きちんとした場に、きちんとした情報なりご縁がやってくる。
服をたたむのも、ほこりを掃くのも
部屋を片付けるのも、そこが本意なり。
機能性ももちろんだが、機能も含めて
抜かりなく整い安定しているのがいい。
逆に、人生をあえてごちゃごちゃとさせたければ
髪型から服装から、
部屋から食事、生活のリズムみな
ごちゃごちゃにすれば、自ずとそうなる。
その選択も自由といいたい所だが、
人の体は非常にきちんとしたシステムにできているから、
ごちゃごちゃな不安定を続けていると
遅からず病氣となる。
部屋くらいは、「安定したごちゃごちゃ」の成立が可能かもしれないが
それは既に、その人の思想哲学の域となり
意のままを貫いた安定の極みといえる。
氣になりながらも放置しておく、というのが
最も不安定で、その思いや罪悪感がたまったところには
高い確率で事故がある。
たとえば、冷蔵庫の脇にホコリがたくさん溜まってて
氣になるけど、いつか、いつかと先伸ばししていると
コップなどが落ちて、割れた破片がそのホコリだまりに
飛び散り、結果的にホコリも掃除する、という流れになる。
不安定を放置しておくと、いつか安定させるための
トラブルが起こるから、そうなる前に日ごろから
ちょこちょこ整えておくべし。
だけど、不安定な状態が目に見えてから直す、という姿勢では
厄除け程度の効用であり
もしもあなたが すてきな風を呼びたければ、
すすんで身の回りの物や事、自らの身だしなみから
言葉遣いから、品よく調えておくべき。
友達が来るから片付ける、という受け身じゃなくて
片付いてきれいだからすてきな来訪者なりテンシが来るってもんだ。
髪をとかすのも、寝ぐせを直すのも、
そう、よりよくあらむと生きる上での全てが、
自分と自分のいる世界というアンテナを磨くことになる。
全ては後ろに存在する。
その中から、すてきなものが自らの前に現れるかどうかは
自分が輝いているかどうかだが、
その輝きさえ、自らが放っているのではなく
後ろにある輝きを
心とかたちのアンテナが引き寄せたものであるから、
まずは身の回りの手の届く部分をきちんとすれば、
連鎖的に光が、さらなる光を呼びよせる。
食事時は、たくさんの命が食卓に並ぶときで
無数のアンテナが花ひらき結ばれたる
大変神々しき大切な場だから、
決してパソコンを見ながらとか、テレビを見ながら食べてはいけない。
本当は、会話もいけない。
周りをよく片付けて、音楽も消して、
パジャマのままではなくきちんとした身だしなみで
姿勢よく向き合う。
現代ではそんな苦行な・・・と感じるかもしれないが、
ふた昔前なら、当然のかたちだ。
全てにおいてきちんとすることは、みな自分に帰ってくる。
遊ぶときは無邪氣にめいっぱい遊びはじけるのも、
遊びのある風を呼ぶには必要な姿勢。
だから、きちんとするというのは
ガチガチに厳格に、ということとは限らない。
目の前の今に、妥協しないということ。
妥協がストレスを溜め込み、いつか悲惨な爆発をとげる。
そういう極端なバランスの取り方ではなく
日ごろから 変な我慢の溜め込み方をせず
そのつど すっくりとあらまほしき
言動をおこなう。
出し惜しみせず、出した分は補給する。
それが進化の風を呼ぶ。
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