞)ほか、詩集および訳書多数。

【出典】中桐雅夫「High Noon」(『現代詩文庫38 中桐雅夫詩集』、現代思潮社、1971、所収)
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書評:『JAL崩壊』 ~スチュワーデスたちの目、現場からの再建策提案~

2010年06月07日 | ノンフィクション
 日本航空(JAL)は、2010年1月に倒産した。それもむべなるかな、と読者に思わせる実態をきれいにサッパリと公開したのが本書。併せて、現場からの再建策を提案している。
 と書けば、なにやら堅苦しいレポートを連想するにちがいない。ところが、どうしてどうして。航空業界の内幕はそれだけで興味深い。かてて加えて、語り口は女性同士の井戸端会議のような生きのよいおしゃべり口調で、しかもいささか辛辣、シニックといってもよい観察がふんだんに盛りこまれているから至るところで笑わせられる。
 当事者のJALとしては笑いごとではあるまいが、部外者は「我関せず焉」で、ベルグソン的笑いの権利を有する。ことほど左様に“空飛ぶスキャンダル”が満載されているのだ。

 ところで、本書の著者である客室乗務員とは、チーフパーサー、パーサー、キャビンコーディネーター、スチュワーデスのことだ(現在では一部社内の呼称は変わっている)。彼らが日常的に関わるのは(同僚を除けば)第一にパイロット、第二に上司、つまり管理職乗務員である女性マネージャー、あるいは乗務部室長、第三に乗客である。したがって、この順に槍玉にあがっている。さらに、過度に戦闘的な組合もターゲットとなっている。

 パイロットは、高禄をはむくせにカネに汚く、しかも何かと会社と対立する。本書は、自分たちの利益をまもることに汲々とする彼ら機長管理職組合を「勘違い集団」と決めつけ、手厳しい。そもそも普段のふるまいが客室乗務員の信頼を損ねているのだ。操縦室では居眠りするは、乗客用の新聞・週刊誌を濫読するは。語学力不十分のため管制官と意思の疎通を欠き、あわや事故・・・・というヒヤリハットが生じたこともあったそうな。

 上司は上司で、「マニュアル・就業規則」の厳格な適用しか頭になく、「思考回路がデジタル的」と揶揄される。「個別の対応」つまりケースバイケースの処理ができないため欠勤者が増え、出勤した客室乗務員の3割にあたる者が休んでいるのが常態だ、と本書は暴露する。・・・・同性にきびしい上司も上司だが、70-80%は独身の彼らを「負け犬スッチー」やら「魔女の館」と罵詈する部下も部下である。

 返す刀で乗客を斬るのは、江戸の仇を長崎で、みたいな気もするが、ここでもJALの経営に係る問題点が指摘されているのだ。JALが定時発進しない最大の理由は、定刻に搭乗しない乗客がいるからだ。そして、客に毅然と対応しない会社の体質がこれを許容しているからだ。ちなみに、海外の航空会社の飛行機は、定刻になるとサッサと発進する。遅れに遅れた一人の政治家を待ちつづけ、出発を1時間遅らせる事態なぞ、むろん生じない。

 組合については、終章のタイトル「労働組合は裁判がお好き」を眺めるだけで十分だ。著者にとって、「何でも反対CCU」と揶揄される存在でしかない。ここでいうCCUとはキャビン・クルー・ユニオンの略で、本書によれば組合員数は約1,400人である。ちなみに、御用組合JALFIOは約5,600人のよし。とにかく、CCUに対して、著者は『沈まぬ太陽』の山崎豊ほど同情的ではない。もっとも、御用組合のえげつなさも俎上にのせている。

 こうたどってみると、本書は一見客室乗務員が日ごろ感じているウップン晴らしのようにみえる。しかし、辛辣なことばの背後に、組織の一部門ではたらく者がその同僚を守り、職場環境を改善したいという希求がにじみでている。したがって、提案はきわめてまともだ。
 たとえば、1995年にはじまった「契約制スチュワーデス」の奴隷的制度を廃止すること。
 あるいは、客室乗務員と地上職を一括採用し、相互に人事交流をおこなうこと。

 本書は、もっぱら「ミクロの視点から」(まえがき)するJALの問題点の指摘と改善の提案だが、組織の一部門の担当者であろうとも組織全体を展望できるし、展望しなければ担当する部門の役目とその意義を正確に把握できない。じじつ、本書の冒頭ではJAL全体に関わる問題を両断している。
 すなわち、旧日本エアシステム(JAS)との統合・合併である。2006年に完了したのだが、経営上の大きな失敗だったとみて、理由を列挙する。
 第一に、JASには巨大な負債があった。第二に、JASの飛行機はJALのそれとの互換性がなく、したがってパイロットの「やりくり」に効率化はのぞめない。整備や備品についても同じことがいえる。第三に、JASの赤字路線をまるごと抱えこんだ。第四に、JASのパイロットをJALのそれと同じ有利な雇用条件で吸収した。
 本書が指摘する経営上の大失敗は、それだけではない。JALは、為替とオイルのヘッジで数千億円の赤字を出したらしい。

 こういった実態をふまえて、第一章末尾で再建のための「私案」を公開している。
 第一、JASを分離、独立させて別会社ないし子会社とする。
 第二、ANNと合併、大連立をもくろむ。
 第三、外資に経営を委ねる。
 第四、会社更生法を適用する。

 贅言ながら、第四点は本書刊行直前に現実のものとなった。

□日本航空・グループ2010『JAL崩壊 -ある客室乗務員の告白-』(文春文庫、2010)
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書評:飯田龍太『鑑賞歳時記 第二巻 夏』 ~創作に匹敵する鑑賞~

2010年06月07日 | 詩歌
 俳句は世界で最短の詩である。切れ字などの約束事は多いし、言葉は極度に省略され凝縮され、説明しようとする親切なぞてんでない。つまり、俳句は読む側の経験と想像力を問う文芸である。作品鑑賞は、さほど容易でない。
 かてて加えて、鑑賞するに値する作品にめぐり会うには運がいる。世には、エネルギーを費やすに価しない未熟な作品が浜の真砂ほどあるからだ。

 さいわい、ここに飯田龍太がいて、秀句を選出し、鑑賞してくれた。すなわち『鑑賞歳時記』全4巻である。四季別にそれぞれ一巻をたて(「新年」は「春」の巻におさめる)、各巻ごとに季語による索引が付されているから歳時記の機能も併せもつ。
 読者は、龍太の導きに素直にしたがうだけで、現代俳句の魅力を存分に味わうことができるし、併せて自然の豊かさを満喫できる。

 世に知られた専門俳人の作品もとりあげられているが、大部分は無名の俳人による作品である。龍太は、俳句は無名がよい、と言い切ったひとだ。
 一例を引こう。すなわち、「童顔の僧の出てくる夏の寺」、作者は新海昭和。
 これを著者はつぎのように鑑賞する。

 「『童顔の僧』というと、まだ幼顔の、若い坊さんといううけとり方もあるが、この場合は、すでに相当の年輩だが、童のようにふくぶくしく若々しい坊さん、という意味合いである。また、夏の寺といえば、寺の行事の有無より、茂る樹木と大きな屋根を想像する。つまり湿った印象はどこにもない盛夏の寺。そこから元気な老僧が突然現れた、という句。作品の叙述から、もとより老僧は顔見知りのひと」

 気合いの入った鑑賞だ。創作に匹敵する。龍太俳句の鋭気は、散文にも及んでいる。
 鑑賞を一読後、作品にもどると、最初読んだときのいくぶん曖昧な印象は払拭され、うって変わって鮮明なイメージが瞼の裏側に浮かぶ。
 ここまで言い切ってよいのか、と思われる方は、いまいちど「童顔の僧の出てくる夏の寺」をじっくり舌頭にころがしてみるとよい。もしかして本書の鑑賞とは別のイメージが湧いたなら、一筆したためてみよう。これはまたこれで楽しい作業だ。

□飯田龍太『鑑賞歳時記 第二巻 夏』(角川書店、1995)
【参考】飯田龍太『鑑賞歳時記 第一巻 春』(角川書店、1995)
    飯田龍太『鑑賞歳時記 第三巻 秋』(角川書店、1995)
    飯田龍太『鑑賞歳時記 第四巻 冬』(角川書店、1995)

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