同年八月、武田晴信は、長尾景虎が引き上げて越中国に攻め入った間に、上杉民部少輔憲政の領地を掠め取ろうとして、上野国(群馬県)に攻め入り、相模国境の神奈川まで押し寄せて、近郷を放火して引き上げた
それに激怒した上野国安中の城主、安中越前守、同左京進、和田の城主、和田左衛門尉、同兵部丞、箕輪の城主、長野信濃守、倉賀野の城主、倉ヶ野六郎、同淡路守、師岡城主、師岡山城守、松井田城主、松井田越前守、松江、白倉、上田の九将は直ちに兵を興して三千余人、武田勢を引き留めて、是を討たんと蕪川(*鏑川)和田城の外れ三尾寺(*高崎市)まで追いかけた。
武田晴信は、これを知って「我らを食い止めて戦おうとは、なんとも優しき者の振る舞いである、ただ一息に蹴散らしてやろうぞ
だが、碓氷峠の切所を越えて敵領内深くまで入っているからには敵を侮るなかれ」と諸将に申し伝えた
そして諸々の備えは動かさず、内藤修理正、馬場民部少輔、原加賀守、嫡子隼人佐昌勝、浅利式部、小宮山丹後守らを敵に向けた
中にも、内藤修理正は一の殿であれば、備えを二つに分けて矢を射ること雨よりなお激しく、鉄砲を撃ってひしひしと追い來る敵の先手と槍を合わせて突きかかる
武田方には、曲淵庄左衛門、磯矢興三郎、上杉方には梁田肥前守、草臥三郎が一番、二番の槍を争い入れ、馬武者二、三騎を突き落とす
武田方には朝比奈監物、三原右近、孕石主水、河野但馬守、志村又右衛門、平村、大津などの一騎当千の勇士あり、それぞれに武器をもって攻め入れば
上杉方も安中左近進、板倉郷右衛門、志渡丹波守、塚田八左衛門、遠藤五郎左衛門、倉ヶ野民部、佐投藤兵衛など名を得たる勇士死を決して武田勢を切所に追い込めて討ち取らんと勇を振るって攻め寄せる
安中越前守は、卯の花縅の鎧に、三ツ山の冑、ぶちの馬にまたがり敵内藤勢の意気込む中に突き入り、内藤の先士、倉橋四郎兵衛、多木隼人を切り倒し、当たるを幸いに薙ぎ倒す
内藤勢は、これに恐れて道を開ければ、安中はますます勢いついて、内藤修理正と槍を合わせる
互いに受つ、開きつ槍先を合わせて、激しく打ちあうが、いずれも剛なれば互いに二、三か所の傷を負いながら雌雄を決さんとますます激しく打ちあった
ついには両者の郎党が中に入って二人を分けて引き離れる
馬場民部少輔、原、浅利、小宮山勢は松枝、長野、師岡、松井田、白倉、上田、わだ、倉ヶ野と挑み合う
互いの赤、白の旗入り乱れて戦場を南北に埋め尽くし、叫び声、馬蹄の音、天地に響き渡る
こうした戦いが続いたが、上杉方はついに切り崩されて散々になって敗走した
武田勢も地理に疎いために深追いせず三尾寺の彼方に陣を敷いて、その日の疲れを休めた
山本勘助が本陣を訪れて申し上げるには「敵は今日の敗戦を憤って、今夜のうちに夜討ちをかけてくるのは必定であります
これらの敵は恐れるに足らずですが、ここは敵地であれば夜中の決戦はおぼつかず、まずは術をもって敵を退け、それから敵が引いた後、城を押し詰めて攻め落とすが上策であります」と言って、小宮山丹後守、安間、三科肥前、小笠原新弥、原与左衛門に謀略を授けて、それぞれに準備をさせた。