天文十九年三月、武田晴信は再び上野国に出陣して松井田城に攻め寄せて松井田越前守と合戦になった
これを知って、信州の小笠原長時は武田晴信が上州にいる間に、かねて奪われた領土を取り返さんと思い、木曽義昌と謀って、小笠原は下諏訪に出張って放火、木曽は鳥居峠まで兵を進めた。
これを知った晴信は松井田の戦いをやめて陣払いして、「我らが上諏訪に向かい小笠原を追い崩せば木曽は戦わずして引くであろう」と秋山伯耆、横田十郎兵衛、安間三郎右衛門、市川梅印、同伝五郎に木曽を押さえさせ、小笠原を討たんと勢ぞろいしたところに、越後に潜入していた間者が馳せ帰って申すには
「長尾景虎、地蔵峠を越えて佐久郡まで侵入の由」とのこと
晴信は「景虎こそ大敵也」と言って、前にある信濃の敵を捨てて、越後勢に向かわんと内藤修理正、馬場民部少輔、日向大和、山本勘助と軍議に及ぶ
山本勘助が「越後勢、佐久郡に侵入となれば、味方は猿ケ馬場へ打ちあがり、深志(松本)の道を取り切って本陣を構えれば、敵は必ず犀川の彼方、善光寺山に押しあがって陣を取りましょう
地理に依りて、孔明の八陣の備えを敷き、敵を死門に引き入れて景虎勢を一挙に葬りましょう
あるいは景虎が死門に入らねば、変法によってこれを打ち破りましょう」
と進言した。
小笠原の備えには、長坂左衛門尉、相木市兵衛、芦田下野を諏訪に残し、四月十日、全軍を猿ケ馬場に上げた
すると越後勢は山本勘助が申した通り、善光寺山に上がり陣を敷いた
同十一日、武田勢は桑原より押し出して、飫冨、小山田、真田弾正忠、穴山、馬場、内藤、浅利、日向、諸角、甘利
そのほか、先手の大将には真田兵部、草間、保科、小笠原、戸田、鳶、小幡、早川、古畑、小林、青木、依田、安部、高木、小原、畠野、保坂、芦沢、三浦、横田、岡田、庵原、まだまだ多くの勇士がこれに従い
後陣には、栗原左衛門尉、小山田左兵衛尉、原加賀守は遥かに離れて後に下る
甲州勢は総軍一万三千余人、八陣を敷き連ね、敵これにかかれば、一揉みに粉砕せんと待ち構える。
越後方の宇佐美駿河守定行は敵の備え近くに斥候をだして、つぶさに調べ上げて景虎に申しけるには
「敵の総勢は一万二、三千と見えます、陣立てを八個に立て連ね、厳重に備えておりますが、中黒に巴の紋をつけた旗の一手のみは浮いて見え候」と言えば
景虎は「カッカ」と笑い、「それこそ必定、聞き及んだ、あの小賢しき山本勘助の謀りごとに相違あるまい、孔明の八陣を設けて死門を開き、我らを誘い込んで取り込めようとする謀計である
我はあえて、この死門より攻め入り、袋の鼠と見せかけて逆に奇変の術をもって八陣を粉々に粉砕して、晴信の本陣に切って入り、互の勝負にて一泡吹かせてやろう」
古志、宇佐美、柿崎、斉藤、館、高梨、竹俣、北条、須田、大崎、上田、山吉、吉江、鬼小島、萬願寺、長尾七郎、永井、田原、上野、他多くの将士、越後勢は一万余人、奇変の備えを敷いて、犀川を押し渡り、両陣あわや近づき、足軽を繰り出して数百の鉄砲を撃ちあい、黒煙の中より鬨を上げて槍衾一斉に叩き合いどっと喚いて突きかかる
武田、長尾、今まで数度の対陣あれども未だ十分の戦い無ければ、今日こそと壮士らは腕をさすり時を待っていたが、今がその時と思い、山をも裂く勢い、誰か一足も引くまじと喚き叫ぶ声は山谷にとどろき、打ちあう矛先は電光を走らせる。