先住民族関連ニュース

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ジョゼー・マウロ・ジ・ヴァスコンセロス

2015-11-12 | 先住民族関連
メガブラジル- 11/12

ジョゼー・マウロ・ジ・ヴァスコンセロス (José Mauro de Vasconcelos)
生年月日 : 1920年2月26日
名前 : ジョゼ・マウロ・デ・ヴァスコンセーロス
名前2 : J・M・デ・ヴァスコンセーロス
名前3 : J・M・デ・ヴァスコンセロス
国内外で広く知られているブラジル人作家のひとり。リオデジャネイロ市のバングーという地域で生まれるが、家庭の経済的な都合もあり、子どものころにリオグランジドノルチ州のナタウ市にある叔父の家にひきとられた。
9歳のころナタウのポテンジという地区の海岸で泳ぎを覚えたジョゼーは、いくつかの大会に出場して表彰もされた。水泳選手を夢見たこともあったが性格は気まぐれな面もあったという。
2年間医学を学んだ後、15歳でリオデジャネイロに戻り、生活のためにボクシングのトレーナー、彫刻のモデル、果物の荷役人、農家、映画俳優、ラジオ局での仕事など、実にさまざまな仕事に就いた。サンパウロではナイトクラブの給仕も務めた。
スペインで学ぶ奨学金を得たジョゼーはヨーロッパを見聞。帰国後、兄弟のヴィラ・ボアスと共にアラグアイア川流域を探検。地域で生活する先住民族と交流した。この経験は、金採掘人の生活を描いた処女作「バナナ・ブラヴァ(野生のバナナ)」(1942)を、ジョゼーに書かせるきっかけとなった。いくつかの大学の学科を専攻したがどれも修了はしなかったという。
ナタウの塩田を舞台にした「バーホ・ブランコ(白い土)」(1945)、「ロンジ・ダ・テーハ(遠き大地)」(1949)、「ヴァザンチ(湿原)」(1951)、「アララ・ヴェルメーリャ(赤いインコ)」(1953)、「アハイア・ジ・フォーゴ(エイ)」(1955)を次々と発表。1962年に発表した「ホジーニャ、ミーニャ・カノア(ホジーニャ、私のカヌー)」で広くしられるようになった。同書はパリのソルボンヌ大学でのポルトガル語の授業の教材にも選ばれた。
その後も「ドイダォン(狂人)」(1963)や、「オ・ガラニャォン・ダス・プライア(ビーチの種馬)」(1964)、「コラサォン・ジ・ヴィードロ(ガラスのハート)」(1964)、「コンフィッソンイス・ジ・フレイ・アボーブラ(修道士アボーブラの告白)」(1966)を発表。
そして1968年に発表した自伝的要素の色濃い小説「メウ・ペ・ジ・ラランジャ・リマ」を発表。国民的な愛読書となった本作は、ブラジルでこれまでに2度映画化されているほか(1970年と2012年)、3度もテレビドラマ化(1970年、1980年、1998年)されている。同書は日本でも1974年に角川文庫から「わんぱく天使」の邦題で日本語版が出版された(ただし英語訳からの訳出。訳者は岡本浜江)。2015年には、ポプラ社からポルトガル語の原書から訳出された。ポプラ社版の邦題は「僕のオレンジの木」。翻訳は永田翼と松本乃里子による共同訳。
その後も「フア・デスカウサ(裸足の道)」(1969)、「オ・パラシオ・ジャポネース(日本の城)」(1969)、「ファリーニャ・オルファン」(1970)、「シューヴァ・クリオーラ(クレオールの雨)」(1972)、「オ・ヴェレイロ・ジ・クリスタウ(ガラスのヨット)」(1973)、「ヴァーモス・アケッセール・オ・ソウ」(1974)などを執筆した。「メウ・ペ・ジ・ラランジャ・リマ」の続編「ヴァーモス・アケッセール・オ・ソウ」もまた、「続・わんぱく天使」の邦題で角川文庫より1979年に日本語版が出版されている。訳は南本史。
1984年7月、サンパウロで他界。
<参考> http://www.prefeitura.sp.gov.br/ http://www.dec.ufcg.edu.br/biografias/JosMVasc.html
ジョゼー・マウロ・ジ・ヴァスコンセロスの最新情報
ブラジルで40年以上愛されつづけている小説「ぼくのオレンジの木」、日本語版発売
ブラジルで1968年に発表されて以来、世界各国で広く愛され続けているジョゼ・マウロ・デ(ジ)・ヴァスコンセーロスの小説「メウ・ペ・ジ・ラランジャ・リマ」の日本語訳「ぼくのオレンジの木」がポプラ社より発売された。 11月10日(金)、駐日ブラジル大使館にて、訳者の永田翼・松本乃里子の両氏を迎えての記者会見が開催された。同書のファンでもあり「魔女の宅急便」の作者としても知られる児童文学作家の角野栄子さんも会場に駆けつけ、本書が日本で出版されたことへの喜びを語り、両訳者にエールを送った。...[続きを読む]
http://megabrasil.jp/jdb/55

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知里幸恵の業績、一冊に 登別の記念館がガイド本

2015-11-12 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/11 16:00

銀のしずく記念館のガイドを手にする横山むつみ館長
 【登別】知里幸恵銀のしずく記念館(登別本町2)は開館5周年を記念し、展示・収蔵資料を解説する初の「記念館ガイド」を発刊した。アイヌ民族による神謡の最初の文字記録「アイヌ神謡集」出版の経緯や、1922年(大正11年)に19歳で早世した著者知里幸恵の生涯について、写真や資料をまじえて紹介。幸恵の業績や神謡集の文学・社会的意義が分かる内容になっている。
 ガイドは記念館を運営するNPO法人知里森舎(ちりしんしゃ)が出版。幸恵はアイヌ民族に対する日本語教育など当時の同化政策に屈せず、消滅の危機にあったアイヌの口承文芸を守るため「アイヌ語を書き文字にするという新しい分野」に挑んだと解説した。その後、神謡集は90年以上読み継がれ、違星北斗らアイヌ民族出身の文学者に影響を与え、英語、フランス語などに翻訳され、「アイヌ文学のベストセラー」と意義づけた。
 このほか「幸恵の生い立ち」「幸恵のアイヌ語表記」など記念館の解説文を展示資料の写真と共に載せている。解説文には神謡集を英訳した米国の研究者サラ・ストロングさんの英訳も加えた。
 執筆に当たった横山むつみ館長(NPO法人理事長)は「来館者の質問が多かった神謡やカムイなどについても説明し、幸恵を通しアイヌ文化を学べる内容になっている」と話す。
 B5判48ページで千部製作し、登別市立図書館などに配った。記念館の運営資金(1口千円)を寄付し、希望すればガイドを受けとることができる(郵送料は別途)。問い合わせは記念館(電)0143・83・5666へ。(中村康利)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/doo/1-0200704.html

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古代歴史文化賞の大賞に「アイヌ学入門」

2015-11-12 | アイヌ民族関連
産経ニュース-2015.11.11 09:44更新
 日本の古代史に関する優れた書籍を表彰する「古代歴史文化賞」の選定委員会が開かれ、第3回大賞に瀬川拓郎・旭川市博物館館長の『アイヌ学入門』(講談社)が選ばれた。瀬川氏は「古代史といえば西日本が中心。日本の領域外と考えられていた地域の歴史文化に光を当てていただき、アイヌの方々にとっても大きな意義があると思う」と述べた。
 受賞作は、単一の性格で捉えられがちなアイヌ民族論を複合的な視座から再構成し、広く日本の文化や民族についても考えさせる作品。
 優秀賞は『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(森郁夫著、淡交社)、『東国から読み解く古墳時代』(若狭徹著、吉川弘文館)、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(山本淳子著、朝日新聞出版)、『万葉集と日本人』(小川靖彦、KADOKAWA)の4作。特別賞は、古代史研究に貢献してきた上田正昭京都大名誉教授に贈られた。
 同賞は古代史にゆかりの深い三重、奈良、和歌山、島根、宮崎の5県が共同で実施。研究に立脚しながら一般読者に分かりやすい作品を選出している。
.http://www.sankei.com/life/news/151111/lif1511110018-n1.html

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平安の「口琴」が出土 羽生の遺跡で鉄製3例目

2015-11-12 | アイヌ民族関連
東京新聞 2015年11月11日

羽生市の屋敷裏遺跡から出土した平安時代の鉄製口琴(手前)。上の2本は現在の金属製口琴
 県埋蔵文化財調査事業団(熊谷市)は10日、羽生市の利根川付近の屋敷裏遺跡から楽器の一種で鉄製の「口琴(こうきん)」が出土したと発表した。一緒に出土した他の出土品の年代から、10世紀前半(平安時代後期)のものと推定している。鉄製口琴としては氷川神社東遺跡(さいたま市)から出土した2例に次ぎ国内3例目となる。 (花井勝規)
 出土した鉄製口琴は全長一四・八センチと現代の鉄製口琴に比べ四~五センチ大きい。二〇一二年十月、屋敷裏遺跡の竪穴住居跡から発掘された。当初は馬具の一種とみられていたが、今年五月に行ったエックス線調査の結果と、断面が正方形の鉄製角棒になっていることなどが決め手となり、鉄製口琴と特定された。
 口琴は口にくわえて弁をはじいて振動させ、口腔(こうくう)内で共鳴音を響かせる楽器。「ビヨヨーン」との音が特徴だ。金属製のほかにも竹や木、骨で作られた口琴もあり、シベリアや中央アジア、東南アジアなど世界各地に分布。日本ではアイヌ民族の伝統楽器に竹製口琴「ムックリ」があるほか、江戸時代の文政年間に金属製口琴の琵琶笛(びやぽん)が江戸で大流行したとの記録が残っている。
 事業団は、出土した鉄製口琴など十数点を十四日と十六~十九日に県文化財収蔵施設(熊谷市船木台)で一般公開する。十四日には「まいぶんフェスタ2015」のイベントとして口琴の演奏会もある。問い合わせは同事業団=電0493(39)5348=へ。 
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201511/CK2015111102000218.html

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沖縄の三線にそっくり? 樺太先住民族の楽器製作

2015-11-12 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/11 07:00

サケの皮を使った樺太先住民族の楽器
 サケの皮を使った樺太先住民族ニブフの楽器を、北大アイヌ・先住民研究センターの北原次郎太准教授(39)が仲間と共に製作した。形は沖縄民謡に欠かせない「三線」にそっくりだ。
 三線が趣味で、ヘビ皮の代わりにサケ皮を張れないか思案中、1808年に間宮林蔵と樺太(サハリン)を縦断した松田伝十郎の著書に、サケ皮の楽器の記録を見つけ、絵図を元に復元した。
 アイヌ民族も三味線の形をした楽器を使っていたといい、中国の「三弦」を起源とする楽器は南北双方から伝わったようだ。「サケを意味するアイヌ語シペにちなみ楽器の愛称はシペセンです」
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/life-topic/life-topic/1-0200611.html


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日ハム、新千歳空港の巨大広告撤去 アイヌ民族に配慮が欠けていた

2015-11-12 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 (2015年 11/10)

撤去された日本ハムファイターズの広告=9日、新千歳空港
 プロ野球・北海道日本ハムファイターズは9日、新千歳空港に掲げていた巨大バナー広告にある「北海道は、開拓者の大地だ」との文言がアイヌ民族への配慮に欠けていたとして、同日夜にすべて撤去した。
 広告は縦5・5メートル、横2メートルの垂れ幕2枚を天井からつり下げたもので、計4面に栗山英樹監督と大谷翔平ら3選手を起用。このうち1面に栗山監督の写真と共に「北海道は、開拓者の大地だ」との文言を記し、6月から国内線ビル2階で掲示していた。
 北海道アイヌ協会(札幌市)の関係者が広告の文言に気付き、先住民族としての権利を害する不適切な表現として、8日に球団側に電話で指摘。これを受けて、球団側が9日中の広告撤去を同協会に伝えた。
 日ハムは2013年に「北海道179市町村応援大使」の一環で、当時選手だった稲葉篤紀さんが白老町応援大使に就任し、同町のアイヌ民族博物館で体験学習を受けている。昨年はチームスローガンにアイヌ語を採用していた。
 日ハム広報部は「新たな領域を切り開くチームであり続ける意図をこのフレーズに込めたが、アイヌ民族の皆さまに配慮が欠けていたことはおわびしたい」とコメントした。広告はデザインを変更して再掲出する予定。
 同協会は「アイヌ民族の存在や文化を理解していない配慮に欠ける文言だったが、迅速に撤去していただいた」と話した。
http://www.tomamin.co.jp/20151132029

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大地のART 日米融合

2015-11-12 | 先住民族関連
読売新聞 2015年11月11日
◇備前焼作家・平川さん アーカンソー州で土窯造り
 米南部のアーカンソー州で、備前焼の伝統を踏まえた新しい陶芸を生み出すプロジェクトが進んでいる。古い形式の「土窯」を造り、備前焼作家と現地の芸術家らが、先住民族「ネイティブ・アメリカン」の味わいを取り入れた作品を制作。関係者は「土と炎が生み出すシンプルで力強い芸術を広めたい」と力を込める。(浅野博行)
 プロジェクトに取り組むのは、備前焼作家・平川忠さん(60)(備前市伊部)と米国の彫刻・陶芸家で、テキサスクリスチャン大准教授のクリス・パウエルさん(58)ら。
 土窯は室町時代以前に備前焼を焼いた穴窯。竹や細木の骨組みに、土を塗りつけて造り、平川さんが備前市新庄に復元した。パウエルさんは昨年12月に来日し、平川さんから土窯での焼成方法を学んだ。
 ネイティブ・アメリカンの古い土器に魅せられ、自身の作品に生かしてきたパウエルさんが、備前焼の技術も取り入れ、良さを米国で伝えたいと、土窯の築造を計画。故郷の同州を選び、平川さんを招いた。
 今年5月、若手作家の赤井夕希子さんらと渡米した平井さんは、約1か月かけて窯を完成。7月末から現地の人たちも交え、約250点を焼き上げた。作業は全て公開し、地元メディアは「窯自体が大地のアート」と伝えた。
 8月には、テキサス州フォートワースのギャラリーで展示会を開催。土本来の味わいを出した食器や花器、オブジェなどに、来場者の間で「プリミティブ(原始的)なエネルギーを感じる」と評判を呼んだという。
 「米国では、ネイティブ・アメリカンの古い文化に魅力を感じる人は多い。焼き締めるだけの備前焼の中でも、土の味をさらに深める土窯の作品に共感を持ってくれたのではないか」と平川さん。「今後は米国全土に魅力を発信したい」と意欲を見せる。
http://www.yomiuri.co.jp/local/okayama/news/20151110-OYTNT50184.html

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特派員メモ)先住民、手にはスマホ @ブラジル・パルマス

2015-11-12 | 先住民族関連
朝日新聞 2015年11月11日09時30分柴田真宏

女子サッカーに参加したガビオン族のツクエリー・コマイテレさん=パルマスで、柴田真宏撮影
 ブラジル中部パルマスで、世界24カ国の先住民が集まって伝統競技を行う「先住民のオリンピック」が10月末まで開かれた。開会式は、日が落ちてたいまつがともされた会場であった。
 参加者の多くは、半裸で腰みのを巻き、鮮やかな羽根飾りを身につけていた。自然の中で生きる伝統を感じさせたが、よく見ると手に光るものを持った人の姿が目立つ。何かと思ったらスマートフォンの画面だった。みんな撮影に夢中だ。
 大会は弓矢や丸太担ぎといった競技が中心だが、そこはブラジル。サッカーもある。同国パラ州の奥地に住むガビオン族の女子チームも参加した。選手たちは部族の風習通り全身にペインティングを施しつつ、蛍光色の派手なシューズを履いてプレーしていた。ツクエリー・コマイテレさん(17)は「サッカーは面白い。プロになりたい」。1歳の長男にもプロ選手になってもらいたいという。
残り:95文字/全文:470文字 全文を読む
http://www.asahi.com/articles/ASHBX669QHBXUHBI02K.html

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バナナ繊維使った台湾先住民の機織り、花蓮県の文化資産に

2015-11-12 | 先住民族関連
中央フォーカス台湾  2015/11/10 17:23

(花蓮 10日 中央社)花蓮県政府文化局は10日、豊浜郷に住む台湾原住民(先住民)カバラン族に伝わるバナナ繊維を使った機織りを県の「文化資産」として登録した。
バナナ繊維の機織りは、物資が不足した際に、サイザルアサの代用品として広まったとみられる。原住民の中ではカバラン族の女性が唯一、代々受け継いできた。
文化局の陳淑美局長は、伝統技術の記録と伝習を進め、多彩な文化を社会に広めたいとしている。
(李先鳳/編集:齊藤啓介)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201511100012.aspx

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【古代遺跡と古代人の謎】豚肉ウマー! ストーンヘンジ周辺住民の“真に優雅な生活”が明らかに!!

2015-11-12 | 先住民族関連
TOCANA (風刺記事) (プレスリリース)-2015.11.10.
 ロンドンから西に約200kmに位置するストーンヘンジは、1986年に世界遺産に認定されたストーンサークルで世界で最も知られた古代遺跡のひとつである。考古学者によると、この巨大な石柱は、紀元前2500年から紀元前2000年の間に作られたと考えられているが、一体誰が何のために作ったのか長い間謎のベールに包まれてきた。機械もない時代、このような巨石を人力で運ぶのにはさぞ労力がかかっただろうことは想像に難くない。ストーンヘンジを建てた人々はよほどスタミナのつく食事をしていたのだろうか。ジューシーなハンバーグ、超ビックサイズのステーキ……。
■ストーンヘンジは皆が楽しんで作っていた!?

画像は「DailyMail」より
 当時、新石器時代のブリテン諸島で暮らしていたのは半遊牧民のウィンドミル・ヒル人と呼ばれる人々だ。イギリスの主要な先住民族のブリトン人が、ヨーロッパ大陸から移住してくるのはその1000年も後の話である。ピラミッドのように古代巨大遺跡と聞けば目的は不明にせよ、多くの奴隷が血と涙を流して苦役についていたというイメージがあるが、最近の発見によってどうやらそうではないということがわかってきたのだ。
 ストーンヘンジ遺跡より約2.7キロ離れたダーリントン・ウォールズと呼ばれる場所から同時期の食器類が発掘され、それらの付着物を科学的に調査した結果、古代人達は「ヨーグルトやチーズ、ローストした豚肉」といった、当時としてはとても豊かな食事を採っていたことが明らかになった。ヨーク大学の考古学者達はこの発見より、ストーンヘンジは奴隷などではなく、「古代人自らすすんで、豊かな食事を楽しみながら」建設に従事していたとみている。そして、ダーリントンはストーンヘンジ建設に関わった古代人たちの生活の場であったとも推測されている。日が暮れ、ストーンヘンジでの仕事が終わるとダーリントンに戻り、楽しい会話とリッチな食事に舌鼓を打っていたのだと想像すると、なんともロマンチックな話である。
■ストーンヘンジとダーリントン・ウォールズの関係
 ダーリントン・ウォールズにはストーンヘンジの石柱とほぼ同じ9メートル級の木製環状モニュメントがあったことが明らかになっており、考古学者達は、ダーリントン・ウォールズとストーンヘンジは個別の遺跡ではなく、それらまとめて1つの巨大遺跡であった可能性があるとして、研究を進めている。また調査によると、食器の類はストーンヘンジでは10数個しか見つかっておらず、ダーリントンではその千倍ほど発掘されていることや、ストーンヘンジから土葬や火葬を行った跡が見つかっていることから、古代の人々は、ダーリントンを生活の場とし、ストーンヘンジを神聖な場として捉えていたのだろうと、シェフィールド大学の考古学者はみている。
■まるまる豚を太らせて食べていた!
 さらにシェフィールド大学の研究によると、当時の人々は豚をまるまる豚を太らせてから食していたことが発掘された大量の骨から分かっている。時代的に考えて、家畜を育てていたとは驚きである。考古学者は「当時の人々は秋から冬の食料に乏しくなる季節に備え、計画的に家畜として豚を飼育していたのでしょう」、と語っている。
 なんと、古代の人は、室内で切り分けた豚肉を煮たり焼いたりしていたほか、外では今のバーベキューのようにして大勢で食事を楽しんでいたと考えられているのだ!
 そして、発掘された骨を化学的に分析した結果、ウェールズやイギリス北部から連れられて来た豚もいることから、
「このことは、ストーンヘンジの建設にあたって、イギリスの様々な地方からかなり多くの人々が集まってきた証拠になるでしょう。また宴会の形跡から見ても、奴隷を引き連れていたということは考えにくいのです。これも、ストーンヘンジが奴隷によって築かれたものではないという1つの証拠になるでしょう」
 と、ヨーク大学考古学研究のチーフであるオリバー・クレイグ教授が専門誌に記している。また、発掘された骨からみて、羊やマトンを食べる習慣はなかったようだ。同様に、野菜を育てたり、消費していた形跡も見つかっていないという。
 ヨーグルト、チーズ、豚肉、ヨーグルト、チーズ、豚肉……、ストーンヘンジの建築にスタミナを付けなくてはいけないのはさておき、ちょっと胃に持たれそうな感じもしなくもないが。
■1つのコミュニティとして食料も分け与えて
 クレイグ教授が言うには、
「ダーリントン・ウォールズからの発掘を含め、先史時代の食事は先に考えられていた以上に大規模なものであることがわかってきました。先にいた住人はもとより、移住してきた人にも食事を分け与えたりして、ストーンヘンジの建造という下に大きなコミュニティが形成されていた可能性が大きく信ぴょう性のあるものへとなってきました。また、郷に入っては郷に従えと、移住してきた人たちも、料理の仕方から、ゴミの処理などを教えてもらっていたようです」
とのこと。
 また儀式を執り行っていた場所からも、ミルクを入れていた器が発掘されている。これは、食器として使われていたのではなく、先史時代見知らぬ者を受け入れる儀式に使われていたものだと考えられている。謎に包まれたストーンヘンジでがあるが、実際に築き上げた人々の食事に着眼すると、現代人が忘れている人と人との温かい交流を垣間見ることができるのではないだろうか。
(アナザー茂/アナ茂のこれまでの記事はコチラ)
http://tocana.jp/2015/11/post_7873_entry.html

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哀れを防ぐ知恵を生み出せ!

2015-11-12 | アイヌ民族関連
北海道新聞 (ブログ)-2015年11月10日
スポーツ強豪高校、大学ではスポーツ推薦入学や特待生入学が行われている。私の母校、早稲田大学のスキー部は現在の部員数は49名に上る。
私の入学時の昭和40年はスポーツ推薦制度がなくなり、インターハイ優勝者と3位の二人が合格できなかった。翌年は6人が受験したが、全員が合格できず、私は2年間最下級生を経験した。だが全部員13名でインカレ総合優勝を果たした。
推薦入学や特待生入学制度を否定するものではない。部員数が増えるのであれば、指導者の数も増やす必要がある。また、インカレ出場枠が決まっている場合でも、枠内に入るトップ級以外の選手たちが意欲を失わないように、Aチーム以外のBチーム、Cチームの対外試合や、学内交流戦で入れ替え意欲の維持に努める必要があるのだ。自分も頑張れば、上に行けると思えば人は意欲を失わない。
意欲を失うと、人は落ち込む。落ちだすと一緒に落ちる仲間を探し出す。周りに指導者の数が少なかったり、プレーは教えるが精神面や生活面に無頓着のコーチだったり、部自体に自主自立、自治精神、社会性意識が希薄であれば、落ちだす者は続出し、その組織は堕落し、人も堕ちる。
スポーツ有名大学で授業には一切出ず、朝からパチンコ店に並び、出身校が高校名というスポーツ選手は多い。
プロ野球に入るということは、超エリートスポーツ選手の証明だ。読売巨人軍が契約解除した野球賭博3選手は32歳、24歳、22歳だ。球団は専務取締役代表が引責辞任したが、3選手は一般客が入れない「裏カジノ」で賭博をし、球団はそのことで厳重注意と罰金の処分をしていた。にもかかわらず、3選手は出入りを続けていた。「裏カジノ」などは「裏社会」以外はできないものだ。この段階で、球団は致命的なミスを犯した。元監督が女性問題で裏社会の人間に1億円の口止め料を払ったことなども過去に露見していたのだから、全力で対処すべきだったのだ。
さらに賭け麻雀で10名、賭けトランプで11名、甲子園高校野球での賭けも常態化していたという。
巨人軍は球界の盟主であり、、、選手は常に紳士たれ という読売巨人軍は、抜本的な対策を求められている。読売巨人軍の自浄能力が問われている。
すべては、哀れを防ぐ知恵を生み出せなかったことが原因だ。
日本ハムファイターズも他人事ではない。今回の「北海道は、開拓者の大地だ。」問題は、撤去差し替えは当然だが、北海道日本ハムファイターズを名乗りながら球団内に「このキャッチコピーはまずいよ。その理由はね、、、」と指摘する者がいなかったのか?
「北海道」の名付け親、松浦武四郎が蝦夷地を何度も調査できたのは、彼が先住民のアイヌ民族に敬意を払い、常に各地のアイヌ民族が道案内を務めてくれたからだ。三重県松坂市の「松浦武四郎記念館」には、その証拠が山ほど展示されている。
北海道内自治体の親善大使活動など日本ハムの活動は大いに評価するが、併せて北海道の成り立ちなども教育を徹底してほしい。それも、哀れを防ぐ知恵の一つだと思う。
http://blog.hokkaido-np.co.jp/sports-ryuji/2015/11/post-370.html


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