(1)遅刻で名高い歴史的人物は、宮本武蔵だ。
巌流島の決闘に平然と遅れて行った。
高札に記された時刻は辰の上刻だったが、その午前7時にはのんびり絵を描いていた。藩士が二度せきたてても、一向に気にしない。結局、試合場に到着したのは巳の刻過ぎ、10時15分ないし10時半だった。
遅れて来るのは、一乗寺下り松のときも三十三間堂のときも、いつも武蔵がつかう手、あるいは癖なので、またか、いや逃げたんじゃないか、と小次郎は腹をたてながらも迷っていたにちがいない。うっかり鞘を海中へ投じるはめになってしまった。
(2)前近代の日本人は、一般に時間意識がゆるやかだった。辰の上刻といえば、午前7時から8時までだった。7時45分に着いても許容の範囲内だった。
それに、前近代には不定時法という制度があった。日の出と日の入りで昼夜を分ける。したがって、季節によって時刻がちがう。辰の上刻も、冬至には8時8分から、春分・秋分には8時から、夏至には7時2分から、という調子で移動した。
(3)サラリーマンである武士とって、出勤、退庁の時刻を知るのは大事だから、城では櫓太鼓で時を告げた。
この武士的時間に対し、農民は寺の鐘が時を告げてもさほど気にせず、のんびりと農民的時間を過ごした。
(4)宮本武蔵は、武士ではなかった。農民出身であった。一旗あげようとした農民が、関ヶ原へ行ってしくじったのだ。剣術つかいになってからも、勤め人にはならなかった。武芸者という芸術家だった。しかも、絵描きという芸術家でもあった。だから、遅参を屁とも思わなかった、という面がかなりありそうだ。
(5)宮本武蔵がずるかったのは確かである。
仮に、そのずるさが裏目にでて佐々木小次郎が2時間待って引き上げ、「武蔵は臆病風に吹かれて来なかった」と言いふらしたら、皆がみんな小次郎を支持するわけではないとしても、武蔵の名声は傷ついたにちがいない。
だから、一体どのくらい遅れて行ってもまだ相手が待っているか、という計算しなくてはならない。つまり、佐々木小次郎はどの程度まで武士=勤め人的であって、どの程度まで農民=芸術家的であるか。そこのところを見きわめる点で、武蔵は天才的であった。
(6)ちなみに、「遅刻」という言葉は新語で、『日本国語大辞典』によれば、『航米日録』(1860)が初出。その次が坪内逍遙『当世書生気質』(1885-86)であるよし。それまでは「遅参」という言葉をつかっていた。
□丸谷才一『双六で東海道』(文藝春秋、2006)の「遅刻論」
↓クリック、プリーズ。↓
巌流島の決闘に平然と遅れて行った。
高札に記された時刻は辰の上刻だったが、その午前7時にはのんびり絵を描いていた。藩士が二度せきたてても、一向に気にしない。結局、試合場に到着したのは巳の刻過ぎ、10時15分ないし10時半だった。
遅れて来るのは、一乗寺下り松のときも三十三間堂のときも、いつも武蔵がつかう手、あるいは癖なので、またか、いや逃げたんじゃないか、と小次郎は腹をたてながらも迷っていたにちがいない。うっかり鞘を海中へ投じるはめになってしまった。
(2)前近代の日本人は、一般に時間意識がゆるやかだった。辰の上刻といえば、午前7時から8時までだった。7時45分に着いても許容の範囲内だった。
それに、前近代には不定時法という制度があった。日の出と日の入りで昼夜を分ける。したがって、季節によって時刻がちがう。辰の上刻も、冬至には8時8分から、春分・秋分には8時から、夏至には7時2分から、という調子で移動した。
(3)サラリーマンである武士とって、出勤、退庁の時刻を知るのは大事だから、城では櫓太鼓で時を告げた。
この武士的時間に対し、農民は寺の鐘が時を告げてもさほど気にせず、のんびりと農民的時間を過ごした。
(4)宮本武蔵は、武士ではなかった。農民出身であった。一旗あげようとした農民が、関ヶ原へ行ってしくじったのだ。剣術つかいになってからも、勤め人にはならなかった。武芸者という芸術家だった。しかも、絵描きという芸術家でもあった。だから、遅参を屁とも思わなかった、という面がかなりありそうだ。
(5)宮本武蔵がずるかったのは確かである。
仮に、そのずるさが裏目にでて佐々木小次郎が2時間待って引き上げ、「武蔵は臆病風に吹かれて来なかった」と言いふらしたら、皆がみんな小次郎を支持するわけではないとしても、武蔵の名声は傷ついたにちがいない。
だから、一体どのくらい遅れて行ってもまだ相手が待っているか、という計算しなくてはならない。つまり、佐々木小次郎はどの程度まで武士=勤め人的であって、どの程度まで農民=芸術家的であるか。そこのところを見きわめる点で、武蔵は天才的であった。
(6)ちなみに、「遅刻」という言葉は新語で、『日本国語大辞典』によれば、『航米日録』(1860)が初出。その次が坪内逍遙『当世書生気質』(1885-86)であるよし。それまでは「遅参」という言葉をつかっていた。
□丸谷才一『双六で東海道』(文藝春秋、2006)の「遅刻論」
↓クリック、プリーズ。↓