去る四月十一日、川中島での戦いの最中に怪異な現象が起きて、両軍共に引き上げたことについて、山本勘助晴幸は晴信に「景虎、心憎く思えども、彼の軍備えは聞きしに違わず、なかなか容易な敵ではありませぬ
この度、幸いなことに景虎は越中に出陣とのこと、景虎の戦の様をぜひとも間者を放って逐一知りたいと思います」と言えば、馬場民部少輔、内藤修理正、前に進み出て「当世の諸大将、智愚剛臆の評を聞くに、抜群の秀でるあり、聞きしより劣るあり
景虎の軍略が名高いとはいえ、当家との対陣の様子を見れば、若大将であるからか、それともわが軍を恐れているからなのか、軍立て危うく見えるのは軍慮が足りないのか、深き謀があるからなのか、某らの量り知るところにあらず
大敵も怖れぬ、山本氏がかくまで申されるのなら、定めて深き思慮があるのでしょう
されども、この間者は大切であります、一つは越中の地理に人情に詳しい者であること、その二は、景虎に見破られて虜になったとしても、その場を切り抜ける弁舌巧みな利口者でなければ、当家の威信は地に落ちて笑いものになるでありましょう」と申せば、晴信も「もっともなことである」と同意する
そして晴信が選んだ患者は、故小幡入道日浄の六男、小幡弥三左エ門尉
勇猛にして弁才にて軍学に秀でる者、それに曹洞宗の会下大益という隠れ無き知識にて戦場さえも怖れぬ悟道徹底の僧を添えて、越中に忍ばせて遣わす。
そもそも全国の諸大将らは、それぞれに他国へ間者を三人、五人と忍び込ませてるのは常であり、それらを忍術者と申す
忍術者は敵国の風俗から地理、大将や兵の強弱、諸将の不和を伺い、神主、行者、百姓、などに身をやつして、あるいは隠形の術をもって敵の城中に出入りすることも可能とする
越後の国には、すでに武田の忍術者が入っている、その者は盲目の琵琶法師で、石坂検校と言う
平家物語を得意の名手で、聞く人に感を催させると名高く、戦の合間に石坂を屋敷に招いて平家物語を語らせる諸将も多く、盲目であることで安心して、ついつい軍の秘密まで漏らす諸士多く、それを石坂は一部始終つなぎを通じて晴信の耳に入れるのであった。
ある時、景虎は石坂検校の噂を聞き、「是非、平家物語を聞きたいものよ」と招き入れた
石坂は、この時来たりと喜び、精神を徹していと面白く語れば、座の一同は皆、心身を入れて聞きほれていたが、なぜか景虎一人が落涙して見えた
大将も石坂の語りに感激して涙を流したのだと、皆思い、石坂検校も座すところで景虎に問えば、景虎は「今、石坂が語った物語を聞いていて、わが朝(天皇が治める国=日本のこと)の武勇の盛んなりし時代を考えれば、鳥羽院の時代には内裏に妖怪現れて、帝を御悩ましけるを、八幡太郎義家が殿上の下の口に侯して鳴弦して(弓の弦を強くはじきながら鳴らして魔を払うまじない)、「我は鎮守府将軍八幡太郎義家なり」と名乗れば、たちまち妖怪は姿を消してしまった、帝もその後は平癒なされたのである
、その後は頼政が兵破りの矢をもって妖怪を射落とすと言えども化鳥なおも動き回って暴れるのを、猪の早太が九度も刀で貫き、ようやく退治したのであった
義家が鳴弦して妖怪を追い払った時から四十六年後のことであったが、武徳がはるかに劣ることは明白である
ましてや我らは頼政よりも四百五十年遅れて来た、我もまた頼政よりもなお劣ることを覚えずにはいられない、それを思うと悔しさでついつい涙が出てきたのである」との仰せを聞いて居並ぶ将士はみな「名将の武の志厚き事須臾(しゅゆ=すこしの間)も忘れることは無いのだ」と感じ入った。
景虎は、石坂に過分なる引き出物を与えて、思う仔細あって「当国に足をとどめるべからず」と国境から追放した
皆は、これをいぶかしがったが、後に武田の間者が捕らえられてはじめて、石坂が武田の間者であったことを知った
そして、あの時、景虎が平家物語の鵺(ぬえ)の一段の間に、石坂が間者であることを見抜いていたのだと、今更ながらに知り景虎の叡智を恐れた。