広島に原爆が投下されてから、73年目の暑い夏がやって来ました。 73年と言えば原爆投下時の体験を語り継ぐ人も少なくなってきています。 今日は広島の平和記
念式典が行われました。 安倍晋三首相は、平和記念式典での挨拶で、「核兵器のない世界の実現に向け、粘り強く努力を重ねていく」と強調し、核兵器保有国と非保有国の協力を求め、「わが国は双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意だ」と訴えました。 一方、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約には触れず、「近年、核軍縮の進め方について、各国の考え方の違いが顕在化している」と述べるにとどめた。日本は核兵器保有国とともに同条約に参加せず、昨年のあいさつでも言及しなかった。 核拡散防止条約(NPT)発効50周年となる2020年のNPT運用検討会議に関しては「意義あるものとなるよう、積極的に貢献していく」と表明。非核三原則を堅持する考えを示しました。
~ニュースより~
※日本国民の誰が考えても、世界で唯一の被爆国である日本が、核兵器禁止条約に参加しないのは、到底理解できない事だと思います。
73年前の8月6日の様子を~広島市ホームページ~は次の様に伝えています。
昭和20年(1945年)8月6日(月曜日)の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。 この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。 一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。
原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。
~広島市ホームページより~
原爆投下で亡くなった人は、当初14万人とも言われていますが、その後放射線を浴びたために亡くなった人も含めると、犠牲者の数は35万人とも言われます。 しかし正確には今でも分からない様です。
今夜は、NHKテレビ(午後7時30分~8時43分)で、NHK広島開局90年記念ドラマ「夕凪の街 桜の国」が放映されます。 皆さんも一緒に観ようではありませんか。
『長崎の鐘』~~当県出身の長崎医科大学助教授だった永井隆博士が、爆心地に近い同大学で被爆し瀕死の重症を負いながらも、被爆者の救護活動に当たる様子を記録した、(被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に書いていた)、『生命の河』をモチーフに、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲で歌謡曲「長崎の鐘」が発売されて大ヒットし、昭和25年には映画化もされています。