両軍は互いに斥候を出して敵陣の様子を伺ったが、いずれも智勇絶倫の名将であれば少しの隙も無く、軽々しく動くことならず、五月朔日より五日間、矢の一筋も打ちあうことなく備えを固めて睨み合うばかりであった。
六日の朝、景虎は鬼小島弥太郎を使者として武田晴信の陣中に遣わした
弥太郎が景虎の言を申すには「某は当国に兵を出すのは、信濃国を従えんとする欲心からではなく、村上義清に頼まれ武の一道を守る義戦の為である
願わくば、村上に彼の地を返して本領に還して和親あるならば、某の喜びである
もし、この義に同心しないのであれば、景虎はやむを得ず、貴殿の堅陣に馳せ入り。有無の勝敗を一挙にするほかなし
我、この頃、信州に出張し、度々貴殿と対陣するが、未だ一戦に及んだことがない、願わくば他国の諸将に向かって武威を振るうように、某に対しても是非の一戦を願いたい
我を武勇と言えども、少しも他の諸将と異なることは無い
もしご同心あるならば、速やかに和議を結び、帰国いたす所存、ご同心無きに於いては、明日は快く是非一戦の勝負をつけられるべし」と
晴信は、これに答えて
「その方が、村上に頼まれて出張ること、義の心あることは心優しく神妙に思えて、晴信は深く感じ入り候
我も人も敵味方となり、勝負終わりて浪々致すことは、昔も今も同じである
景虎の志はもっともであるが、村上に領地を返すことは晴信の一命あるうちは思いもよらぬことである
そのつもりであるから、合戦を望むならば、其の方から仕掛けるが良い、某から仕掛けるつもりはさらさらない
そなたが甲州に攻め入ったならば、その時は晴信よりかかって無二の一戦を行うであろう」と言って、使者を返した。
景虎は、甲州勢から戦を出さぬと聞き、いかにしてもおびき出さねばならぬと、各陣所に油断の隙を見せて一戦を待った
晴信は一雑兵の姿になってまぎれ、斥候の一団として越後陣を探ってみると、所々に守りのゆるみを見た
そして申すには「景虎、備えを緩めて虚を示し、我らがここに付け込んで攻め込めば、たちまちこれに乗じて一飲みにせんという臥龍の計である
さりとては油断ならぬ景虎の謀、我らはけっしてこれに乗ってはならぬ」と諸兵に伝えて、守りを今以上に固めさせて、一歩も動こうとしなかった。
景虎も同じく、雑兵に紛れて甲州陣を探ると、ますます備えが固められて、蟻の一匹も付け入る隙が無い様である
その日もむなしく過ぎて、十日の朝に景虎は、再び鬼小島を甲州陣に送って、
「去る朔日より今日に至り十日が過ぎ去った、我は決戦を望んだが、それもままならぬようである、こうなれば、この地でいたずらに日々を過すのは互いの為にならず、それよりも某は能登越中に出張することとする」
と言い送り、陣払いをして、徐々に引き上げた
陣勢、堂々として甚だ見事なリ。