朝日新聞 2016年11月05日
国のアイヌ政策が動き始めた。2020年に白老町で「民族共生象徴空間」が開館し、生活や教育の格差解消などを視野に「アイヌ新法」制定への検討も進む。今後の政策への期待と課題を聞いた。
(聞き手・長谷川潤)
■伝統の継承へ、最後の好機 阿寒アイヌ協会長・廣野洋さん
スタート地点に立たせてほしい。そのための政策をずっと希望してきました。一歩でも進んで、今より少しでも良くなるように。そのためには絶えず声を上げて要望し続けなければなりません。
私の地元、阿寒には道内最大級のアイヌコタンがあります。コタンとはアイヌ語で「集落」を意味します。現在36世帯130人が伝統の文化を守りながら、木工細工の販売などで生活しています。
昔は各地に同じようなコタンがたくさんありました。でも生活的な困窮やいわれない差別で土地を離れ、身分を隠さざるを得ない状況に追い込まれて消えていきました。
いまアイヌ新法成立に向けた大きな動きがあり、とても期待しています。でも法律制定への希望は今に始まったことではないのです。アイヌの血を引く者たちは何十年も求め続けてきました。生活の向上や教育格差の是正などは、国内に同じような希望を持つ方がたくさんいます。だからアイヌに特別な施策となると理解が得られないことも多い。その理由は、歴史的な背景や私たちの先祖が歩んできた道、アイヌの現状を十分に知ってもらえていないことにあると思います。
もともと狩猟や漁業などで生活の糧を得ていたアイヌは、明治時代以降、日本の同化政策でその暮らしを奪われました。農業に転換させられ、与えられたのは多くがやせた土地でした。
生活に追われて子どもの教育にまで手が回らず、アイヌ語から日本語に変えるよう強いられたこともあり、教育格差は進んでいきました。学歴が大きくものをいう日本社会では就職にも苦労し、都会に出た人たちの多くも安定した生活は送れませんでした。
教育格差や困窮は差別の一因にもなりました。いじめられて学校に行けなくなる子どももいました。アイヌであることを隠して生きる人も増え、道などによる福祉施策が届かないまま、つらい生活を送る人も多くなったのです。
阿寒のコタンは、踊りや歌、言葉などの文化を今に伝えています。でもそれは厳しい環境の中、現状を訴え、工夫と努力で生活を守った先輩たちの血のにじむ努力の上にあるのです。もっと普通に文化や伝統を守っていけるようにしたい。そのためには、負の連鎖を一度断ちきる必要があると思います。
消えていかざるを得なかった文化、伝統、アイヌとしての誇りを未来にきちんと伝えていくために、もう時間はありません。法律の制定はその区切りをつけ、スタートラインに立つための最後のチャンスだと期待しています。
*
ひろの・ひろし 釧路市出身。アイヌ民族の母と九州出身の父との間に生まれ、幼少期を阿寒町(現・釧路市阿寒町)で過ごす。高校卒業後に東京で暮らすが、8年前に地元に戻り、道アイヌ協会理事も務める。52歳。
■誇り持って選べる社会に 北大アイヌ・先住民研究センター長、常本照樹さん
アイヌ政策には今、追い風が吹いています。政府は東京五輪・パラリンピックの2020年に「民族共生象徴空間」を白老町に整備します。アイヌへの理解と共生を進める「扇の要」になる施設です。世界が注目する五輪開催国が先住民族への対応をおろそかにしているようでは国の信用が失われます。アイヌ政策を進めるチャンスです。
2008年、国会がアイヌを先住民族として認めるよう政府に求める決議をしました。政府がこれを受け、有識者懇談会が報告書をまとめ、その具体化が続いています。
米国や豪州などで語られる「土地の返還」「政治的な自決権」といった先住民族の権利実現を直ちに目指すのは、今のアイヌと日本の現実になじむでしょうか。自らをアイヌと考える人が幸せに生きられる社会を作ることが目的なら、まず社会の現実と向き合う必要があります。
アイヌの人たちは生活格差の中にいます。根底には社会的な差別がありますが、「私は差別していない」と考える人が多いでしょう。私たちが生まれながらに日本文化に接してアイデンティティを育てるのと同じ事がアイヌの人たちにはできません。それを放置していることも差別なのです。アイヌの人たちが誇りを持ってアイヌを選択して生きられる社会の実現をまず目指す。そこで初めて今後を議論できます。
法律的な観点も欠かせません。日本国憲法は「法の下の平等」を規定し、特別な扱いを原則禁止していますが、憲法13条では「個人の尊重」を定めている。自由に生き方を選択でき、国はそれを尊重する。差別などが続く社会ではアイヌとして生きていく選択肢が閉ざされています。国には選択できるように問題を解消する責務があるのです。
「貧困や差別はアイヌだけのことではない」との意見もあるでしょう。でもアイヌは立場が違います。近代化を急ぎ、アイヌの文化に深刻な打撃を与え、自主・自立的に生きていくことを困難にしたのは国です。だから国には、そこから生じた問題を解消する強い責務があるのです。
政府は立法措置を含む総合的な施策で対応する方針です。生活向上などを目指す立法に期待する声がありますが法整備には時間がかかります。個人給付にはアイヌであることの証明や平等問題、生活実態把握など課題が多い。熱が冷めても政府を逃がさないことがさしあたり法律の最大の役割ではないでしょうか。まず先住民族としてのアイヌの地位確立などを冷静に考えるべきかもしれません。
*
つねもと・てるき 岩見沢市出身。北大法学部長などを歴任。専門は憲法学。政府のアイヌ政策推進会議の作業部会長としてアイヌ政策全般の検討に関わる。61歳。
■記者の視点
道内に暮らすアイヌの人たちは、どのくらいいるのか。関係機関に問い合わせると、必ず「把握できている限りでは」とことわりがつく。正確な数はアイヌの人たちにも把握できていない。
背景には、今も残る差別や偏見がある。素晴らしい文化を持つ先住民族でありながら、その立場を隠して生きなければならない悔しさや悲しみは、いかばかりか。
長年の課題となっている生活向上や教育格差解消には、個人の特定が不可欠だ。様々な施策に「なぜアイヌだけ」との声が上がる現状では、それもままならない。
先住民族として尊重し、真の課題解決を目指すなら、歴史教育や差別解消をこれまで以上に徹底する必要がある。今こそ腰を据えて取り組まねば、新法や民族共生の象徴空間も東京五輪・パラリンピックに向けたパフォーマンスになりかねない。 (長谷川潤)
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20161107011190001.html
国のアイヌ政策が動き始めた。2020年に白老町で「民族共生象徴空間」が開館し、生活や教育の格差解消などを視野に「アイヌ新法」制定への検討も進む。今後の政策への期待と課題を聞いた。
(聞き手・長谷川潤)
■伝統の継承へ、最後の好機 阿寒アイヌ協会長・廣野洋さん
スタート地点に立たせてほしい。そのための政策をずっと希望してきました。一歩でも進んで、今より少しでも良くなるように。そのためには絶えず声を上げて要望し続けなければなりません。
私の地元、阿寒には道内最大級のアイヌコタンがあります。コタンとはアイヌ語で「集落」を意味します。現在36世帯130人が伝統の文化を守りながら、木工細工の販売などで生活しています。
昔は各地に同じようなコタンがたくさんありました。でも生活的な困窮やいわれない差別で土地を離れ、身分を隠さざるを得ない状況に追い込まれて消えていきました。
いまアイヌ新法成立に向けた大きな動きがあり、とても期待しています。でも法律制定への希望は今に始まったことではないのです。アイヌの血を引く者たちは何十年も求め続けてきました。生活の向上や教育格差の是正などは、国内に同じような希望を持つ方がたくさんいます。だからアイヌに特別な施策となると理解が得られないことも多い。その理由は、歴史的な背景や私たちの先祖が歩んできた道、アイヌの現状を十分に知ってもらえていないことにあると思います。
もともと狩猟や漁業などで生活の糧を得ていたアイヌは、明治時代以降、日本の同化政策でその暮らしを奪われました。農業に転換させられ、与えられたのは多くがやせた土地でした。
生活に追われて子どもの教育にまで手が回らず、アイヌ語から日本語に変えるよう強いられたこともあり、教育格差は進んでいきました。学歴が大きくものをいう日本社会では就職にも苦労し、都会に出た人たちの多くも安定した生活は送れませんでした。
教育格差や困窮は差別の一因にもなりました。いじめられて学校に行けなくなる子どももいました。アイヌであることを隠して生きる人も増え、道などによる福祉施策が届かないまま、つらい生活を送る人も多くなったのです。
阿寒のコタンは、踊りや歌、言葉などの文化を今に伝えています。でもそれは厳しい環境の中、現状を訴え、工夫と努力で生活を守った先輩たちの血のにじむ努力の上にあるのです。もっと普通に文化や伝統を守っていけるようにしたい。そのためには、負の連鎖を一度断ちきる必要があると思います。
消えていかざるを得なかった文化、伝統、アイヌとしての誇りを未来にきちんと伝えていくために、もう時間はありません。法律の制定はその区切りをつけ、スタートラインに立つための最後のチャンスだと期待しています。
*
ひろの・ひろし 釧路市出身。アイヌ民族の母と九州出身の父との間に生まれ、幼少期を阿寒町(現・釧路市阿寒町)で過ごす。高校卒業後に東京で暮らすが、8年前に地元に戻り、道アイヌ協会理事も務める。52歳。
■誇り持って選べる社会に 北大アイヌ・先住民研究センター長、常本照樹さん
アイヌ政策には今、追い風が吹いています。政府は東京五輪・パラリンピックの2020年に「民族共生象徴空間」を白老町に整備します。アイヌへの理解と共生を進める「扇の要」になる施設です。世界が注目する五輪開催国が先住民族への対応をおろそかにしているようでは国の信用が失われます。アイヌ政策を進めるチャンスです。
2008年、国会がアイヌを先住民族として認めるよう政府に求める決議をしました。政府がこれを受け、有識者懇談会が報告書をまとめ、その具体化が続いています。
米国や豪州などで語られる「土地の返還」「政治的な自決権」といった先住民族の権利実現を直ちに目指すのは、今のアイヌと日本の現実になじむでしょうか。自らをアイヌと考える人が幸せに生きられる社会を作ることが目的なら、まず社会の現実と向き合う必要があります。
アイヌの人たちは生活格差の中にいます。根底には社会的な差別がありますが、「私は差別していない」と考える人が多いでしょう。私たちが生まれながらに日本文化に接してアイデンティティを育てるのと同じ事がアイヌの人たちにはできません。それを放置していることも差別なのです。アイヌの人たちが誇りを持ってアイヌを選択して生きられる社会の実現をまず目指す。そこで初めて今後を議論できます。
法律的な観点も欠かせません。日本国憲法は「法の下の平等」を規定し、特別な扱いを原則禁止していますが、憲法13条では「個人の尊重」を定めている。自由に生き方を選択でき、国はそれを尊重する。差別などが続く社会ではアイヌとして生きていく選択肢が閉ざされています。国には選択できるように問題を解消する責務があるのです。
「貧困や差別はアイヌだけのことではない」との意見もあるでしょう。でもアイヌは立場が違います。近代化を急ぎ、アイヌの文化に深刻な打撃を与え、自主・自立的に生きていくことを困難にしたのは国です。だから国には、そこから生じた問題を解消する強い責務があるのです。
政府は立法措置を含む総合的な施策で対応する方針です。生活向上などを目指す立法に期待する声がありますが法整備には時間がかかります。個人給付にはアイヌであることの証明や平等問題、生活実態把握など課題が多い。熱が冷めても政府を逃がさないことがさしあたり法律の最大の役割ではないでしょうか。まず先住民族としてのアイヌの地位確立などを冷静に考えるべきかもしれません。
*
つねもと・てるき 岩見沢市出身。北大法学部長などを歴任。専門は憲法学。政府のアイヌ政策推進会議の作業部会長としてアイヌ政策全般の検討に関わる。61歳。
■記者の視点
道内に暮らすアイヌの人たちは、どのくらいいるのか。関係機関に問い合わせると、必ず「把握できている限りでは」とことわりがつく。正確な数はアイヌの人たちにも把握できていない。
背景には、今も残る差別や偏見がある。素晴らしい文化を持つ先住民族でありながら、その立場を隠して生きなければならない悔しさや悲しみは、いかばかりか。
長年の課題となっている生活向上や教育格差解消には、個人の特定が不可欠だ。様々な施策に「なぜアイヌだけ」との声が上がる現状では、それもままならない。
先住民族として尊重し、真の課題解決を目指すなら、歴史教育や差別解消をこれまで以上に徹底する必要がある。今こそ腰を据えて取り組まねば、新法や民族共生の象徴空間も東京五輪・パラリンピックに向けたパフォーマンスになりかねない。 (長谷川潤)
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20161107011190001.html