2024年12月29日 11時00分共同通信
ペルーの古都クスコの劇場で行われたコンサートで踊るレーニン(右)。ダンサーのジュリッサはケチュア語を通じて母と新たなつながりを見いだした=2024年5月(撮影・ウィリアム・ブストス、共同)
「自由の歌を歌いながらみんなが集まる。恐れるものなどない。消し去ろうとしたって無理さ」―。ほっそりとした黒髪の青年がマイクを手に熱唱しながら、2人のダンサーとステップを踏む。ポーズを決めると、コンサートに集まった若者たちが歓声を上げる。
南米ペルーの古都クスコの劇場。歌手のレーニン・タマヨ(24)は、アンデス地方の手織り布をあしらった衣装をまとう。K―POP風のダンスミュージックに乗せ、スペイン語にアンデス先住民の「ケチュア語」を交えて歌う。
歌詞に込めるのは自然や愛、自由の大切さといったメッセージ。「これはQ―POP(ケチュア・ポップ)。世界のみんなをつなぐ音楽だ」
▽残る格差
ケチュア語は南米のアンデス山脈を中心とした先住民の言語の総称。クスコを首都としたインカ帝国の公用語だったが、今も国境を越えて数百万人が話すとされる。
16世紀にインカを滅ぼしたスペインによる植民地支配で、先住民は迫害を受けた。スペイン語が支配者層の言語となり、ケチュア語は社会の周縁部に追いやられた。
今もペルーでは首都リマなど「コスタ」と呼ばれる海岸地域と、「シエラ」と呼ばれる山岳地域の経済格差が大きい。国内政治を巡る混乱にもそうした対立が色濃く反映されている。
「僕たちの親の世代にはケチュア語で育ちながら、都会に出て現代的な生活になじみ、スペイン語だけを話すようになった人たちが多い」とレーニン。「貧困や地方といった差別的なイメージと結び付いているため、ケチュア語を話すのをやめてしまった人がいる」
そんなレーニンはケチュア語とアンデス音楽に囲まれて育った。母のヨランダ・ピナレスは著名な歌手。クスコに生まれたヨランダは10代半ばでレーニンを産み、女手一つで育てながら毎夜ステージに立った。
母に歌いかけられながら育ったレーニンは、呼吸するようにケチュア語を身につけた。
▽音楽が救い
リマ近郊に引っ越して小学校に通っていた頃、レーニンはいじめに遭った。おとなしい性格できゃしゃな体つきのせいか、方言交じりの話し方のせいかは分からない。いじめは次第に言葉から暴力にエスカレートした。居場所がなくなった。
泣きながら過ごしていた時に、3人組の女の子が音楽に合わせて踊っているのを見た。はやりのK―POPだった。思い切って声をかけると仲間に入れてくれた。歌とダンスに救われた。新たな居場所ができた。
大学に進んで心理学を勉強していた時、学内の歌唱コンテストで優勝した。自信を付けて、ケチュア語で歌い踊る動画を交流サイト(SNS)に投稿した。多数再生されて人気者になった。
卒業後に活動を本格化し、2023年に初のアルバム「AMARU」をリリースした。コンサートやテレビ番組への出演に加え、支援団体と共に子どものいじめ防止活動にも取り組む。
普段はシャイだがステージでは堂々としたしぐさ。ケチュア語について話す口調も熱を帯びる。「単なる言葉ではない。自分たちの民族や伝統、文化を深く知るための入り口だ」
「Q―POPは世代をつなぐ〝橋〟でもある。若い人だけでなく、親の世代にも自分のルーツを再発見してほしい」とレーニンは語る。
▽母に驚き
クスコのコンサートに参加したダンサーで振付師のジュリッサ・チョク(28)も、そんな経験をした一人だ。
子どもの頃から好きだったダンスを続けながら法律事務所に勤めていたが、新型コロナで事務所が閉鎖された。ダンス教室の生徒の紹介でレーニンの振り付けをすることになった。ある日、家でレーニンの曲を聴いていると、母親が「ケチュア語じゃない?」と聞いてきた。
「すごく驚いた。それまで母がケチュア語を話すのを聞いたことがなかった」。両親は場所は異なるものの、ともに山岳地域の出身。母はレーニンの歌詞をスペイン語に翻訳しながら、同じケチュア語でもさまざまな方言があることを楽しそうに話してくれた。
「母は都会に出てきてケチュア語をからかわれ、恥ずかしくなって話すのをやめてしまったらしい」とジュリッサ。「でも故郷に対する思いは消えることがなかった。レーニンの歌をきっかけに母は自分のルーツを思い出したの。今では私にケチュア語を教えてくれる」と笑顔を見せる。
レーニンの次の舞台はアジアだ。自分の居場所を与えてくれたK―POPを生んだ韓国や日本などでの公演を目指す。
「アジアと南米には西欧とは大きく異なる文化がある」とレーニン。「自分たちの伝統を劣ったものとして捨て去ったり、忘れたりしていないか。今こそ失われた誇りを取り戻そう」
【取材メモ/抵抗する魂】
ペルー・クスコ
レーニンの代表曲の一つが「KUTIMUNI(クティムニ)」だ。ケチュア語で「私は戻ってきた」の意味。スペインの植民者に殺されたインカ帝国最後の皇帝トゥパック・アマルをたたえる。「植民地支配に抵抗し続けた彼の魂が死んでいないことを、音楽を通じて伝えたかった」とレーニン。現代社会はグローバル化の波によって世界のどこに行っても画一的になりつつある。「一つ一つの文化がそうした波にあらがい、変化しながらも伝統とのつながりを忘れないことが大切だ」と語る。
(敬称略、文と写真は共同通信編集委員・吉村敬介、写真は共同通信契約カメラマン・ウィリアム・ブストス=年齢や肩書は2024年8月28日に新聞用に出稿した当時のものです)