今では「小作人」は死語
「須永好という偉い人が昔、小作農の団結で強戸(ごうど)村に小作人組合をつくり村民を幸せにしたんだよ・・」と話しても今の若い世代には、そもそも「小作農」「小作人」というが、死語になっていて理解できていないことを知りました。そこで復習です。小作農=小作人とは地主から土地を借り使用料(収穫物)を払って農業を営むお百姓さんのこと。
小作料は収穫の50%以上
1947年(昭和22年)まで日本の農地は、地主・小作制度による所有形態でした。自分の所有する土地を耕して生活する者は「自作農」、自分の土地だけでは足らずさらに地主から借りていたものは「自作兼小作農=自小作農」すべての土地を地主から借りていたものを「小作農」と呼びました。
明治中期から終戦まで、全農地の約半数近くが小作地でした。全国農家総数の30%が小作農、同40%が自作兼小作農、同30%が自作農の構成でした。ちなみに強戸村では全675戸中、小作農335戸(50%)、自小作農241戸(36%)、自作農99戸(14%)で全国平均よりも小作農の占める比率は高かった。(1921年強戸小作人組合結成当時)。
土地を持たない小作農は、収穫物の50%以上を地主へ小作料(土地使用料)として納め、その生活はそれはそれはひどく惨めなものでした。
初戦から平和裏に要求実現
強戸村に小作人組合が誕生して、最初の交渉は「小作料3割減」の要求だった。しかし地主側は「1割減」からは一歩も譲らず話し合いは難航した。行司役には太田警察署長が間に入る。条件として小作人組合側が予定していた大物労働運動家・鈴木文治講演会を中止することで「3割減」を地主側が承諾。この後に地主側も激しい反撃がありましたがまずは初戦、小作人組合側の勝利となりました。(「小作争議の時代」:みくに書房)
懲役・実刑者はゼロ
強戸村の小作争議では、一時的に検束されたケースはあるものの、組合員が裁判にかけられたり懲役、実刑に処されたものはなんとゼロ。これは驚くべきことです。
強戸村では農民組合(小作人組合)が地主組合を団体交渉の場に招き、小作法による調停に持ち込む遵法作戦をとり、小作料3割減要求もその形で実現した。実力行使の闘争はとらず、村議会で絶対多数を占め、村長も獲得していった。全国の多くの小作争議では残念なことに犠牲者続出、しばしば流血もともない悲惨な結果で終わるところもあった。
正当防衛であっても逮捕実刑
お隣の栃木県の様子を見てみよう。同県塩谷郡阿久津村での小作争議(1931年、昭和6年)では地主側が右翼団体、大日本生産党の黒シャツ隊(イタリアのムッソリーニの民兵組織を連想してしまう)約100名を雇い入れ農民組合に対抗。しかし地主・生産党側に5人の死者と12人の重傷者が出たという。正当防衛で果敢に応戦した農民組合側は衝突では負傷者はでなかったもののすぐに騒擾罪(そうじょうざい)で109人が逮捕され1年~15年の実刑を受ける。獄中で亡くなった人もいたという。(「小作争議の時代」:みくに書房)
結束、固かった強戸村民
強戸の争議では、いつも犠牲者を出さなかった。良く考え錬られた平和的、合法的な交渉術が功を奏していた。全国レベルの上部組織では農民組合、また無産政党も多岐に分裂し離反・集合を繰り返し混乱していたが、ふしぎと強戸村は、その波に飲まれることはなかった。村の組合組織や党支部が左右に割れることは一度もない。これも須永好の人間的な魅力が、地元警察署長の仲裁にみられたように、敵味方を問わず広く人々に受け入れられ信頼されていたことによるものだったからではないだろうか。(つづく)
【絵】(「田中正造」:さ・え・ら書房から)
【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民(小作人)組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議当選2回。
小作争議の時代―農民運動者20人との対談 (1982年) | |
渡邊正男編著 回想の須永好と無産村「神戸」他 | |
みくに書房 |