石井藤三郎は以後、南部をつけ狙うが、流石の南部は隙が無く、むなしく日々が過ぎていった。
そんなおり、今年四月、武田晴信は信州に発向した
南部下野守の手勢組下には、駒林佐渡、石井藤三郎、倉部、草間、渡邊、今福ら七十騎、諏訪に到着した。
翌日のこと、長坂左衛門尉の馬が突然暴れ出して、綱を切って逃げ出した
歩卒がこれを追うが、馬はいよいよ驚いて八方を逃げ回る
たまたま、ここへ藤三郎が通りかかって、ようやく疲れて大人しくなった馬を取り押さえて陣中に戻ったが、受け取りに来た長坂に渡さず、南部が見とがめて、返すように言ったが、それでも返さない
南部は命令に従わぬ藤三郎に腹を立てた、藤三郎を陣所に呼びつけて散々に罵れば、藤三郎は春路が言っていた言葉を思い出して(やはり春路が言ったことは間違いない、我に無理難題を押し付けて、腹を切らせるつもりであろう)
と思った
すると急に怒りがこみあげてきて「武士たる者が馬に逃げられて、それをとり押さえてくれば、懐手にして返せとは卑怯な振る舞いである、それに加担するは短慮ではござらぬか、もはや返す気はござらぬ」と怒気を含めた目で南部に従わぬ。
南部は驚いたが、「馬を返さねば、それでよし返さぬまでの事、儂を短慮と申したな、そのように嘲ることこそ奇怪なり」と言って、刀の柄に手を掛けた
藤三郎も「心得たり」と脇に在った矢筒を南部に投げかけた
一座に緊張が走り、歩卒は藤三郎を押さえんと取り囲んだ、覚悟が定まった藤三郎は近寄る歩卒を三人まで、たちまち切り倒した
さらに四人に手傷を負わせて、隣り合う浅利式部の陣に駆け込んで、そこでも死に物狂いに切って回った
浅利の陣内では軍議を行っていたが、そこにいた山本勘助が心得たりと、ありあう棒を持ち、石井藤三郎に立ち向かった。
大兵の石井に小兵の山本、山本は不自由な足も気にかけることなく自在に動いて打ち立つ白刃ひらめかし、飛鳥の如く軽やかに躍り上がり、飛び違いざまに石井の白刃を叩き落とした
そのままの勢いで、石井の胸倉を蹴れば、たまらず転がるところを兵らが取り押さえて縛り付けて、南部のもとに引き渡した
怒った南部は、その場で石井藤三郎の首を切り落とした。
この時、勘助も石井の白刃によって三か所の手傷を負った
勘助は戦場でも、こうした放し討ちの時も、必ずと言って手傷を負う
その数、八十六か所という
大兵の石井を手も無く搦めとるとはさすがであると、この場を見た人々は勘助を褒めたたえた。
ところが南部下野守は、またも妬みの病を起して「山本は兵法使いと聞いたが、たかだか石井如き小童相手に手傷を負うとは未熟だからだ、某の百歩の一にも及ばぬ男である、口から出まかせを申して策士などと持ち上げられているが、村ひとつ持たぬ者がなんぞ陣取りを講釈するとはおかしなことである
このような者を信じて信仰するとは、わが大将もたばかれておるのだ、片腹痛しと申すものだ」と言った
これが晴信の耳に入った。