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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌと台湾、先住民が交流 函館でシンポ

2014-10-21 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2014年10月20日10時02分
■伝統文化伝承などで意見交換
 アイヌ民族と台湾の先住民が参加する日台交流シンポジウムが18日、函館市で開かれ、双方が伝統文化の伝承などについて意見交換した。
台湾からはブヌン族の人々と、政府の原住民族委員会の鍾興華・副主任委員(副大臣)ら21人が来日。日本側はシンポを主催した道南マウコピリカの会理事長の加藤敬人・函館アイヌ協会会長らが出席した。
 台湾には16の先住民族がいて、人口は総人口の2・3%の53万人余りという。
 鍾氏らは、先住民族の文化伝承や研究などのために86年に政府が設立した「原住民族文化園区」と、先住民の教育や国際交流を目的とした民間の「ブヌン文教基金」の活動などを報告。日本側からは秋辺日出男・阿寒アイヌ工芸協同組合専務理事が、民芸品制作やアイヌシアターでの舞踊披露などの活動を説明した。
 また国が白老町に整備する「民族共生の象徴となる空間」(象徴空間)の展示のあり方について、北海道大学アイヌ・先住民研究センターの佐々木利和・客員教授は整備や運営にアイヌ民族が参加する重要性を強調した。
 シンポで、函館空港近くに「蝦夷(えぞ)ウスケシコタン」を整備する構想も発表された。アイヌの伝統家屋チセや舞踊を見せる舞台、アイヌ工芸のショップなどを造るもので、創設準備委員長を務める若山直・五島軒社長は「アイヌコタンの伝統的な生活空間を空港近くに造り、アイヌ文化を国内外に広く知らしめたい」と話した。ウスケシは函館のアイヌ語の古名で、4年後の開設を目指すという。
 (泉賢司)
http://www.asahi.com/articles/CMTW1410200100007.html


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宝物を運んでくる十三湊/吉村久夫

2014-10-21 | アイヌ民族関連
Kigyoka.com ベンチャー企業のためのメディア-2014年10月20日
企業家倶楽部2014年10月号【歴史は挑戦の記録】
家康を驚かせた蝦夷錦
 1593年(文禄2年)のことです。太閤秀吉の朝鮮進攻の命で、名護屋城の留守を守っていた徳川家康の所へ、蝦夷の大名の蠣崎慶廣が訪ねてきました。見ると見事な錦の陣羽織をまとっています。家康は欲しくなりました。「それは何という衣だ」と尋ねます。慶廣は「蝦夷錦です」と答えます。そしてその場で蝦夷錦を家康に進呈したと伝えられています。
蠣崎氏は太閤秀吉によって、当時は蝦夷といっていた北海道の唯一の大名としての地位を認められたばかりでした。ナンバーツーの徳川家康にも認めてもらいたかったでしょう。蝦夷錦は格好の進物となりました。慶廣は家康に対面した後、蝦夷の本拠地の名前を取って姓を松前に改めます。松前氏は参勤交代の度に蝦夷錦を纏いました。
蝦夷錦は実は蝦夷で織られたものではありませんでした。織られたのは、絹の産地として知られていた中国の蘇州でした。それが高級官僚の官服となって沿海州へもたらされたのです。それというのも、中国政府は沿海州に出先機関を設けていたからです。出先機関の役人たちは雲竜などを刺繍した錦を纏いました。それが蝦夷へ流れてきたのです。
蝦夷錦は正確には中国錦でした。それが沿海州、樺太を経て蝦夷に流れたのです。つまり蝦夷の人たちが沿海州と交易して入手していたのです。これを山丹交易といいました。山丹人は黒竜江(アムール川)の下流に住む人たちでした。実は、古くは平安時代から、蝦夷錦は日本にもたらされていたようなのです。高僧の袈裟や武将の陣羽織に使われていたらしいのです。
三つの主要交易ルート
この山丹交易には十三湊も係わっていました。なにしろ十三湊は環日本海交易の拠点だったのですから。十三湊にはこのほかにも二つの主要な交易ルートがありました。一つは津軽海峡の向こうの蝦夷(北海道)との交易です。アイヌの人たちとの定期的な交易が行われていました。いま一つは、いうまでもありませんが、京都、大阪つまり上方との交易です。この三つの交易ルートは互いに物資を融通したり、情報を交換したりする関係にありました。それでこそ環日本海交易なのです。
津軽は上方の人たちに「みちのく」と呼ばれていましたが、実は津軽海峡の存在によって大きく開かれていた地方でした。そして津軽海峡の向こうから、いろいろと珍しい物資が渡ってきました。それらは上方はもちろん、日本列島の各地に届けられました。例えば昆布です。昆布は上方はもちろん沖縄まで届けられて、人々の食生活を豊かなものにしたのです。その実情は今日でも変わりありません。
蝦夷からもたらされた食料は昆布のほかに鮭、鰊、鮑などがありました。これまた今日も変わりありません。そのほかには熊皮、熊胆、鷹、ラッコの皮、オットセイの皮、白鳥、鶴、真珠などもありました。樹皮を細かく裂いて織った仕事着のアツシもありました。アツシは和人の漁夫たちにも重宝がられました。
代わりに津軽から蝦夷に渡って行ったものは鉄製品、米、陶磁器、食器、衣類などでした。アイヌにとって米は貴重なものでした。それから様々な生活用品も彼らの生活を豊かなものにしました。交易とは元々お互いに利便を分かち合うことなのですから。もっとも、江戸時代になると、アイヌ側が不利な交易条件を押し付けられるケースが増えたようです。
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吉村久夫(よしむら・ひさお)
1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。
http://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20141020.html

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