農地改革は社会党のおかげ
高3の夏休み、勉強道具を持って友人K君宅を訪ねる。「受験勉強が大変だなんて贅沢過ぎる。この炎天下、外で労働している人のことを思おう」などと話していると、いつしかK君のお母さんも会話に入ってこられ「世間のみんな今は(恩を)忘れてしまっているようだけれど、農地解放ではなんと言っても社会党が頑張り農民はお世話になったんだよ。私はその恩は決して忘れてないよ。でも参院選だけはいつも市川房枝(1983-1981)を支持だけどね・・」。半農家だったK君のお母さんの強い信念を感じた。
婦人参政権運動家、市川房枝を知ったのはこの時が初めて。K君の家は太田市でも強戸地区からは大分離れた九合地区。話題には出なかったがK君のお母さんもきっと須永好のことは、よく存じていたにちがいない。ちなみに私が「須永好」の名を知ったのは亡き母(1919-1986)からだった。
マッカーサーに進言した須永好
1946年に結成された日本農民組合の最大の課題は農地改革であった。徳川時代以来、明治、大正、昭和と延々につづいた地主制度を解体し土地を農民に再分配するというのだから並大抵ではない。その成否はすべて日農組合の須永好の双肩にかかっていた。
マッカーサー元帥は農地改革に熱心だった。しかし日本政府の改革案にGHQ(日本を占領した連合軍総司令部)は不満だった。須永好はGHQに何度か出向いている。農民の解放に関して箇条書きを置いてきた。後日、新聞発表をみて、彼の提出した提言案とそっくり同じだった。GHQも日本の農村民主化を指導する第一人者として須永好を認めていたといえる。(須永徹『未完の昭和史』)
鈴木安蔵も忘れてはならない
同じころ憲法改正案も検討されていたが、GHQがすすめてきた民主改革指令の総括として主権在民、象徴天皇、交戦権の放棄を骨子とした案が出されていたが日本政府側はこれに抵抗。しかし極東委員会作成の共和制案を強制されるよりはまだまし、という判断でGHQ案を受け入れ最終案になったといわれている。憲法論議については今日、様々な見解があるが、唯一つ、GHQ案に大きな影響を与えた人物がいたことを忘れてはならない。「憲法草案要綱」をまとめた鈴木安蔵(1904-1983)、その人だ。日本国憲法の間接的起草者ともいわれている。
「農地改革」では須永好、「日本国憲法」では鈴木安蔵。起草の影の立役者はれっきとした日本人であったことを記憶に留めておきたいものです。
【写真】空襲で家族を失った戦災孤児。路上で靴磨き(日本戦災遺族会提供)
【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。
須永好日記 (1968年) | |
編者 石井繁丸(元前橋市長)他 | |
光風社書店 |