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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(201) 甲越 川中島血戦 28

2024年09月16日 20時09分58秒 | 甲越軍記
 両軍は互いに斥候を出して敵陣の様子を伺ったが、いずれも智勇絶倫の名将であれば少しの隙も無く、軽々しく動くことならず、五月朔日より五日間、矢の一筋も打ちあうことなく備えを固めて睨み合うばかりであった。

六日の朝、景虎は鬼小島弥太郎を使者として武田晴信の陣中に遣わした
弥太郎が景虎の言を申すには「某は当国に兵を出すのは、信濃国を従えんとする欲心からではなく、村上義清に頼まれ武の一道を守る義戦の為である
願わくば、村上に彼の地を返して本領に還して和親あるならば、某の喜びである
もし、この義に同心しないのであれば、景虎はやむを得ず、貴殿の堅陣に馳せ入り。有無の勝敗を一挙にするほかなし
我、この頃、信州に出張し、度々貴殿と対陣するが、未だ一戦に及んだことがない、願わくば他国の諸将に向かって武威を振るうように、某に対しても是非の一戦を願いたい
我を武勇と言えども、少しも他の諸将と異なることは無い
もしご同心あるならば、速やかに和議を結び、帰国いたす所存、ご同心無きに於いては、明日は快く是非一戦の勝負をつけられるべし」と

晴信は、これに答えて
「その方が、村上に頼まれて出張ること、義の心あることは心優しく神妙に思えて、晴信は深く感じ入り候
我も人も敵味方となり、勝負終わりて浪々致すことは、昔も今も同じである
景虎の志はもっともであるが、村上に領地を返すことは晴信の一命あるうちは思いもよらぬことである
そのつもりであるから、合戦を望むならば、其の方から仕掛けるが良い、某から仕掛けるつもりはさらさらない
そなたが甲州に攻め入ったならば、その時は晴信よりかかって無二の一戦を行うであろう」と言って、使者を返した。

景虎は、甲州勢から戦を出さぬと聞き、いかにしてもおびき出さねばならぬと、各陣所に油断の隙を見せて一戦を待った
晴信は一雑兵の姿になってまぎれ、斥候の一団として越後陣を探ってみると、所々に守りのゆるみを見た
そして申すには「景虎、備えを緩めて虚を示し、我らがここに付け込んで攻め込めば、たちまちこれに乗じて一飲みにせんという臥龍の計である
さりとては油断ならぬ景虎の謀、我らはけっしてこれに乗ってはならぬ」と諸兵に伝えて、守りを今以上に固めさせて、一歩も動こうとしなかった。

景虎も同じく、雑兵に紛れて甲州陣を探ると、ますます備えが固められて、蟻の一匹も付け入る隙が無い様である
その日もむなしく過ぎて、十日の朝に景虎は、再び鬼小島を甲州陣に送って、
「去る朔日より今日に至り十日が過ぎ去った、我は決戦を望んだが、それもままならぬようである、こうなれば、この地でいたずらに日々を過すのは互いの為にならず、それよりも某は能登越中に出張することとする」
と言い送り、陣払いをして、徐々に引き上げた
陣勢、堂々として甚だ見事なリ。


会津と阿賀野川と阿賀町

2024年09月16日 06時17分46秒 | 知人・友人
 阿賀野川(あがのがわ)は福島・栃木県境の南会津から発して阿賀川となり、福島県を南北に縦断して新潟県に入る
新潟県境からは南東から北西へと流れを変えて阿賀野川となり、広い新潟平野を通って新潟市の東端から日本海に流れ込む。

新潟県には日本一の長さを誇る信濃川も流れている
信濃川は長野県の北アルプスのあちらこちらの谷間から発して、犀川でそれらは集まり、長野市の川中島で千曲川に合流する
千曲川は長野県の最南部、埼玉県の秩父との県境から流れ出す
千曲川は飯山を通り新潟県津南町に入り、そこで信濃川となる
深い渓谷を悠々と流れてやがて小千谷(おじや)市あたりで越後平野に出て、長岡市を通り、新潟市の中心部から日本海にそそぐ。

信濃川は269km、阿賀野川は210kmの長さがあり、いずれも日本を代表する大河だ
阿賀野川の河口は松浜橋あたりから見ると、まことに雄大で広い川幅いっぱいに水をたたえて流れている、その迫力は決して信濃川に劣らない。

阿賀野川は、上流に向かってもその川幅を変えることなく流れている
阿賀野市までが平野部で、そこから南は左右に山が迫り渓谷の景色に変わる
国道49号と磐越道が谷間や、山の上、トンネルで通っている
阿賀野川は、そんな中でも有り余る水量を切り立った大渓谷に送り込んでいる
三川村から津川町までの阿賀野川の風景は圧巻だ、途中国道と川の水面が平行に見えるような景色にも出会う
阿賀野川は深く大きいから阿賀の辺りではめったに氾濫しない、そのかわりじわりじわりと水位が上がって来て国道を覆いつくすことがある

阿賀野市から数キロ、新潟市から約50km南に下ると、阿賀町に到達する
平成の合併で、福島県境の三川村、津川町、鹿瀬町、上川村が合併してできた町で、福島県西会津町と接している、人口は8000人ほどの小さな町だが面積は広い
阿賀野町にしたかったらしいが、先に下流の水原町、安田町などが合併した平野部の町に、阿賀野(市)を先んじられて、阿賀町になったらしい。

阿賀町は明治以降に福島県から新潟県に編入となった
普通、この狭い谷間には国道49号線しかないと思われがちで、みなそれを利用するが、それは津川を経由するメインで、実は鹿瀬を経由する459号が阿賀野川沿いの道路である
多分、江戸時代はこちらがメインだったのではないだろうか?
そのまま西会津の北に入って喜多方、裏磐梯、米沢に抜けていく重要な道路だ。

阿賀町の中心の町は津川町で、江戸時代には新潟津と会津を結ぶ中間点として活気があった、津川の津から新潟までは水運で、会津には陸運で物を輸送する拠点だった。

今の我々には想像もつかぬが、江戸時代前後には川を使った水運が日本のいたるところで活躍していた
海から50km、100kmも内陸に向かい、途切れれば運河を作り、あるいは陸路でつないで物資の輸送に役立てた
馬の背に荷物を積んで行くのとは問題にならない輸送量を誇った
利根川水系、那珂川水系などと同様に信濃川、阿賀野川でも水運は利用されていたのだ。

さて、阿賀町を越後と見るか、会津と見るか
そんなことを考えるのは今どき私くらいのものだろう
何故考えるか、私には切っても切れない阿賀町出身の友人がいた、惜しいことに数年前に71歳で故人となったが、彼の姿はどう見ても越後人ではなく、会津人だった。

新潟県西端と、富山県東端が僅かな距離であっても関東系、関西系に極端な言葉の違いがあるように、ここでも越後系と会津系の違いは明らかだ
今の時代は、もうそんな違いを若い世代に見ることはできないだろう
老人と住む孫世代が核家族化で極端に減ったからだ、そしてテレビなどで東京や大阪の都会言葉が全国の田舎まで流れているから、もはや狭い日本は全て共通語となった。

だが、当時の友人は初めて会ったのが18歳だったが、言葉が聞き取れなくて困った
アクセントはさほどではないが、方言が聞き取れない、無理もない彼と私が育た町とでは300kmも離れているのだから
これが東海道圏に照らし合わせれば、どのくらいかわかるであろう
だから一緒に暮らした数年間(住み込みで板前修業)、深い会話をした記憶がない、彼といる時はほとんど酒を飲んでいる時だったからだ
酒を飲むと、ますます彼のわかりずらい、口にこもったような言葉は度を増してくる、ズーズー弁と言うのではないが、独特の訛りか?

言葉は個人差があるから参考にはならない、そもそも会津の人と話したことが無いから彼の言葉が会津弁かどうかもわからない
ただ、幕末の会津のドラマでは、会津人の愚直、実直な生きざま、主の為に死すという武士道精神が描かれている
あれを参考にしたなら彼が会津人であると思える
常に正義が前に在って、男らしく、そして誇らず、奢らず、目立たず、そして大酒飲みだった(飲みすぎが原因で脳梗塞が命取りだった)
俗物で欲深い私は、何度も彼と比べられて料理長に怒られたものだった
彼は純粋で、若山富三郎みたいな風貌で飲んだくれの料理長のお気に入りだった。

今でも、二十代の彼と風吹きすさぶ日本海で撮った写真が置かれてある
眉毛が太い男らしい風貌で、爽やかに、にこやかに笑っている。