ポポロ通信舎

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太田高校を中退、独学の義人 須永好(4)

2012年08月04日 | 須永好 研究

どんなにか悔しかったことであろう。人一倍向学心の強い児童だった須永好は家計を支えるため明治42年(1909)9月太田中学校(現在の太田高校)を2年時途中で退学している。

戦前は(尋常)小学校6年間までが義務教育。小学校卒業後は、2年制の高等小学校(高小)か、5年制の中学校(男子)、高等女学校(女子)、実業学校に進んだ。しかし多くのものは三洋電機の創業者がそうであったように小学校を卒業して職に就き実社会で働いた。中学校や女学校に進むものは1学年で数えるほどの僅少。進学できるのは裕福な家庭の子どもたちに限られていた。

父の放蕩で学業断念

須永家は貧農ではなく、祖父の代から農業の他に機織業も手がけていて有力な自作農家だった。ただ父親、伊平が家督を守れなかった。伊平は新田郡会議員にまつりあげられそれなりに有能ではあったが、酒と色に溺れ家を捨て放蕩生活に明け暮れた。祖父が病気になってから機織業は破産し家は傾きかけてきた。

須永好は強戸尋常小学校で成績は良く、憧れていた叔父、須永城一郎(太田中第1回卒、陸軍士官学校ー中国大陸で戦死)と同じ太田中学校に進む。しかし父親不在の困窮してきた家の中には、まだ幼い弟、妹たちがいた。一家の面倒を見るためは退学しなければならなかった。以来、一家の支柱となって農業に精を出す。須永好15歳、試練の秋だった。

退学後の好は、気持ちを切り替え持前の探究心と骨身を惜しまない努力で農業に立ち向かった。2年後(明治44年)、強戸村農会長から「品行方正、業務勉励」と善行表彰を受けている。

強戸の篤農家、“須永金次郎”

学校は去っても須永好は終生、どんなに多忙の日でも朝1時間、夜1時間の読書を欠かさなかったという。朝は霜柱をくだき、夜は月をいだいて帰る。そして日々寝る間も惜しんで勉強した。農業改良の研究にも熱心で、須永家の作物は良質な出来栄えだった。人々は「二宮金次郎の再来」とまで評したという。

【写真】須永好が進学した太田中学校の校旗(左)

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事する。郷里の強戸村を理想郷に、と農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党で活躍、衆議当選2回。

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