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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(210) 甲越 川中島血戦 37

2024年09月26日 19時47分24秒 | 甲越軍記
 北条氏康は今川義元を頼りに、武田晴信の上州進出を思いとどまるようにという願いの使者として、山門伊予守、一色隋巴を駿府に送った
そして頭を低くしてうやうやしく願いの儀を伝えると、義元は快く受けて使者を小田原に帰した。

天文十九年九月重九(ちょうく)(ちょうきゅう=陰暦の九月九日=無病息災、邪気払いの良き日)に嘉儀の使者として四宮右近を正使に、庵原弥兵衛尉を副使にして甲州に送った
そして北条氏康の願いを伝えると、武田の老臣たちはいかなる返答をすべきか大いに迷った
原加賀守、諸角豊後守は大いに悔やみ、「昨年、上州へ攻め込んだ時に松井田なり安中なりの一城でも攻め落として足場を作っておけば我らも同様に北條に拒むことが出来たものを、それが出来なかったために北條などに難癖をつけられてしまった
返す返すも、憎きは小笠原、木曽なり、奴らが出張ったばかりに落城まじかな松井田、安中を捨てて諏訪に軍を帰すことになってしまった
一城も落としてない故、さすがに今川の頼みを拒むことできず、これから上州に攻め込んでみても、一城落すは容易でない
こうなってしまえば上杉領を切り取ること叶わず、今よりは隣国を切り取るしか方法が無くなった
この上は、長尾と和睦して、村上を本領に復帰させ、伊奈、木曽、小笠原の領地を奪うほかあるまい」と決して、晴信に諫書をしたためて、春日源五郎、飫冨源四郎、原隼人佐の三人を以て奉じた。

これを読んだ晴信は「今川殿の申し出、黙視難く、上州発向のことは思いとどまることとする」と伝えて、今川の使者を帰した
そして、原、諸角には「汝らの申す事、もっともである、去りながら景虎と和睦すれば、伊奈、木曽、小笠原をまとめて攻め滅ぼしたとしても何の甲斐あろうや
晴信は景虎を恐れて和睦したと、天下の笑いものになるは必定、末代までの恥である、村上を信州に還元させることなど『御旗盾無しもご照覧あれ、存じも寄らざるところなり』木曽、小笠原を討つに、なんぞ景虎と和親などのぞむものか、景虎が三家に併せても、恐るべきに非ず」

即日、小山田左兵衛尉、板垣弥二郎に命じて、「下諏訪に打ち出て深志表、桔梗が原にて働くべし」と伝え、翌十五日には晴信自ら軍を整えて信州へ発向した。







バブル期の北陸温泉郷事情

2024年09月26日 08時18分04秒 | 時代検証
 先日、温泉旅行の備忘録をアップしたけれど、あれは記憶を呼び戻しながら書いたものだった、まあボケ防止の対策の一つだと思っていただければありがたい
それと同時に、当時のことが次々と思い出されてきた。
令和になって、私も同級生旅行、友達小グループとの旅行以外ではこうした大規模な温泉旅館へは行かなくなった。
同級生旅行も去年から中止になった、70歳を過ぎて自分がガンなどの病気になって、あるいは配偶者が病気になったり、亡くなったりして不参加になる者が増えて来たからだ
また事務局長兼会計長を毎年やってくれたY子の突然の死、あれでみんな意気消沈したことも原因だ。

以下、軽薄な文になりますので、呆れたらスルーしていただいて結構です

バブルの時代、昭和50年代はたしかに華やかで、よく働き、よく稼ぎ、よく遊んだ、我々より5年、10年早い人たちは、まさにバブルのど真ん中で恩恵を受けたようだ
土地ころがし、株価の史上最高値などで俄か成金が日本中に溢れて、会社員や個人経営者も収入が一気に何倍にもなって、その水準たるや今の時代の収入とさほど変わっていないのだから、その後の失われた30年は実感できる
「世界のNOKYO」が流行語になり、眼鏡に出っ歯、首からカメラをぶら下げた日本人団体のアジア観光旅行の風刺画が目立つようになった。

昭和20年の敗戦から、日本国の再建に、自分の生活の再建に汗水たらして遊びなど思いもせず、休みなしで必死で働いてきた日本人
その甲斐あって、昭和30年を過ぎると国内経済は良い回転を初めて、倍倍ゲームで所得が増えていった
少し前の中国経済と同じだ、それを日本は40年以上前に成し遂げたのだった

生活費に加えて、余剰資金(こづかい)も増える、働きづくめから余裕が出来て、たまにはパッと遊ぼうじゃないかと団体旅行ブームが起きた
先輩たちからは韓国旅行で妓生パーティをしたとかの軽薄で世界から軽蔑される武勇伝をよく聞かされたが、我々世代が海外デビューしたころには韓国の経済状況が良くなって、我々はそんな遊びの経験はない
その代り、国内の温泉には観光旅行でよく行ったものだ
われら北陸地方の住人は何といっても加賀温泉郷(片山津、山代、山中、粟津&和倉、芦原)へ行くことが多かった。

特に大きな温泉街は片山津と山代で、この二つだけで年間300万人以上が入れ込んだ、もちろん能登の和倉温泉も「プロが選ぶ宿」で加賀屋が10年くらい1位を続けて、加賀屋ブームを起こしていて山代、片山津と競い合っていた。
また加賀温泉郷に近い福井県の芦原温泉も東尋坊、越前海岸、芝政や三国競艇をバックに集客力があった、この時はまだ恐竜博物館はなかったが
加賀温泉郷の中では山中温泉は観光客数が75万人ほどで山代、片山津の半分、粟津は5万人程度だったが、粟津の宿、「法師」は北陸でもトップクラスの老舗で人気が高かった、和風の宿で廊下のあちこちに九谷焼が展示されていた
そして宴会のあとの二次会には館内に大きなクラブ風の一画があり、そこは和風の宿から一転して洋風の華やかなホールになっていてギャップに驚いたものだった。

和倉温泉であれ、山代、片山津であれ、仲居さんが名物でお客さんを楽しませてくれる腕は日本一と言っても良いだろう(熱海など伊豆の観光温泉もそうかもしれなかったが、当時は行ったことがない)
宴会後には二次会をしてその間中、仲居さんが一緒に無料で付き合ってくれる
その後も、宿の外に案内してくれるのだが、これも無料、いったい無料奉仕して得があるかと思うが、結局は宿内であれば二次会に客を連れて行けば、それなりの歩合、外へ行けば紹介料、客からのチップなどの副収入になったのかと思われる・・・知らんけど。

団体だと、お風呂に入ってから夕食宴会となるが、そろそろコンパニオンというものが流行り出したころであった
大人数には主催者幹事が杓してまわるなどできないから、、コンパニオンを頼んで盛り上げたが、10人、15人くらいでの宴会の時には、宿の仲居さんがだいたい2人ついて料理運びの合間には話し相手になってくれたりして、それが海千山千の40代、50代だと「高いお金を出してコンパニオンなんか呼ぶより、私たちの方がよほど楽しいよ」と自信ありげに言う、闘争心むき出しなのも、コンパニオン以前から客を楽しませてきたと言うプライドだろう
確かに、話し上手で温泉の裏表、男女の問題などさらりと話してくれて、なんでも打てば響く、われわれも血気盛んな30代、40代だったから大いに盛り上がった
確かに若くてぴちぴちのコンパニオンだが、いかにも営業スマイルで、話も騒がしいだけで面白くない
せいぜいカラオケでジュエットしたり、酔いに任せてチークを躍るくらいで、会話の面白さは仲居さんには遠く及ばなかった
バブル崩壊で、あのようなベテランの仲居さんが居なくなり、若い二十代の仲居さんになり時代も変わってお行儀のよいマニュアル的な人ばかりで、仲居さんと言うより社員と言う感じになった
あのベテラン仲居さんのような味のある、とぼけた面白さは期待できなくなった、艶話などしたら「セクハラ、パワハラ」と言われそうで、結局コンパニオンに逃げるしかないが、それさえ必要ない年齢になった。

同級会旅行が主になって、これまたコンパニオンなど足元にも及ばない同級生女子の面白さ、他の部屋の団体さんがカメラを取りに戻て、我々の宴会を撮るほどのエンターティナー女史揃いだった
それも今は夢物語となってしまった。

加賀屋に最上級の雪月花が出来、百万石は梅鉢亭と同じ旅館でもハイクラスのの客向けの別館特待サービスでプライドを持ち上げた、仲居さんや従業員には浴衣で特別な客であることをわかるようにしていた。

大きな温泉宿は館内にクラブ、居酒屋、スナック、カラオケボックス、ラーメン店などを作って、客を外に出さないようになった
コンパニオンも予定時間が終わってもしぶとく幹事や客に宴会中から、「席がお開きになったら館内の二次会に連れて行って」とねだる
酔っぱらって太っ腹の「なんちゃって社長さん」になった客は「はいはい」とお大尽様になって了承するが、コンパニオンはちゃんと30分刻みで花代を加算している
それも一人ならいいが、二人三人と居るから、翌日帰る時になって、フロントで支払いが終わった幹事から、コンパニオンを引き連れて遊んだ連中は「夕べのコンパニオン代一人2万円徴収します」などと言われて、素面の顔が真っ青になることもしばしば
遊びに行かなかった仲間から借金する羽目の者が時々いたものだ
利口な奴は宴会中に仲居さんと約束して二次会は少しのチップで仲居さんとカラオケなどに行って一緒に楽しく遊んで、1時間ほどで切り上げて部屋で飲みなおして寝る、仲居さんも手すきの仲間を呼んでくるが、飲み代を持ってやるだけでコンパニオンみたいに花代はいらないから安いものだ
バカな奴はべろべろになって、部屋までコンパニオンを連れてきて飲みなおすから、タクシーのメーターの如く花代は跳ね上がっていき、翌日の悲劇を迎える。

芦原温泉でのこと、私と先輩のKさん二人で、宴会のあと外に出てラーメンを食って一杯飲んで部屋に帰ってきたら、若い芸者が一人、部屋の襖の前で正座している
「なんだ?どうした?」と聞いたらば、「この襖の向こうにいるHさんと言う人に宴会の時『部屋で飲みなおすから来い』と言われて来たのですが、もう一時間待ったけど寝ていて起きないんです、帰れば怒られそうですし、姐さんにももう一席と言ってあるので帰るに帰れません」と言う
Kさんと目配せして「わかった、もう彼氏はグッスリで起きないから、あんたも今帰れと言われても困るだろうから、俺たちと外へ飲みに行こう」と言って
連れだした、そして温泉街の店に案内させて彼女と夜中まで3時間ほど飲み明かして戻った。
翌朝、当然ながら請求が来た、もう忘れたが相手はコンパニオンではなく芸者だから花代も高い、5・6万円くらいだったと思う
その請求書をHに見せて、「あんたが呼んで、ずっと待たせた芸者の請求書です、俺たちも後始末のために付き合いしたから、これは三等分と言うことで支払いしましょう」ということで決着した。
本人は芸者を呼んだことすら覚えていなかったらしいが、事実は事実だから仕方ない
記憶が無くなるほど飲むと、こんな風に寝ているだけでも花代がつくことがあるから気をつけないとね。
もっともバブルの頃だから、それほどこたえなかったが、年金生活の今ならとてもじゃないができることではない。