語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【丸谷才一】短編小説から長編小説へ ~文学史~

2016年02月24日 | ●丸谷才一
 (1)近代日本文学は、小説中心であるとよく言われる。代表的な文学者を三人あげるなら、夏目漱石、谷崎潤一郎および大岡昇平だ。
 日本の文学では、詩や戯曲や批評の位置は低い。その理由ないし原因はいろいろあるが、19世紀ヨーロッパという小説の時代に刺戟されて成立したことが大きい。
 ただし、英米では小説を長編小説と短編小説に分けるが、わが国では普通こんな細分をせず、漠然と「小説」と呼ぶ。

 (2)わが近代文学は、長編小説作家漱石から本式に出発する形をとりながら、少なくとも戦前は長編小説を支配的形式とすることができなかった。文学の中心部にあるのは、短編小説であった。ここでいう支配的形式とは、平安朝日本の和歌とか、一番人気のある文芸形式で、俊秀がそこに群がることになるものをいう。

 (3)大正文学最高の人気作家芥川龍之介は、短編小説の名手で、どうしても長編小説を書くことができなかった。
 戦前日本の文学的権威は、志賀直哉と谷崎潤一郎の二人に定まっていたが、短編小説部門の志賀が圧倒的に格が高かった。長編作家である谷崎が優位に立つようになったのは、戦後のことである。

 (4)この逆転の前史は長かった。
 大正時代以来、作家たちは何とかして漱石につづこうと努め、果たさなかった。
 昭和の初期、横光利一は、漱石と同様、新聞小説という形式を用いて長編小説を書こうと志し、自己援護のため『純粋小説論』という論旨混沌たる評論を書いたりした。この評論の幼さは、あの時代の日本において長編小説を書く困難をよく示すものだった。これに対する囂々たる反響は、当時の日本社会が長編小説を熱望している証だった。
 読者は、紋切り型の私小説的短編小説、社会性と物語性を欠く作家生活の報告に飽きていた。作家の側にも、そこから脱出を志す意欲が激しかった。西欧風の本格的な構造をもつ長編小説への要望が大きかった。
 この気運にのって、高見順『故旧忘れ得べき』『如何なる星の下に』、阿部知二『冬の宿』、石川淳『白猫』、坂口安吾『吹雪物語』、伊藤整『得能五郎の生活と意見』などが出たが、作家たちはまだ私小説の理念と技法に縛られていた。また、作中人物の原型となり、読者となるはずの知的な中産階級の数が少なかった。執筆の自由への大幅な制約その他の事情もあって、この傾向は底流となるにとどまった。
 長編小説への動向があらわになったのは、戦後のことである。たとえば、伊藤整『鳴海仙吉』のように昭和10年代の作家たちが意欲を新たにして長編小説をふたたび手がけた。野上弥生子のような大家が、昭和12年以来中絶していた長編小説を書きついで、やがて『迷路』を完結した。
 そして、昭和10年代の長編小説運動を遠望していた青年たちが、西洋小説の教養と清新な野心にみちて、この形式に挑んだ。いわゆる戦後派作家たちの作品がそれだ。大岡昇平『野火』、三島由紀夫『仮面の告白』、野間宏『真空地帯』が先頭に立つ。このころから、日本文学の支配的形式は、短編小説ではなくて長編小説となった。主要な発表の媒体は、雑誌ではなくて単行本、それも書きおろしになった。小説を論評する主な場は、文芸時評ではなくって書評に転じた。
 そのあおりで、日本文学全体の相貌が改まった。短編小説を得意とする作家たちも長編小説を手がけなければならない格好になった。
 夏目漱石が素人好みの作家ではなく、一般の知識人にも文壇人にも認められる国民作家になったことも、小説家の典型として仰がれる人物が志賀から谷崎へと移行したのも、これに伴う現象だった。

 (5)これが大江健三郎や村上春樹の登場する以前の文学史である。
 今日、大正文学的ないし昭和戦前的な、自己身辺の事情を曲もなく告白する私小説的短編小説は、むしろ例外的な傍流とされている。大江や村上のように趣向のある長編小説で全世界的な読者を相手取るのが正統的で、日本の読者だけを対象とするのは、地方文学的態度とされているだろう。

□丸谷才一『星のあひびき』(集英社、2010/後に集英社文庫、2013)の「わたしと小説」
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