甲越の将兵は鬼となって戦場を切って回り、討つ者、討たれる者みな血しぶきをあげて我劣らじと戦えば、馬のいななき、兵の叫ぶ声天にまで届けば、突然、不思議の変起こる。
その始まりは、景虎が前日、善光寺山に本陣を構えた時、旗本大熊備前朝秀は本陣より六町ほど離れて陣を構えたが、士卒は今夜の薪を取るために、近辺を走り回り、竹木を伐り、民家を壊し、神領を侵した
神官らは驚き、大熊の陣屋に来て「当社明神と申すは、祀る神猿田彦大神にて渡らせ賜い霊験あらたなる御社なり、この神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)天上より降臨したまう時、先駆けまします御神にて、山王にては早尾神と申し、熱田にては源大夫と言い、また道祖神とも申し奉わる
船にては船魂、海辺には塩土翁と号し奉わり、軍神を守って幸いを得さし給う
冥助も神罰も著しく渡らせたまう霊神の神地を侵し給わんこと、御罰の程も恐ろしくそうらえば、速やかに軍勢らの乱暴を止め給うべし」と嘆いて言えば、備前守はうち笑い
「霊神であろうと霊仏であろうと、軍陣の要に用いることに何の恐れがあろうや、我を脅す汝らが申すことこそ憎い也」と言って、拝殿までも打ちこわし、その夜の薪として焼き捨てた
神は、その無礼を咎めて、その夜、大熊の陣所が鳴動することおびただしく、翌日、武田、長尾戦うところ、一転にわかにかき曇り、白日影を消し、一団の黒雲空中を二回り、三回りして、武田の陣の上に舞い下がり、また山嵐となって長尾の陣を指してたなびき覆う
あわやと見るうちに、長尾の旗指物は風に翻り、パタパタと鳴りはためき、しばらくして黒雲は四方へパッと散り失せた。
大将景虎は、これを見て「これただ事に非ず」と宇佐見駿河守と共に、先勢に馳出て軍配を取って軍勢を後方に引き下がらせた。
晴信もこの怪異に驚いて、山本勘助を引き連れて先陣に出でて、同じように引き下がらせた
両将の指揮の迅速なること、大波が一時に引くがごとく、まことに目を驚かせた。
その夜は互いに大篝を焚いて一夜を明かし、翌日に至り、越後陣より「毘」の指物の武者一騎、立文を竹に挟んで、うち掲げ、片手綱にて馬を乗りだし、武田の陣の近くの小山に降り立ち、立文を挟んだ竹をしかと突き立てる
これを見て、武田陣より鉄砲を雨あられと撃ちかけたが、少しも怖れず腰より扇を取り出して打ち開き、敵の方へ三度まで打ち招き、馬に乗りしずしずと立ち帰る
武田の陣からも黒の馬に赤母衣をかけた武者が一騎の乗り出て、この竹を持ち帰り晴信に奉ればその文に曰く
「今日、陣を払い、軍を能登越中の間に出し、征伐すべき間、貴殿もしばらく軍を休められるべし、勝敗は追って決すべし」と書き送られてあった
しばらくして武田陣より、むかでの指物の武者が一騎、竹に文を挟み、長尾の陣近くまで持ってきて立置いて帰陣する
長尾の陣より、初めの武者がこれを取って陣に戻り、景虎に奉る
その文には、「当陣を払い、能登越中に軍を移すとのこと承った、当家も軍を帰すなり、両家が干戈を交えるのは、村上の信濃帰還の事によるのが原因である、この義を思いとどまるならば、我らは何の遺恨も無い」
この応答が終わると、長尾勢は本国に帰り、武田勢も海津まで退き、六月に甲州に戻った。
*
*編者曰く 越後軍記には五月十日に景虎は晴信に十一日に一戦に及ぶとの使者を送ったところ、晴信も承知して、武田勢は桑原より押し出し、景虎も犀川を渡って陣を敷いた
黒雲の事は天変と言うほどにあらず、たまたまの風が激しく吹いたにすぎない
景虎ほどの猛将が戦の最中に強風に驚いて兵を引くとはありえまい
前日、大熊に命じて神社を侵させて、この黒雲の作り話を考えたのである
それは武田の陣があまりにも強固なので破ることが出来ぬと思い、兵を引く口実としたのだ、もし武田を打ち破る自信があるなら天地が裂けても景虎は攻め寄せたであろう
景虎は引き上げながらも捨て奸計を謀り、武田勢が追ってくれば、取って返してこれを破る構えであった
晴信も、これを知っていて景虎の謀の恐ろしさを思って、あえて追うことをしなかったのである
両名大将の軍略は計り知れぬ。