水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

H・1・2

2006-01-21 22:52:53 | Weblog

 「癒し」と「治療」

 「癒し」が曖昧な言葉でも、人々の生活に影響を及ぼすほど重要でなければかまいません。
しかし、「治療」との混同や重なっている部分があるなら、とても大きな問題に発展しかねません。
体と心を如何に回復するか、健康を目指し維持するかは、誰にも当てはまる人生の最重要の関心事でもあるのです。

 また「治療行為」は生命を左右する場合も起こりえますので、幾つかの法律で規定されている行いでもあります。

 「治療」側として、医師(医療行為者)と医師以外の治療者(按摩・鍼等)とそれ以外の施術者(各種療術)の相互理解と協力も大切だと思っています。
この関係は法律などで改善されて、資格制度などの新設により解決できる問題だと思っています。

 こういった「医療・治療」側の改善点とは別に、「癒し」側としての混同があるのです。
この本は「癒し」と「治療」の混同をさけ、重複する部分の理解を深める目的で書いています。

 今までは「癒し」の治療的部分を各種療術の一つとして押し込めていたようですが、それでは本来の「癒し」の活用にもなりませんし、「治療側」の危険性まで引き起こしてしまいます。

 「癒し」の無理解は患者やクライアントに直接的な危険はありませんが、「代替医療」ではありません。
代替医療の一つとして勘違いしますと、治療を怠ってしまう間接的な危険もあります。
治療的効果があるからといって、医療に組み込ませるのは無謀だと思います。

 しかも受ける側に直接的な危険はなくても、無特定多数を扱う治療行為者には危険を蓄積してしまう仕組みがあるのです。

 
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H・1・1

2006-01-20 19:22:49 | Weblog


 曖昧な言葉

 ヒーリングとは「癒し」である。
 よく、こんな説明がなされています。しかし「癒し」はかなり曖昧に使われています。
最近ではちょっと優しいだけで「癒し系」の冠さえ付けられています。
「癒し」が何であるか定義されないまま一人歩きしてしまったからです。

 見えない世界からの言葉は無理解のまま使われ、曖昧な分、応用範囲が広くなります。
使う方とすれば都合のいい言葉なのです。
見えないだけに、言い逃れもしやすい言葉です。

 しかし、これからは見える世界と見えない世界は融合していく時代に入りました。
現代はその変革時期かもしれません。
変革時期に混乱が起こるのはやむを得ないかもしれませんが、混乱が続くのは決して未来が早まるわけではありません。

「癒し」の説明を調べると、
心を中心に、体と心の両方に回復効果があるもの。
自然治癒力を促す働きをもったもの。
浄化作用。
おおよそ、こんな感じですが、心も自然治癒力も浄化も何となく曖昧な言葉です。

 多くの見えない世界の言葉は、更に曖昧な言葉を重ね、イメージでそれぞれが勝手に受け取るようにしてあります。
見えない世界は安定も固定もしていません。
揺れる波動の世界です。対応する意識などである程度変わってしまうのです。
どうしても多少の曖昧さは内蔵しています。

 しかし言葉を使用する側や、受け取る側の理解度によって変わるのも困りモノです。
多少の自由度は残しながらも、ある程度の枠内で納まって欲しいですね。
そうでないとインチキや勘違いが入りすぎます。

 インチキや勘違いはこの世の常ではありますが、それを指摘できないほどの曖昧さのままでは、いつまでも胡散臭い言葉といわれても仕方ありません。
精神世界で多く使われる言葉にはそういった曖昧さの枠を絞りきれない部分があると思っています。
まして「癒し」は体と心の健康や回復に係わる言葉です。
今後は徐々に共通の意味を定義するのも大切だと思います。


 
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H・0・1

2006-01-19 22:00:17 | Weblog


 少し前まで精神世界などの分野などでしか通用しなかったヒーリングやヒーラーという言葉が、今はマスコミなどでも普通に使うようになりました。でも、その意味するものは依然として曖昧なままです。
 
 「癒し系」「癒し的治療」「癒しの治療師」そんなイメージだけで使われているのが現状でしょう。ギリシャ語の語源から「全体」「健康」「聖なる」「自然回復」などの意味と重なりますが、はっきりした定義はなされていません。

 ヒーリングやヒーラーという言葉が西洋医学から胡散臭い扱いを受けてきたのも理由があります。科学的根拠が証明できないからです。現象の変化を認めても、その仕組みが解明されなければ「科学的」でないからです。科学的で全てが解明できるわけではありませんが、多くの人を納得させる力はあるでしょう。

 まして治療分野は生命を左右する特別な世界です。「治療」と「ヒーリング」の違いと重なる部分を認識しないと、一番肝心な病む人まで迷惑を被りかねません。ヒーリングが安全で状態の改善に役にたっても、病人には治療も必要だからです。

 問題をややこしくしているのは、医師や治療者が無自覚にヒーリングをしている場合があります。名医と呼ばれる医師や優れた治療者は、その技術や知識以外にヒーリングを重ねていました。治療者だけでなく、ヒーラー(ヒーリングをプロとして行う人)として治療に係わっていました。

 重なる部分を持ちながら、治療とヒーリングは別々の次元の行為です。病人に危険性はありませんが、常時病人と接するヒーラー側には大きな危険性があるのです。ですから無自覚の名医や名治療者ほど、早く亡くなる傾向があります。

 多くの患者やクライアントや弟子を残して、優れた師とよばれる人達は次の世界に旅立ちます。まだまだ活躍していただきたいのに。この本を書く動機の一つが、ここにあります。

 優れているが故に、早逝する。ここに「ヒーリング」の大きなヒントがありました。そして優れていたが故に、「ヒーリング」を見落としていたのです。何故なら優れた人達には「ヒーリング」が当たり前だったからです。

 ヒーリングは見えない世界と深い係わりがあります。精神世界と深い係わりがあります。科学的でない世界と深い係わりがあります。それだけに曖昧で勘違いの余地も多く残されているのも事実でしょう。科学的でなくても、大切なモノはあるし、知って欲しい事もあります。

 私は実践者として体感し、事実としてクライアントの変化をみてきました。理屈ではなく、できるだけ事実から仕組みを観ようとしてきました。そしてヒーリングがこの世の仕組みと重なる事に気づきました。

 多くの偉大な先達達が残した言葉にそのヒントがありました。現実の仕組みと合致しました。ヒーリングは特別ではなく、古代から東西南北の何処の地域でも行われていた事でもありました。そして地球の未来を導くキーワードでもあったのです。

 
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B・2・4

2006-01-18 21:44:17 | Weblog


 言葉は真実を顕せないのよ。
大きな力はあるけれど、事実を伝えるためのグッズの一つなのよ。
この次元でしか使えないし。

大きな力があるから、それに気づいた人がびっくりして勘違いしちゃうのよね。
(この世に限ってだけど)事実を創れる事と真実の区別くらいして欲しいわ。
真実へのキッカケにはなるけど、言葉自体が真実を顕すことはできないわ。
当たり前よね。真実は言葉じゃないもの。
言葉はもっと柔らかく使ってこそ威力を発揮するのよ。

あっ、今、突然閃いたわ。アタシってチョーすごい。
浄化はジョーカー(魔女)かもしれないわ。
ああ、アタシの役割って人間の救済だったのね。宗教を始めちゃおうかしら。
アタシのような美しい教祖様なら信者はたちまち増えて、きっと大きな組織になるわね。さっそく衣装を考えなくっちゃ。

(皆さん、心配ありません。
妻は思いつきを口に出すだけで、実行する根性はありませんし、私以外に誰も相手にしてくれません。
しかし、妻はこのまま空想に入り込んでしまいましたので、たまには私が鏡と遊んでみます)

「鏡よ鏡、兄弟の意味を教えておくれ」
「ああ、ダンナはん。ワイ、前項のB女はんの言葉がショックで・・・」
「君は親コンプレックスか?」
「ワイ、可愛くないやろ。見捨てられてもおかしくない」
「大丈夫。妻をごらん。あんな妻でさえ私は見捨てたりしないだろ。まして親なら」
「そ、そうやな」

「ところで、兄弟の意味は?」
「ワイ、兄弟いるんやろか? や、やっぱり見捨てられたんとちゃうやろか」
(どうやら鏡は肉親関係のコンプレックスが大きいようです。
コンプレックスはこの世に存在するモノに必ず有るようです。
 歪みからこの世が生まれた、というのは本当のようです)

 
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B・2・3

2006-01-17 22:58:53 | Weblog


  兄弟姉妹の愛

 兄弟(姉妹以後略)って、とても不思議な関係なのよ。
 親子のような無条件の魂の愛情契約はないわ。無条件感謝付きでもなくてよ。
でも、友人愛やもちろん恋人愛や夫婦愛などの「行い」は必要ないわ。

 一番近い表現では自己愛かしら。魂の自己分裂した部分があるから、似ていても似ていなくても自分自身とつながっているのよ。
自分自身の一部があるの。
 自分自身だから、意識しない愛情かもしれないわ。
時々憎しみ合う兄弟もいるけど、愛も憎しみも表現が別なだけで同じなのよ。

 憎しみ。妬み。嫉み。みんな「愛したい」と言っていると同じなのに、愛と反対の感情だと思い込んでしまっているわ。
 どうして人間は素直に観ることが難しいのでしょうね。
いいえ、赤ちゃんの時は素直な反応をしていたわ。
大きくなるにつれて、周りの人間感情の影響を受けてしまうみたいね。

これが仏教的には「業(カルマ)」という奴ね。
カルマって、浄化(解決)しないと続くぞ、という理のこと。
 でもカルマを背負っている本人でなくても浄化できるのよ。
これが仏教とアタシの違いよ。もちろんアタシの言う事の方が素直よね。

当然ブッダさんも解っていたけど、「教え」は聞く人の理解度に合わせてを説くから、その時は「本人がカルマを浄化せよ」というほうが適していたのよ。
 それなのに、後に続く者たちは出来が良くないから、開祖の言葉を絶対視してしまうのよね。
真の開祖の心を汲み取れないのよ。
だから開祖が正反対の言葉などを伝えると混乱したり、勝手に削ってしまったり。

宗教の間違いはここにあるわ。
キリスト教も回教もその他の宗教も同じ過ちを踏んでいるわ。

 
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R・2・1

2006-01-16 22:34:13 | Weblog


  会食

ブ:「ゲシュはん、何が食べたい?」
 ゲシュナム師は従座し偏袒右肩(へんだんうけん)で合掌する。
ゲ:「き、教祖様。そ、尊師自ら料理しはるのでっか?」
ブ:「あったりめぇじゃねぇか。自分達のメシだもん。」
キ:「それより、ゲシュはん、イキナリ関西弁になってるよ。」
ゲ:「実は・・・私はチベットの関西人ですねん。」
 ゲシュナムは雰囲気に慣れるにしたがって、言葉は関西弁に似てくるらしい。前世は大阪の漫才師だったのかもしれない・・・。

ゲ:「私は何でもいただきまっせ」
ブ:「ん~じゃあ・・・今日はイタリアンでいこうかぁ」
 仏陀は料理が好きらしい。愉しそうに魚をさばいている。
キ:「サバをサバく。カニは好きカニぃ?イタメシは食イダメシてね」
 キリストのダジャレはD級だった。もちろん誰も笑わない・・・。それでもめげずにダジャレを飛ばしていた。

キ:「ブッタがブッタ。イエスがイェ~ス。ん?ダジャレになってないな?」
ゲ:「キリスト様~。そ、その辺で止めたほうが・・・」
キ:「様はよせよ。意識レベルに差をつけると波動が通じなくなるだろ?」
ブ:「そうなんだよなぁ。弟子はそこが解ってねぇ」
キ:「同じ人間でレベルに差はない。生者も死者も同じなんだ」
ブ:「差は無ぇけど、気づいてるか、気づいてねぇかの違いはあるんだ」
ゲ:「立場は同じ。でも、向いてる方向に違いがあるんやねぇ」


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自愛・3

2006-01-15 21:43:52 | Weblog

自分が嫌い、という人がいる。
だが、自分が嫌いなのではない。
自分を好きになりたいのだ。
それを素直に表現できないだけだ。

素直は自然体。
自愛は自然体だ。
自然は「生命」を基盤にしている。
「生命」の共存共栄が自然体なのだ。
自愛は共存共栄の基本的姿勢だ。

「生命」を愛しむ。
この姿勢が生命力を活性する。
免疫力を増大する。
回復を速やかにする。
「生命への愛」は万能だぜ。

病になったら、気づく事がある。
生命を愛しむ。
自分(の生命)を愛しむ。
そういう「自愛」に欠けていた事に気づく。

この気づき無しで回復だけを願うと・・・
「生命」の安売りになる。
上辺だけの回復になる。
病は繰り返さざるをえない。
せっかく病になったのに・・・。

大切な「生命」だ。
たっぷり時間をかけて愛しむ。
元気になる為なら、何でもしよう。
最愛のパートナーは「生命」なんだ。

「生命」は身体側に多く付いている。
心側は少しだけなんだ。
心の満足を最優先すると「生命」は困る。
大抵は「生命」にダメージを与えるからだ。
心の満足より身体の満足を優先してくれ。
それが「自愛」のコツだ。

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自愛・2

2006-01-14 21:45:14 | Weblog

ワシは不思議な気持ちになる。
回復を願うのに何故「生命」を値切るのかなぁ?
安上がりの「生命」でいいんかい!
バーゲン品でいいんかい!

「生命」に金はかけたくない。
「生命」に労力や時間をかけたくない。
それは「生命」を安く仕上げたい事だ。
自分の「生命」を安く仕上げたい事だ。

「生命」に自他は無い。
だから他人の「生命」も安く思える。
簡単に「生命」を消してしまう・・・。
最近の日本の社会風潮だと思う。

自分を大切にする。
それは「生命」を大切にする事だ。
他人に見せる為じゃないぜ。
外観じゃないぜ。
能力でもないぜ。

自分を愛する。
それは「生命」を愛(いと)おしくする事だ。
「生命」に自他は無い。
他の全てを愛さなくてもいいが、
他の「生命」は愛おしく思える。
それが「自愛」だぜ。

ワシは博愛じゃない。
誰でも愛するなんて出来ない。
嫌いな欲脂ギラギラ政治屋なんて愛せない。
だがそんなオッサンの「生命」は愛せるぜ。
自分の「生命」と変わりないと思える。

う~m・・・
表現が不足だな・・・。
氣功時はワシの軽薄な思考や心は動けない。
ワシの氣功時は「生命」の区別が出来ない。
区別出来ないのが、自然体なのだと思うぞ。

区別出来ない。
比較出来ない。
「生命」は至高なモノだ。
「生命」は社会風潮や社会常識と別次元だ。
本気で「生命」が愛おしくなる。
ここが回復速度の分かれ道となる。


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自愛・1

2006-01-13 22:05:45 | Weblog

ワシは病み人と接する仕事だ。
病み人から、いろいろと学べる。
病になる幾つかの条件。
人により、回復の違い出る条件。
なるほどなぁ・・・。

最近、ちょっと気になる癖が増えた。
病み人の意識の癖だ。
意識の癖は社会風潮で付くようだ。
最近の日本社会の癖だと思う。

見えないモノに対する姿勢。
見えないモノへの価値観。
とても貧しい意識になってしまった。
大切なモノは
見えないモノなのになぁ・・・。

見えないモノの中でも特に重要なモノ。
それが「生命」だ。
この世では「心と体と魂」だ。
建前では「大切だぁ!」と言う。
でもなぁ・・・。
意識では低く思っている。

見えないモノへの癖なんだ。
価値が観えなくなっている。
見えないから、判らないと思っている。
時間も労力もお金も少なくしようと思っている。

「生命」を値切る。
平気でしている。
病になる条件を作っている。
回復し難い条件を作っている。
自分の生命なのに・・・。

飾るモノなら金をかける。
欲しいモノなら時間もかける。
手に入れる努力もする。
服でも車でも食べ物でも。

ストレス発散の為なら金をかける。
身体に負担がかかってもいい。
酒もギャンブルも趣味も熱心だ。
だが「生命」をケアするのは不熱心だ。
ガマンできるなら、ガマンさせる。

生命は、
一番大切で、
一番優先する相手なのになぁ・・・。
安く手軽にしたいらしい・・・。


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愉しむ・3

2006-01-12 21:40:51 | Weblog

闇(病)からの回復。
幾つもの方法がある。
心配も絶望も無用だ。
深い闇(病)からなら幾つかの条件がある。
条件が重なると開ける仕組みだ。

「愉しむ」。
方法の一つであり条件の一つでもある。
闇(病)の大部分は愉しくない。
ならば放せばいいのに・・・。

見つめる事は掴んでいる事だぜ。
病み人が病み人でいる時、
闇(病)ばかり見つめている。
闇(病)は嫌だ、といいながら・・・。
嫌なら放せばいいのに・・・。

ワシは個人の自由を尊重する。
闇(病)から回復しなければならない、
とは思わない。
好きなら一緒に居てもいいと思う。
「嫌」と言いながら一緒にいたがる人も多い。
それも自由だ。

「闇(病)から解放されたい」
そう依頼を受ける。
「ならば・・・その闇を掴んでいる手を離して」
でも闇(病)を見つめる癖がある。
何かを見つめていないと不安なのだ。

見えない世界の仕組みがある。
見えないからこその仕組みがある。
見えない相手を見つめる(意識を向ける)と、
相手は存在してしまうのだ。
もう一つの仕組みもある。
見つめた(意識)相手が優先する。

闇(病)を見つめると闇は大きくなる。
光(自然体)を見つめると闇は減少する。
どちらも無くなる事はない。
どちらを見つめる(意識)かは自由だ。

回復は自然体と同方向にある。
ワシなら・・・どうせ見つめるのなら、
輝くヒュギエイア(健康女神)のネ~チャンにするぜ。
「愉しむ」と、この(輝く)オナゴは見えるようだ。

闇(病)の中にいても大丈夫だ。
輝きの方向さえ判れば進めばいいだけだ。
輝きへ歩く事を「愉しみ」という。
何も難しい事はないんだぜ。

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