大正デモクラシーから昭和の軍国主義に向かいつつあった時代、保守的な風土のここ上州群馬の一角で須永好は、よくぞ農民(小作農)組合をつくったものだと思う。
組合は必要、つくるは至難
平成の今日に於いても新たに組合を結成することは並大抵の努力ではかなわない。それは対峙する相手がいることだけに、親睦会や趣味サークルを作るのとは訳が違う。地主(経営者)の多くは組合結成を歓迎しない傾向にあったし、今日でもその感覚は通じるのではないだろうか。
年末になると厚労省から労働統計調査が発表されるが、日本の労働組合の組織率は年々低下する一方。今では10%台まで落ち込んでいる。多くの職場で組合は存在していない。労組不要論を説くミルトン・フリードマン(米経済学者)のような新自由主義的な見方が依然と根強い。果たして組合は必要ないのだろうか。働くものは休み一日取得するにも気兼ねをしている。たとえどんな頼りない組合であっても、組合がある限り最低でも労働協約(就業規則)は明らかになっていて定期的に労使間での見直しは行われる。
時間外(残業)規定、慶弔、病欠、産休などが定められ確認されている。それだけ取っても働くものにとって組合の存在はマイナスではない。公私共に生活をしていく上で、基本的に大切な与件が明確化されていることは重要だ。
革新自治体、無産村強戸の誕生
須永好が強戸村小作人組合を結成したのは大正10年(1921)。4年後にはそれまで組合側の村会議員は1名しかいなかったのが、その年の村会選挙で、一気に組合系9名が当選、地主系はわずかに3名で大逆転が実現。新聞は「無産村強戸」、今でいう革新自治体強戸村の誕生を革命が起きたような調子で報道された。その翌年大正15年(1926)の統計では、強戸村の例に刺激されか各地で無産議員が定数の半分以上を占める町村が64誕生した。それでも全国1万1660町村総数の0.05%に過ぎないのではあるが。当時も、今とあまり変わらず町村議員は政友会と民政党という2大保守政党下に系列化されていた。
“地主組合”、産業組合も
話を戻すが、強戸に小作人組合が生まれた大正10年は凶作の年であった。村では折からの農業恐慌で収入もとだえ出稼ぎ者が帰郷して失業者であふれていた。小作料は上がり、岐阜や愛知で小作争議が起こっていた。強戸の小作人たちは日頃から地主への嘆願を繰り返していたが、聞き入れられず、叱られすごすご帰るのが常だった。組合発起人会議は村役場の会議室で行われた。須永好は村長訪ね「小作人組合」の結成を伝える。組合員520人。組合長須永好、27歳だった。
次の日、須永好は村長に地主の団体「地主会」をつくるよう斡旋を依頼している。さらに後日、産業組合も組織した。全国で小作人のみで産業組合を設立し運営したのはこれが最初、しかも唯一強戸村だけだった。
当時の群馬公官庁も陰の功労
組合組織は、組合員だけにプラスをもたらすものではない。地主(使用者)にとっても健全な交渉関係がオープンに築かれ話し合われることは、労使間の陰湿な猜疑感は消え信頼感は増すことになり両者にとって有益になるのだが、残念ながらいまだにそれが十分に理解されていない。強戸村に産業組合ができたとき新田郡長から群馬県当局のへの意見書がなかなか先駆的だった。「彼らは幾分たりとも変わりたる思想を有す・・しかし一面物事に熱心なる点もありて・・監督を厳にせば相当成績を収ることを得らるるものと認る・・」、つまり組合結成によって労働生産成果が期待できると前向きにとらえたことは、当時の群馬の当該公官庁責任者側にも組合効果を認める先見性があったということで歴史的には評価して良いと思う。
【写真】1930年総選挙、当選はしなかったが須永好の政見はがき。