水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第十五章(3)
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
他と助け合って生きる。
生かされている。
そんな当たり前に気づけば明るくなれる。
それがブッダ(開かれた人)という意味だ。
決して修行して精進した結果じゃないぜ。
ブッちゃんは「下手な修行は害だ」と言ったぜ。
明るく柔らかい生き方。
それがブッダだ。
誰でもなれる可能性がある。
可能性はあるが、結構難しい。
簡単そうだが、かなり難しい。
単純なのは、奥も深いものなのだ。
悟りを開いた人がブッダなら誰もいない。
いたと仮定しても、一人から数人。
そんな特殊な人用に経は説かない。
悟りを開こうとして、人生を無駄にする。
更に、他の人や生物に迷惑をかけるのがオチ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十五章(2)
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
真理は解っても解らなくても変わらない。
真理は知っても知らなくても差が無い。
(知れば優越感があるかもしれないが、くだらない)
そんな事より大切な事がある。
大切なモノがある。
この物質界(肉体界)にいるのなら、優先する事がある。
地球上に一定時間存在できる。
それが、この世に生まれた特権だ。
しかも多種多様な生命体と一緒だ。
それらが補い合って存在できる。
ここは、共存共生の世界(星)なのだ。
真理を追求する前にする事がある。
毎日を暮らす事だ。
他と関わり合って、生きている。
ならば、する事があるだろう。
真理を追求するより優先だろう。
この世に生まれた業(行)というのがあるとすれば、
毎日、他と関わり合って生きる事だ。
当たり前だろ。
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第十五章(1)
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
過去、現在、未来を「三世」という。
諸仏は「開かれた人達」のこと。
ブッダ(仏)を「悟った人」と訳すから誤解する。
悟りとは開かれた事だと思うが、通常は違うイメージだ。
何でも解っている超高級意識、みたいな・・・。
御釈迦様は尊称としてブッダといわれる。
だが、誰でも開かれればブッダなのだ。
ここは御釈迦様個人を指すブッダ(仏)ではない。
(可能性として)ワシやアンタだ・・・。
可能性はゼロに近いが・・・。
真理が解ることを「悟り」とするから間違う。
真理など、どうでもいいと悟るからブッダなのだ。
大切なのは、調和だと悟るからブッダなのだ。
生き方が正しいからブッダなのではない。
生き方が明るいから開かれた人(ブッダ)なのだ。
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第十四章(12)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
「正しさや真実だけ追いかける心から離れようぜ。
夢やアイマイなモノを大切にしろよな。
夢を持つから明るくなれる。
想いがあるから、温かくなる。
慈悲というのは、アイマイを大切にする心から生まれるのさ。
未熟な心を、そっと抱いてあげるのが慈悲ってもんだ。
未熟なのは、お互い様だぜ。
真実追求の心からは慈悲は生まれない。
それは非情ってヤツだ。
夢や想いや慈悲を持てば、そこが涅槃だ。
お互いに慈悲があれば、そこは極楽だ。
なにも遥か彼方にあるわけじゃ無ぇ。
毎日の生活の中に涅槃があるのさ。
(あまり真実追求にこだわるなよ、弟子達・・・)」
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第十四章(11)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
ワシ的訳。
「生きる、暮らすってのは毎日の事だ。
楽に生きる、元気に暮らすにはコツがあるぜ。
嬉しい事もあるけど、辛い苦しい事もあるよな。
そんな事ばかりだと滅入るよなぁ。
毎日の現実ばかり見ると、未来を暗くしちまうのさ。
だから夢があり、空想があるのさ。
夢や空想は現実からの逃避でも空しいモノでも無ぇぞ。
使い方さ。
毎日を明るく生きる為に使えばいいのさ。
時には夢や空想が現実にだってなる。
夢や空想を捨ててしまうなよ。
正しさや真実を追いかけると夢を失うぞ。
夢から遠く離れると、全てパァになるぜ。
生きているって事の意味が無くなるんだ。」
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第十四章(10)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
涅槃が特殊な境地だと仮定して。
そこに至る経が「大般若経」として。
今まで、幾人の人が行けたのか?
涅槃に行けた人(僧が主?)がいた、と仮定して。
その人は超エリート(選ばれた存在)なのか?
ある特殊な人にしか役立たないような、経か?
「般若心経」は、そんなチンケな経か?
ワシは思う。
キマジメな字面の訳は心経をバカにしている。
「煩悩を無くせば涅槃に辿り着ける」
こんな言葉は役に立たない。
「心を綺麗にすれば天国に行ける」
人が生きている事実を無視した言葉だ。
理屈だけの上辺だけの訳は害になる。
「毎日、生きていれば立派だぜ。
無理やり立派になるなよ。
悟ったりすると、涅槃じゃなくなるぞ。
涅槃は、普通の暮らしの中にあるんだぜ。」
ブッちゃんは、優しく、そう言ったと思う。
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第十四章(9)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
優れた経は多大な意味を内臓す。
心経も多種深遠な意味を内臓している。
だから解釈もいろいろ出来る。
出来るのに、既存の訳は偏りすぎている。
大体が同じような訳になってしまっている。
ワシ的訳はかなりコジツケてある。
そんな事は承知の上だ。
それでも、既存よりは役に立つと自負している。
悟りを目指す人の割合がどれだけいるか?
挙句に境地に辿り着ける人がいるのか?
人はそんなに優れてないのだ。
不完全で、不出来な魂なのだ。
更に不自由な肉体を、まとっているのだ。
そういう人に役立つ経ならば、生活に添ってだ。
暮らしに活かせなければ意味が無い。
思い上がった人達用の解釈は意味が無いのだ。
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第十四章(8)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
ここでも「一切」が挿入されている。
どうやらゲンちゃんが勝手に入れたらしい。
原文には「一切」は使われてないらしい。
ならば、特に言いたい部分なんだろうな。
「涅槃の解釈を間違うなよ」
ゲンちゃんは優しいイタズラ坊主だ。
ワナを仕掛けたけど、注意書きもしておいた。
なのに「一切」を単なる強調語と訳してしまう。
頭のいい人達って、素直じゃ無ぇなぁ・・・。
「夢も空想も無い事(転倒)は、全て(一)幻(切)だ。
そんな心とは、おさらばすれば(遠離)いいさ。
そうすれば、生きているだけで涅槃ってもんだ
夢や空想や希望があるから、生きていけるんだぜ」
どうでぇ。
この訳の方がマシってもんだろ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十四章(7)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
涅槃は、何もかも悟りきった人がいる境地じゃない。
そんな人は・・・いない。
五万歩譲っても、ほとんど、いない・・・。
対象者がいない相手に経を説くほど、ブッちゃんはボケてないぜ。
悟りきった境地だ、と解説する人だって悟った事は無いんだぜ。
そんな人相手に、ゲンちゃんも心経を書いたわけじゃないぜ。
心経が何故あるのか、もっと素直に観よう。
誰を対象にしているのか、素直に想像しよう。
衆生(衆生意外の人間なんていないけど・・・)や
ケモノや妖怪達の悩み苦しみの為に説いたし書いた。
当たり前じゃないかぁ。
それなら、大難し理屈や小難しい解説は間違いだろう。
八っつあんや熊さんが納得する話が経だろうよ。
夢想の無い境地が涅槃なら、誰も行きたがらない。
だから、夢想を遠く離れた境地というのは間違い訳だ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)