語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】組織人はどこまで人道を踏み外すか ~「アイヒマン実験」~

2010年06月24日 | 心理
 「書評:『心理学で何がわかるか』」で引いた集団圧力の実験でアッシュの助手をつとめていたのがスタンレー・ミルグラム。 
 1961年、ミルグラムは、学習に対する罰の効果を調べる、という目的で次のような実験をおこなった。

 被験者は、新聞広告によって募集した。郵便局員、高校教師、セールスマン、エンジニア、肉体労働者などふつうの住民296名の応募があり、このなかから被験者が選ばれた。
 教師役となった被験者(X)は、学習役となった別の被験者(Y)に単語の対を読みあげて学習させる。次に、Xは最初の単語を4つの単語と並べて読みあげ、Yに正解を言わせる。Yが間違えると、ただちに電気ショックで罰を与える。Yが確実に電気ショックを受けるよう、両腕はイスに固定され、拘束されていた。
 電気ショック送電器には、30個のレバースイッチが付いていて、左から右に15ボルトから450ボルトまで送電できる。「かすかなショック」「「中程度のショック」「強いショック」「非常に強いショック」「危険-すごいショック」などと表示されていた。 Xは、次のように指示された。Yが間違えるたびに電気ショックを与える。間違えるたびに電気ショックの水準を一つあげる。ショックを与える前にレバースイッチの表記を読みあげる。30番目の450ボルトの水準に達っしたら、この水準で実験を続ける。
 Xが最高の450ボルトで2回続けると実験は停止された。
 なお、Xは実験開始前に45ボルトのサンプル・ショックを受けるので、XはYの痛みを実感できる。
 実験者は、Xが実験の続行を嫌がっても、Xが従うまで(1)「お続けください」、(2)「実験のために、あなたが続けることが必要です」、(3)「あなたが続けることが絶対に必要です」、(4)「迷うことはありません。続けるべきです」・・・・という順で勧告し続ける。Xがどうしても実験者に従わない場合は実験が中止される。

 Yは、じつはサクラであった。事前に入念な演技指導がおこなわれた。
 Yは、75ボルトのショックを受けるまでは不快感を示さず、ちょっとだけ不平をもらす。電圧が上がると不平が増える。120ボルトになると大声で苦痛を訴える。135ボルトでは苦しいうめき声となる。150ボルトでは「もう嫌だ!」と絶叫する。180ボルトでは「痛くてたまらない」と叫ぶ。270ボルトでは金切り声になる。300ボルトでは絶望的な声になる(実験ではこのあたりでXは実験者の指示をもとめたが、無答は誤答であるので、ショックを与えるように指示された)。315ボルトではすさまじい悲鳴をあげる。330ボルトでは無言になる。

 精神科医、大学院生、教員など100名にXの行動を予測させた。Xの大部分は、150ボルトの水準にいくまでに実験を止めるだろうし、最高のショック水準にいくのはせいぜい千人に一人くらいだ、という予想だった。
 ところが、40名のXのうち26名は、単に実験者が命令しただけで450ボルトの致死水準のショックをYに与えつづけた(Xはいらだち、ためらってはいた)。

 ミルグラムは、XとYとの距離の要因をいれた実験など延べ11の実験をおこなった。
 追試は45年間おこなわれなかった。
 2006年、バーガが第5実験(学習者が心臓の懸念を表明する音声フィードバック条件)の追試をおこなった。40名の教師役被験者(X)のうち、150ボルト以上の電気ショックを与えたのは、28名であった。ミルグラムの第5実験では40名中33名であり、わずかに少ないだけであった。
 「ミルグラムの服従実験は、社会システムに組み込まれた一塊の人間を、あまりにも生々しく浮き彫りにした」

【参考】村上宣寛『心理学で何がわかるか』(ちくま新書、2009)
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【読書余滴】時代劇のズサンな時代考証

2010年06月24日 | 批評・思想
●『大岡越前』
<ドラマ>
 あこぎな借金とりたてに、泣く泣く長屋を出て行く親子。彼らがひく荷車に積まれたふとんに、ふとんカバーがついていた。ふとんの下には取っ手のついたタンスが。
 打ち上げで、大岡越前や岡っ引きたちが町の飲み屋のテーブルを囲んで、椅子に腰かけている。
<考証>
 ふとんカバーが一般家庭に普及したのは戦後である。
 ふとん本体も、江戸時代の長屋にはまだ少なかった。あっても木綿の縞模様のせんべいぶとん。ほとんどの長屋の貧乏人は、昼間の着物をかぶるか、ムシロ、または紙でつくったふとんで寝ていた。
 また、当時の長屋にはタンスはなかった。あるものは、せいぜい行季くらいだった。
 ついでにいえば、長屋には押し入れもなく、畳のない板の間がふつうだった。
 なお、当時の飲み屋では縁台に腰かけたり、縁台にあがったりして、杯やどんぶりを手にもって飲み食いしていた。テーブルなんか、なかったのだ。

●『遠山の金さん』
<ドラマ>
 飲み屋のおかみさんが、毎日ブラブラしている金さんを心配して、求人広告らしい紙を手に読みあげた。
 年収300石の旗本の屋敷で金さんにやっつけられた侍が十数人いた。
<考証>
 天保期、雇用の周旋屋はあったが、店の前にびらを貼るくらいで、求人瓦版はなかった。当時は、身分=職業で、無職は完全なドロップアウト人間だけだった。
 年収300石の旗本が雇用できる侍は数人程度であった。

●『桃太郎侍』
<ドラマ>
 町火消しと定火消し(幕府の火消し)との火事場での争いからはじまる。
<考証>
 吉宗将軍の時代に「いろは」の組制度がととのった。各組には非情に厳密な管轄区域が線引きされていたから、それを越えてしゃりしゃり出る町火消しはなかったはずだ。トラブルが生じるのは、火が境界線にせまってきたときの組と組、また幕府関係の施設にある区域の町火消しと定火消しぐらい。それも小競り合いていど。
 江戸の町火消しの組名は、「いろは」47文字あったが、語呂のわるい「へ組」「ら組」「ひ組」だけは「百組」「千組」「万組」に置き換えられていた。
 ひとつの組が平均30-40の町を管轄していた。半鐘が鳴り始めてから一団が現場に到着するまで30分は要した。着いたころには、安普請の長屋なぞとっくに燃えつきていた。
 当時の消火活動の本務は、火元周辺の長屋や商家、必要があれば武家屋敷も壊しまくり、燃えるものをなくすることだった。町民も火事慣れして、焼死する人なぞめったにいなかった。

●『暴れん坊将軍Ⅱ』
<ドラマ>
 将軍がおしのびであっても単身遊郭へ出かけていき、「この泥沼から抜け出して、幸せになろうという気持ちはないのか!」と説教する。
 (ちなみに、このドラマ、最後のタイトルバックで、将軍が元気に諸肌ぬいで弓をひく。その背後には姫路城がそびえていた。)
<考証>
 将軍がひとり吉原へ、というハチャメチャな設定はさておき、そもそも吉原は、官許の、いわば幕府の委託事業であり、幕府の財源なのであった。

●『新・大江戸捜査網』
<ドラマ>
 夜ふけの河岸で18歳のシロウト娘が大工に声をかけ、「あの、小判をあげますから、私を抱いてください」
<考証>
 夜中の河岸をシロウト娘がほっつき歩くなんて、当時の江戸の町の構造からして不可能だった。江戸の標準的な町は、道路をはさんで両側にびっしりと家が建ち並んでいた。奥行き60間(約108メートル)、幅20間(約36メートル)が1ブロックになっていて、いちばん表に面した家には大家さんが住んでいた。大家さんが店子の出入りをチェックしていたし、町の出入り口には保安管理上、大きな格子の木戸があって、昼間は開放してあるものの、午後8~10時頃になると閉め切って、町の番人が見張っていた。原則として、火事でもないかぎり木戸は開けなかった。
 当時は、午後9時をすぎたら家の中にいるのが当然で、町の外にでられなくても、さほど不自由しなかった。

●『長七郎江戸日記』
<ドラマ>
 佐渡の漁民が勘定奉行に直訴しようとする場面、奉行所には表札が掲げられていた。
<考証>
 各藩の上屋敷、下屋敷に表札はなかったし、奉行所にも同じく。

   *

 以上、ネタ源は、某国立大学助教授(当時)【注】の「時代劇日記」のよし。とりあげられているのはちょっと古いTVドラマだが、いまの時代劇も事情はさして変わるまい。

 【注】2007年4月1日施行の「学校教育法の一部を改正する法律」により「助教授」の職階は廃止、代わりに「准教授」が置かれた。

【参考】週間朝日風俗リサーチ特別曲『デキゴトロジー vol.5 -ホントだからまた読んじゃうの巻-』(新潮社、1986)
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