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消えた巨大都市カホキア 今も解明が進む古代アメリカの謎

2024-12-31 | 先住民族関連

 

Eaquire 2024/12/30

By Ashley Stimpson

国の歴史的建造物、そして、ユネスコの世界遺産にも指定されているカホキア(※カホキア墳丘群州立史跡として指定)。5万人もの住民がなぜ突然この広大な居住地を放棄したのか? 考古学者たちは今なおその謎の解明を試みている。

最大人口5万人超。世界有数の巨大都市だった

イリノイ州南部、モンクス・マウンドにある144段の階段を上り切ると、晴れた日には活気あるセントルイスの街が一望できる。

700年前、そこは「カホキア」と呼ばれる広大な古代都市の中心だった。先コロンブス期の居住地として最大級であった古代都市カホキアには、公共広場、礼拝所、複雑な道路網、さらには天文台まで存在していたと考えられている。

ミシシッピ文化の文化的、宗教的、経済的中心地であったカホキアには、最盛期には2万人もの人々が暮らしていたという。これは当時のヨーロッパの都市に匹敵する規模だ。周辺の農場や村落を含む「グレーター・カホキア」の人口は、西暦1100年頃にピークを迎え、約5万人に達したとされる。住民たちの生活は、宗教的な祝祭や数日間続く祭り、賑やかなスポーツイベントで彩られていた。

古代アメリカ史における最大級の謎

しかし、わずか250年後にカホキアは放棄され、120もの土塁の上には背の高い草が伸び放題となった。研究者たちはその理由を解明しようと試みている。自然資源を使い果たし、乱獲や森林伐採を行ったとする説もある。また、頻繁な干ばつや洪水が都市を滅ぼしたとする説や、政治的な不安定さ、外部からの侵入者、疫病の到来を理由とする説もある。

近年の研究でいくつかの説は否定されたが、カホキア衰退の真相はわかっていない。むしろ、失われた都市の謎は時と共に深まるばかりだ。

先コロンブス期に繁栄の歴史

カホキアは、ミズーリ川、ミシシッピ川、イリノイ川が合流するアメリカン・ボトムと呼ばれる肥沃な地域に築かれていた。これは偶然ではなく戦略的なものだ。

当初、カホキアは何の変哲もない普通規模の集落に過ぎなかった。しかし西暦1000年頃、トウモロコシが先住民族の主食となり、遊牧社会から定住的な集落へと変容していった。この時期、豊かな土壌と水に恵まれたカホキアは「ビッグバン」と呼ばれる急成長を遂げ、ナチェズ族、ペンサコーラ族、チョクトー族など、ミシシッピ文化から人々を引き寄せた。実際、考古学者たちが遺跡から発見された歯を分析したところ、移民が人口の約3分の1を占めていたという。

人口の急増と共に、カホキアは単なる大規模な農耕都市にとどまらず、政治、商業、宗教の中心地へと発展していった。最終的に約23平方キロメートルにまで拡大し、その境界内には120もの土塁が築かれた。

「カホキア」という名は、数百年後の17世紀にフランス人が到着し、イリノイ連合に属するカホキア族と出会ったことに由来する。しかし、研究者たちは、この部族はカホキアの最盛期には住んでいなかったものと考えている。

Getty Images

1972年頃、イリノイ州のカホキア・マウンズ州立公園にあるモンクス・マウンドで、考古学者たちがネイティブアメリカンのゴミ捨て場を発掘している様子。

カホキア独自の文化が花開く

カホキアの人々は文字による記録を残さなかったし、ヨーロッパ人が到着する遥か以前に住民たちは離散していた。そのため、カホキアの生活がどのようなものだったかは、主に考古学的調査によってもたらされた。

内部に要塞があったことから、カホキアには社会的階層が存在していたものと考えられている。最大の土塁であるモンクス・マウンド(1800年代にフランス人のトラピスト会修道士が命名)には大きな建物があり、そこにはカホキアの政治的・精神的指導者たちが集っていた。その麓には、周囲3キロメートルほどの防壁に囲まれた街の中心があり、宗教的な祝祭や儀式が行なわれていた。

これらの祝祭や儀式がかなり賑やかだったことを示す証拠もある。カホキアの人々は定期的に「ブラック・ドリンク」と呼ばれる飲み物を飲んでいたようだ。これはヒイラギの葉から作られた飲料で、カフェイン含有量は濃いコーヒーの6倍ほどもある。

さらに考古学者たちは、一度の大規模な宴会で消費されたとみられる2000頭もの鹿の死骸が詰まった廃棄場も発掘している。

カホキアの住民たちの日常生活は忙しかった。男性は狩猟や農業、森林伐採を行ない、女性は家事や土器作り、織物などをしていた。ほとんどの家は防壁の外側にあり、一部屋だけの住まいが複雑かつ綿密に計画された中庭や通路で結ばれていた。実際、カホキアの人々が設計した東西の道路は、現在でもセントルイスへの道として使われている。

カホキアに点在する多くの土塁は埋葬地として使われ、なかには集団墓地もあった。考古学者たちは、儀式的な人身供犠の証拠を含む遺跡を偶然発見している。また、頭蓋骨が破壊された遺骸や、首を切られ、飛び道具による損傷のある遺骸は、政治的暴力の存在を示唆している。これは、この強大な都市の最期を示す手がかりの一つに過ぎない。

カリフォルニア州立大学ロングビーチ校の分子考古学者AJホワイトは、カホキアの人口は西暦1100年頃にピークを迎えたと推測している。彼は古代の排泄物を分析することでこの地域を研究してきた。ホワイトと同僚たちは、近隣のホースシュー湖の近くで採取した堆積物の分子を分析し、「11世紀が最も人口が多く、14世紀が最も少なかった」ことを発見した。「実際、西暦1400年頃にはっきりと人口は底を打っている」と彼は述べる。

突然の衰退と放棄。その原因は?

では、5万人もの人々が住んだ古代都市が、なぜ突然衰退したのか? それには、いくつかの有力な説がある。

例えば、政治的暴力を示す人骨を証拠に、カホキア内部の不和が衰退につながったと考える説がある。また、西暦1175年から1275年の間に防壁が4回も再建されていることから、近隣部族との衝突があった可能性を指摘する学者もいる。

カホキアが単に自然資源を使い果たしたとする説もある。防壁の建設だけでも2万本もの丸太が必要だったと推定されており、住民も建築や暖房、調理用に恒常的な木材供給を必要としていたはずだ。

広範な森林伐採は、カホキアの生活に悪影響を及ぼしただけでなく周辺の生態系も変化させた。木がなくなった土地は保水能力を失い、洪水などの水害が増加したと考えられる。しかし、この説は間違っている可能性がある。30年以上にわたって支持されてきた説ではあるが、最近の発掘調査では、カホキアの全盛期に侵食や地盤の不安定化があった証拠は見つかっていない。

人々がカホキアを放棄した理由として最も一般的なものは、洪水や干ばつといった自然災害だ。一部の学者は、カホキアが洪水の少ない時代に発展し、その衰退が大規模な洪水の再来と一致していることを示している。災害が農作物の不作を引き起こし、大都市を荒廃させた可能性が高いと彼らは主張する。

ホワイトの研究はこの説を裏付けている。

彼が分析した堆積物コアからは、洪水と干ばつの時期の証拠が見つかっており、人口の「大幅な減少」と一致している。「干ばつや洪水といった気候変動が、カホキアの人口減少に影響を与えた可能性は高い」

干ばつがどれだけの影響を与えたのか?

今年7月、カホキアに人々が住んでいた時代の植物の炭素同位体を分析した研究者たちは、干ばつがカホキアに壊滅的な影響を与えたとする説に異を唱える論文を発表した。

「我々は、カホキアの作物や他の食料源の多様性に関する数十年にわたる研究を行なったが、食料不足がカホキアを放棄する決定的な要因となったとすることに懐疑的である」と、土地管理局の考古学者ケイトリン・ランキンはメールで述べた。

ランキンは、たとえ干ばつがこの地域の農業に影響を与えたとしても、カホキアの農民たちは少なくとも8種類の作物を栽培しており、住民たちは「巨大な淡水漁場、世界有数の渡り鳥の飛行ルート、長年の地域コミュニティによって形成された多年生の湿地植物やナッツ、果物が豊富な『食の森』へアクセスできた」と説明しており、飢えに苦しむことは考えにくいという。

「だからといって、干ばつが食料を育てていた場所に影響を与えなかったというわけではない。それに、作物の不作が起きなくても、干ばつが地域を不安定化させた可能性はある」とランキンは補足している。

ホワイトもこの結論に同意している。度重なる洪水や干ばつは「システムに衝撃を与えた可能性が高い」と彼は言う。「現状が壊れるような混乱が起これば、大きな変化が起きてもおかしくない」

今日の気候変動の影響を受けている地域の人々のように、カホキアの住民たちも時間をかけて土地を離れていった可能性がある。謎が完全に解明されたわけではないが、カホキアが滅んだ理由は、小さな要因の積み重ねだったのかもしれない。

「カホキアは非常に複雑な場所で、その説明も複雑なものになりそうだ」とホワイトは話す。「我々は、農業、経済、文化、気候など、さまざまなデータを統合する方法を考える必要がある。社会はこれらに同時に対処しており、一つの変化がすべてを揺るがしかねない」

Source / Popular Mechanics
Translation / Eisuke Kurashima
※この翻訳は抄訳である。

https://www.esquire.com/jp/news/history-archaeology/a63145297/lost-city-cahokia/

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