先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

16~19世紀の「小氷期」、残酷な寒さは世界をどう変えたのか

2024-02-28 | 先住民族関連

戦争や大飢饉、迫害にも影響、一方で新たな商売や「黄金時代」ももたらした

ナショナルジオグラフィック2024.02.28

ベルギー、アントワープ近郊の凍り付いたスヘルデ川。1593年、ルーカス・ファン・ファルケンボルフ作。(PHOTOGRAPH BY INCAMERASTOCK, ALAMY STOCK PHOTO)

 16世紀から19世紀まで、北半球は長く続く厳しい寒さに見舞われた。この期間は「小氷期」と呼ばれているが、その原因は何だったのだろうか。また、どのような影響があり、人々は寒さにどう適応したのか。そして、新たな気候変動の時代に入っている現代の私たちは、そこから何を学ぶことができるのだろうか。

小氷期とは何か、その原因は

 小氷期は、本物の氷河期とは違う。平均気温はおそらく0.5℃低下しただけで、寒さがずっと続いていたわけでもない。米ジョージタウン大学の環境歴史学准教授であるダゴマール・デグルート氏は、「小さな小氷河期」が繰り返し起こっていた時代だったと説明する。

 米航空宇宙局(NASA)の定義によると、小氷期は1550年前後に始まり(一部の研究者はもっと早かったと主張している)、温暖な時期を挟んで寒さのピークが3回、1650年と1770年、1850年に訪れたとされている。

 小氷期がなぜ起こったのかはまだ解明されていないが、太陽活動の低下や火山噴火の増加のほかに、ヨーロッパ人による北米先住民の大量虐殺が原因だという説がある。大量虐殺によって人口が減り、耕作されなくなった農地に代わって森林が拡大し、大気中から約70億トンの炭素を吸収したという。(参考記事:「米先住民の大量死は17世紀の寒冷化に影響した? アマゾンで検証」

 2021年12月15日付けで学術誌「Science Advances」に発表された論文は、逆説的なようだが、1300年代末頃に非常に暖かい海水が熱帯から北に移動したことで、北極圏の氷が北大西洋に流出したことが寒冷化の引き金になったのではないかと推測している。

歴史のいたるところに影響

 小氷期の影響は歴史のいたるところに見ることができるが、どこまでがその影響によるものなのかは専門家の間で意見が異なる。(参考記事:「“17世紀の危機”の原因は小氷期」

 1658年にスウェーデン国王カール10世グスタフの軍隊が、凍り付いた海峡を渡ってデンマークのフュン島に侵攻したことや、1795年にフランス軍が海氷にはまって動けなくなったオランダ艦隊を捕獲したことなどは、確かに寒冷化がなければ起こりえなかっただろう。馬に乗った軍隊が艦隊を捕らえたのは、後にも先にもこれきりだ。

 農作物の不作が続くことによる恐れと不安から、ヨーロッパでは魔女裁判やユダヤ人への迫害が急増した。(参考記事:「魔女狩りの恐ろしい歴史、不当な嫌疑で殺された女性たち」

 さらに中国でも、食料不足によって農民の反乱が増えたことが明王朝崩壊の一因になったという見方がある。グリーンランドでスカンディナビア人の植民地が消滅したのも、気温低下に伴って海と陸の両方で氷が増加したためだろうと推測されている。

 ストラディバリウスのバイオリンが持つ独特の音は、寒さのためにアントニオ・ストラディバリが使用した木材の密度が高くなっていたためであるという説さえある。

 歴史的な出来事だけでなく、小氷期はそれ以上に普通の農民や都市に住む貧困者を苦しめた。人類学者のブライアン・フェイガン氏は、自著『歴史を変えた気候大変動:中世ヨーロッパを襲った小氷河期』(河出書房新社)のなかで、「アルプスの人々は、木の実の殻をひいたものを大麦とオーツ麦の粉に混ぜ合わせてパンを焼いていた」と書いている。

 英ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジのアリエル・ヘッサヨン氏によると、17世紀と18世紀初めに食料危機が深刻化し、1600年代末にはいくつかのヨーロッパの国で大飢饉が起こったという。あまりの厳しさに、1684年の冬、イングランド国王チャールズ2世は国民を助けるための寄付を募り、自らもそれに貢献した。おかげでイングランドは、近隣諸国よりはましな冬を乗り切ることができた。

 それでも、「全国で人が次々に死んでいった。動物、鳥、魚も同様だ。地面が硬くて穴が掘れず、埋葬もできなかった。樹木は割れ、植物は枯れた」と、ヘッサヨン氏はブログに書いている。(参考記事:「アラスカの凍土に眠る血みどろの歴史、貴重な遺物に消失の危機」

寒さに適応して生まれた商売や戦略

 それほど厳しい寒さにあっても、適応した人々がいた。ロンドンでは凍り付いたテムズ川で「氷祭り」が開催された。ホットチョコレートやパイを売る屋台が立ち並び、人々は氷上サッカーをしたり、イヌにクマを攻撃させる「クマいじめ」を見物したり、アーチェリーの腕を競ったりした。

 水上タクシーなど、川が凍り付いて商売ができなくなった人々もいたが、氷祭りで屋台を出すなど別の収入源を確保することで変化に適応していたと、ヘッサヨン氏は言う。「川の上なら賃料を払う必要がありませんから」

 米大陸では、現在のカリフォルニア州に住んでいた先住民モハベ族が、やはり気候の変動を受けて「高度に分散された交易文化を発達させました」と、デグルート氏は言う。また、丈夫な籠や陶器を作ってその中に物資を入れ、長距離を運んだ。「ある地域で食料が不足しても、別の地域との交易でその分を補っていました」

 ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダとベルギーの一部)も同じようにして、気候変動に強く多様な交易インフラを構築し、小氷期の最も困難な時期に「黄金時代」を過ごしていた。

 北米ニューイングランドの先住民からなるワバナキ連邦は、寒さと雪を味方につけ、雪靴を履いてイングランド植民地を襲撃した。しかし18世紀前半になると、今度は入植者たちが先住民の技術と知識を取り入れ、雪靴を履いた兵士らがワバナキの狩猟場をパトロールするようになった。

現代人が学べること

 デグルート氏によると、意外にも小氷期に商業が栄え、紛争が減った地域もあったという。それが、北極圏の捕鯨場だ。「寒くなって氷が増えたことでクジラが狭い場所に集中し、捕鯨がしやすくなったのです」。その結果、北極圏の捕鯨をめぐる武力紛争はなくなったという。

 そこには、現代の気候変動に直面する私たちが学ぶべきことがあるかもしれないと氏は続ける。「現代の国家安全保障をめぐる議論では、北極圏で正反対のことが起きると予想されています。北極の氷が解ければ競争が激しくなり、この地域での紛争が増えるというのです」

 各地に甚大な影響をもたらした小氷期だが、その気温の低下の幅は、現在の地球が直面している気温の上昇幅ほど大きくはなかった点を、デグルート氏は強調する。だからこそなおさら、当時のことや、人々がどのように適応していったかを理解することは重要だと、ヘッサヨン氏も言う。

「研究できそうな材料は山のようにあります。そこから、現在の危機にどう立ち向かうかを学べることを期待しています」(参考記事:「気候危機の伝え方は間違っていた? 気温目標ではダメと新提案」

文=KIERAN MULVANEY/訳=荒井ハンナ

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/022200108/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Blackmagic Design導入事例:インディーズ映画「Touch the Water」の場合

2024-02-28 | 先住民族関連

PRONEWS 2024.02.27 

Blackmagic Designによると、インディーズ映画「Touch the Water」がBlackmagic Pocket Cinema Camera 6Kデジタルフィルムカメラで撮影され、編集、カラーグレーディング、VFX、オーディオポストプロダクション・ソフトウェアであるDaVinci Resolve Studioが編集に使用されたという。同作はアメリカ先住民のコミュニティを擁護する作品であり、劇場での公開が継続されるのみならず、米国とカナダの保留地100箇所以上でツアーが予定されている。

同作は、高齢者センターのインターンが、高齢の先住民女性のもう一度、海を見て、実際に海に触りたいという長年の夢を実現させる、という心温まる物語。映像作家のトラビス・ホルト・ハミルトン氏が脚本・監督を手掛け、アメリカ先住民を扱った物語を伝え、その地位を押し上げることを目的としている。

Pocket Cinema Camera 6KでBlackmagic RAWを用いて撮影された同作では、アリゾナ州の灼熱の砂漠とカリフォルニア州のビーチでロケが行われた。

ハミルトン氏は、次のようにコメントしている。

ハミルトン氏:本作では極端な環境での撮影に苦労しました。大部分を夏のアリゾナで撮影したのですが、温度は確実に問題の一つでした。

極度な気温の中で高齢の出演者の撮影を行う際、時間は極めて重要です。このカメラは汎用性と有用性に優れているので、必要なショットをすばやく撮影でき、山火事の煙の注意報が発せられ、何日にもわたって気温が46℃を超える灼熱の中でもカメラが不安定になることはありませんでした。

同様に、海のショットでも活躍してくれました。砂、細かな埃、湿気をものともせずに、撮影に問題が生じることはありませんでした。

同作ではハミルトン氏が、撮影監督、プロデューサー、監督を兼任していたため、カメラは直感的に使えることを重視して選定された。同氏は多くの作業をこなさなければならない中、OSの操作性の高さのおかげで迅速に作業できたという。しかし、同作にとって欠かせない要素となったのは、カメラの画質とラティチュードだった。

ハミルトン氏:少人数で、日中の砂漠の容赦なく燦々と照る太陽光から、最低限の照明しかない夜間の撮影まで、極端な照明条件を扱っていました。低照明条件では、カメラのデュアルネイティブISOに助けられました。

また、ポストプロダクションでDaVinci Resolve Studioを使用したBlackmagic RAWのワークフローを用いていたので、露出不足や露出過多になったショットを簡単に修正できました。

ポストプロダクションにおいて、同氏はカラリストのジェイムズ・アダム氏およびエディターのトーマス・マニング氏と共に、DaVinci Resolve Studioを使用して同時に作業を行った。

ハミルトン氏:DaVinci Resolveのリアルタイム・コラボレーション機能のおかげで、足並みを揃えて作業ができたので時間を節約できました。本作が三分の一ほど完成した時点でプロジェクトをDaVinci Resolveに移行したのですが、すべてが滞りなく進められたので、もっと早く移行すれば良かったと思いました。

本作は、感情面と精神面に強く訴えかけるシンプルな物語を伝え、人々の心と心を繋げたいという思いから制作しました。

ハミルトン氏は、別のプロジェクトにもBlackmagic Designのワークフローを採用している。同氏の制作会社であるHolt Hamilton Filmsは、先日撮影されたドキュメンタリー「Break the Mold – The Zach Bates Story」にPocket Cinema Camera 6Kをメインカメラ、Blackmagic URSA Mini Pro 4.6K G2デジタルフィルムカメラをインタビューに使用した。同作は、自閉症と診断されている19歳のザック・ベイツ氏が20歳の誕生日までに100マイルのウルトラマラソンを走ることを目標に努力する姿を追うもので、ノーザンアリゾナの標高1950mの雪の中で撮影されたが、コンパクトなPocket Cinema Camera 6Kのおかげで、極端な気象条件で臨機応変なラン&ガン撮影が可能になったという。

現在、Holt Hamilton Filmsは次回作の「Finding Hozho」の制作を行っている。同作は中年男性と死期が間近な父親との間の許しあいの心を描いたアメリカ先住民の物語だ。フラッシュバックが多用されている同作では、二種類のルックが採用されており、一つは現在、もう一つは40年前を表現している。ハミルトン氏は、この2つのカラーを用いた物語を作成する上で、これらのカメラとDaVinci Resolve Studioを使用したワークフローは非常に重要な役割を果たしたと語る。

https://jp.pronews.com/news/202402271346472706.html


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代ハワイ、神々と共にある暮らし 守護神の化身が子孫を守る 

2024-02-28 | 先住民族関連

日経ビジネス2024.2.28By  Sayuri Roberts

キリスト教が伝来するまでは、先住民たちの多くが多神教・自然崇拝の国だったハワイ。今回は、古代ハワイアンが共通して信仰の対象とした、四大神をはじめとする神々や、人々をより身近な場所から守る神として大切にされていた「アウマクア」、さらに「カプ」と呼ばれるタブー行動の変遷など、ハワイの神々にまつわる歴史をお届けしよう。

世界の始まりをつかさどる神々

神々を表す木像の姿(写真:Island of Hawaii Visitors Bureau 〔IHVB〕 / Tyler Schmitt)

 ハワイ語には文字で記述する術がなかったこともあり*、古代ハワイについての伝承には様々なバージョンが数多く存在する。この世界の始まりについて、ハワイアンの間では、こう伝えられている。

*キリスト教宣教師たちがハワイ語の音にアルファベットを充てた。文字での記述が可能になったのは1822年以降。

 そこにあったのは、真っ暗闇の世界だけだった。その世界に、“父なる空の神ワーケア”によって、光が生み出された。

 目の前に現れた瓢箪(ひょうたん)を拾い上げたワーケアが、その上部を投げ上げた。すると、瓢箪は大空になり、果肉は太陽、月、雲になり、種は星になり、残された瓢箪の下部は大地と海になった。そして“母なる大地の神パパ”がハワイの島々を生んだ――。

 さらに話は続く。

 ワーケアとパパの間には、娘も生まれた。ワーケアは娘との間にも子を授かるが死産となり、その体を土に埋めると、そこからタロイモの茎(ハーロア)が出てきた。第2子が生まれた際に、その子にハーロアと名付け、それがハワイアンの祖となった。

 神話の上では、ハワイアンは神から誕生したとされ、「兄」はタロイモの姿となったということから、タロイモは神聖な植物とされていた。

 そして新たに神々が生まれた。最初に生まれた“創造をつかさどる神カーネ”は、地上に生命をもたらした。さらに、“戦いと労働の神クー”、“農耕と平和をつかさどる神ロノ” “海をつかさどる神カナロア”が続いた。

 カーネ、クー、ロノ、カナロアは「四大神」として知られ、さらにその下に、気性の荒い火山の女神ペレや、対照的な性格の妹ヒイアカ、「低すぎた空を持ち上げた」など、多くの神話が伝わる半神半人のマウイ、火山の女神ペレと対峙し勝利した雪の女神ポリアフなど、無数の神々が誕生している。

続きを読む

日常生活に深く浸透した神々の存在と畏敬の念

この記事は会員登録(無料)で続きをご覧いただけます

https://business.nikkei.com/atcl/plus/00055/021900016/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

120点を超えるイラストが! 「ゴールデンカムイ展」 来場者1万人突破〈仙台市〉

2024-02-28 | アイヌ民族関連

仙台放送2024.02.27

120点を超えるイラストが! 「ゴールデンカムイ展」 来場者1万人突破〈仙台市〉© 仙台放送

仙台市内で開催中の人気漫画・「ゴールデンカムイ」のイラストなどが楽しめる展覧会の来場者が、2月27日、1万人を突破しました。

宮城野区で開催されている「ゴールデンカムイ展」。ゴールデンカムイは、明治時代の北海道を舞台に、元兵士とアイヌの少女が金塊の争奪戦を繰り広げる人気漫画で、会場には120点を超えるイラストに加え、民具などの関連資料が展示されています。

27日は展覧会の来場者数が1万人を突破し、記念のセレモニーが行われました。

1万人目の来場者・神谷広弥さん

「妻が宮城県出身なので、帰省してたまたま来たら1万人目だったのでびっくりしています」

1万人目の来場者・神谷悠里さん

「アイヌという文化の面でも全然知らなかった世界がいっぱいあって楽しい。次は何か何かというのが魅力です」

ゴールデンカムイの世界が楽しめる、この展覧会は、3月24日までJR仙台駅東口のTFUギャラリーミニモリで開催されています。

https://www.msn.com/ja-jp/news/other/120点を超えるイラストが-ゴールデンカムイ展-来場者1万人突破-仙台市/ar-BB1iXDgE


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レッドイーグルス、栃木戦はアイヌ文様ユニホーム 3月9、10日「強さをアピール」

2024-02-27 | アイヌ民族関連

会員限定記事

北海道新聞2024年2月26日 21:59

昨年11月に行われた記者会見で、特別ユニホームを披露するイーグルスの佐々木一正選手

 レッドイーグルス北海道は3月9、10日、苫小牧市のネピアアイスアリーナに、栃木日光アイスバックスを迎え、2連戦を行う。イーグルスの選手は、アイヌ文様をアレンジした特別ユニホームを着用して試合に臨む。

 特別ユニホームは、チームカラーである赤を基調に、アイヌ文様をアレンジした柄を胸元にあしらった印象的なデザイン。苫小牧市が、イーグルスと苫小牧アイヌ協会の協力を得て作った。昨年11月、市内で行われた記者会見で、イーグルスの佐々木一正選手(34)は「強さをアピールできるデザイン。シーズン佳境で、このユニホームの力を借りて戦いたい」と言っていた。

 イーグルスは3月10日まで、選手と同じデザインのユニホームの予約販売を公式オンラインストアで行っている。S~XLの4サイズがあり、価格は1万7千円から。

 ・・・・・

(武内敦貴)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979939/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先住権の未来考えた アイヌ民族の訴訟学習 池田高

2024-02-27 | アイヌ民族関連

会員限定記事

北海道新聞2024年2月26日 19:49

班を回って生徒の考えを聞く米家直子教諭(左)

【池田】池田高の1年生32人が、マイノリティー(少数派)の人権について学ぶ授業で、ラポロアイヌネイション(旧浦幌アイヌ協会)の先住権確認訴訟を学習した。米家直子教諭がアイヌ民族の歴史や、海外の先住民族の現状などを説明し、生徒は裁判の行方や先住権の未来を考えた。

 裁判はラポロアイヌネイションが2020年、国と道を相手に、浦幌十勝川でサケを捕る権利の確認を求めて提訴。札幌地裁が4月18日に判決を言い渡す。2月20日の授業では、この裁判で問われている先住権の未来について生徒が考えた。

 9班に分かれて意見を出し合った生徒からは「アイヌ民族の立場になって考えれば分かる」「お互いに少しでも納得できるよう話し合いで解決すべきだ」といった意見があった。

・・・・・

(椎名宏智)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979828/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヌ文化振興へ連携 平取町、大分の大学と協定

2024-02-27 | アイヌ民族関連

会員限定記事

北海道新聞2024年2月26日 19:05(2月26日 19:41更新)

【平取】町と立命館アジア太平洋大(大分県)は、学生の育成やアイヌ文化振興を目的に連携する友好協定を締結した。町は観光分野を専攻する同大の学生の実習先として協力し、アイヌ文化を生かした地域振興策を学んでもらう。

 協定書には、町が行う事業への学生の参加や、町の課題解決についての学生の助言など7項目を盛り込んだ。同大が本年度に新設した「サステイナビリティ観光学部」の学生が町内でアイヌ工芸体験に参加したり、博物館で情報収集したりする活動を想定する。

 ・・・・・

同町が大学や高校と同様の協定を結ぶのは5例目。(杉崎萌)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979787/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヌ刺しゅう 自由な色使い 白老のサークルが作品展

2024-02-27 | アイヌ民族関連

会員限定記事

北海道新聞2024年2月26日 18:36

色鮮やかなアイヌ文様が施された作品が並ぶ展示

 【白老】町内のアイヌ刺しゅうサークル「フッチコラチ」(岡田育子代表)の作品展が、しらおいイオル事務所チキサニ(末広町2)で29日まで開かれている。

 「フッチコラチ」はアイヌ語で「おばあさんのように」の意味。現在、町内外の40~80代の14人が参加している。

 今回は昨年の夏から冬にかけて作ったタペストリーや・・・・・

 展示は午前9時~午後4時。問い合わせはチキサニ、電話0144・82・6301へ。(斎藤雅史)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979764/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口承文芸や古式舞踊を楽しむ 平取 シシリムカアイヌ文化祭【平取】

2024-02-27 | アイヌ民族関連

2024.02.26日高報知新聞

北海道アイヌ文化協会舞踊チーム「パラル」が舞踊を披露

【平取】沙流川流域(シシリムカ)のアイヌ文化の伝承活動を発表する「第34回シシリムカアイヌ文化祭」が18日、町中央公民館で開かれ、町内外から約300人が来場しアイヌ文化の口承文芸や古式舞踊などを楽しんだ。

 平取アイヌ協会(木村英彦会長)、平取アイヌ文化保存会(長野環会長)、平取町二風谷アイヌ語教室(川奈野一信運営委員長)主催。

 開会式で来賓の遠藤桂一町長は「日頃の学習の成果を楽しみにしている。アイヌ施策推進法が令和元年5月に施行され、アイヌ政策交付金制度が創立して6年目を迎えるが、当町は相当な成果を挙げている。アイヌの伝統工芸文化、担い手育成など多方面から評価されている。21世紀・アイヌ文化伝承の森プロジェクトなど長年にわたる地道な活動が次の世代に繋げていけるよう、より一層進化したものにしていきたい」、藤沢澄雄道議は「ハワイの先住民と話した時、文化を伝えるために根本になくてはならないものは言語だと言っていた。アイヌ文化復興に向けてアイヌ語を大切にし次世代に繋げてほしい」とそれぞれあいさつした。

 同文化祭は、二風谷アイヌ語教室の子どもの部で開幕。教室生13人が歌、手遊びなどを発表し、同成人の部12人による口承文芸では、カムイユカラ(神謡)、ユカラ(英雄叙事詩)、イヨンノッカ(子守歌)など、平取アイヌ保存会の27人は、ウポポ(座り歌)、クリムセ(弓の舞)、アンナホーレ(鳥の舞)などの古式舞踊を披露。

 また、昨年10月に12日間の日程で行われた「青少年国際交流事業」(ニュージーランド短期相互留学)に参加した平取高校3年の進藤綾斗さんと仲山大温さんが、マオリ民族学校を訪問し、互いの文化を学び合いながら交流し、親睦を深めたことを報告した。

 特別公演の古式舞踊では、東京五輪セレモニーに参加した北海道アイヌ協会舞踊チーム「パラル」の16人がムックリ(口琴)やエムシリムセ(剣の舞)、フッタレチュイ(黒髪の踊り)など13演目を披露し観客を魅了した。最後は会場の観客と共に「輪踊り」を踊り一体となって交流しフィナーレを飾った。

https://hokkaido-nl.jp/article/32962


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松浦武四郎たたえる劇を熱演 松阪の記念館でまつり

2024-02-27 | アイヌ民族関連

中日新聞2024年2月26日 05時05分 (2月26日 12時52分更新)

劇「武四郎物語」を行った6年生たち=松阪市小野江町の小野江小で

 松阪出身で幕末の探検家の松浦武四郎(1818~88年)をたたえる「武四郎まつり」が25日、松阪市小野江町の松浦武四郎記念館周辺であった。特設ステージや飲食ブースなどが設けられ、雨天ながら盛り上がりを見せた。 (芦原遼)

 松浦武四郎は6度の蝦夷地調査を行い、北海道の名付け親となったことで知られる。アイヌ民族の地位向上にも努めた。...

https://www.chunichi.co.jp/article/858988


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘンリー王子&メーガン妃、カナダ滞在で自分たちの影響力を世界に再認識させる 夫婦は、わずか72時間のカナダ滞在で、大仕事を果たしたようだ。

2024-02-27 | 先住民族関連

BAZAAR 2024/02/26 BY EMILY BURACK

2020年の王室離脱以来、ヘンリー王子とメーガン妃を巡っては、オプラ・ウィンフリーのインタビューからヘンリー王子の回想録『Spare』、チャールズ国王の戴冠式出席など、さまざま騒ぎが収まってはまた出ての繰り返しだった。しかし夫婦は、今回の3日間にわたるカナダ訪問で、自分たちが世界の注目を集めるパワーカップルであることを、改めて世界に再認識させたようだ。

インヴィクタスゲーム(負傷した退役軍人たちによる国際競技大会)は、ヘンリー王子が、かねてより最も大事にしてきた理念のひとつ。2025年の大会まで1年に迫ったことを祝い、先週カナダ各地のコミュニティセンターでイベントが開催された。王子は「この数日間は非常に特別なものでした。皆さん一人一人が、毎日私たちをインスパイアしてくれました」と述べた。

ぎっしりと詰まったスケジュールの中で、カナダのブリティッシュコロンビア州ウィスラー、スコーミッシュ、バンクーバーを訪れた夫妻は、来年の大会に備え、障害者ウィンタースポーツを習得した退役負傷軍人たちや、カナダの先住民族ファーストネイションの人々と会った。

どこへ行っても、事前に計画された入念な予定表より遥かに長い時間を過ごしてしまう様子は、いかにもヘンリー王子らしい。例えば、ウィスラー・ブラッコムのスキー場では、アスリートたちと15分過ごす予定だったのだが、結局のところ王子はメンバー全員と話し(座位で行うシットスキーにもトライした)ため、45分滞在。ウィスラー・スライディング・センターでは、ボブスレーのスケルトンを1度だけ試す予定が、それでは済まず、繰り返しトライする様子も見られた。

今回、夫妻に同行したインヴィクタスゲーム経験者のマイク・ブージョワは次のようにコメントしている。

「夫妻にはもちろんキッチリとした予定表があるので、我々はそれに従ってスタンバイし、行動に移すわけですが、ヘンリー王子の目に止まった軍人がいると、予定表はもはや問題ではなくなります。王子は膝をつき、アスリートの目を見て、真剣な表情で彼らの話を聞いていました」

ブージョワは、今回のイベントのアンバサダーを務めており、2020年にはオランダ、ハーグで開催された同大会で妻ロリーと、カナダチームのメンバーとして戦った経験もある。

「私たちは何者でもありません。インヴィクタスゲームとその財団を支える仕事をする1000人のうちの1人に過ぎませんが、公爵は私たちのことをしっかりと憶えてくれていました。ヘンリー王子は、私との何気ないやり取りや、軍人としての経験を憶えていて、1~2年後に再会した時にも、当時の会話をふらっと持ち出すのです。かなり驚きます」

さらに「もちろん彼らは、毎日どういう人と接触するか事前にブリーフィングを受けているでしょう。ですが、会話のニュアンスや詳細は誤魔化せません。彼らの素晴らしさや影響力を表現するとしたら、会話をした一人一人が、自分の存在を認めてもらえた気持ちになるという点にあるかもしれません。どこからも取り残されず、取るに足らない存在でもない、そう思わせる力があるのです」と続けた。

ここ最近、またしても世間から批判の声を多く集めていたヘンリー王子とメーガン妃なだけに、自分たちが大事にしている理念にひたむきに集中し続ける2人の力は、なおさら注目に値する。

『Telegraph』紙が、サセックス公爵夫妻にとって今回のイベントは「自分たちが今でも機能しているのだということを証明できるか、それが懸かった3日間になる」という記事を書いた。するとすかさず、夫妻のスポークスパーソンが『Mirror』紙に次のような声明を出した。

「"2人にとって運命を左右する機会になる"という話は、これまで何度も繰り返し耳にしてきました。ですが、彼らはまだここにいます。絶えず、正当性を疑われ、批判されながらも、彼らは今も働き、自分たちが信じることを達成しようとしています。この2人は負けません」。

また、朝のTV情報番組『Good Morning America』のインタビューで、ヘンリー王子は家族の不和についてコメント。父チャールズ国王と短時間だが話をしたことに触れ、「私は家族を愛しています。飛行機に乗って会いに行き、彼と過ごすことができたことに感謝しています」と述べていた。

サセックス公爵夫妻が自分たちの活動に熱心なのは今回のカナダ訪問でも明らかで、ヘンリー王子は退役軍人たちに混じり、本領を発揮していた。

「ロイヤルの方と会う時は守るべき礼儀作法がたくさんあります。ですが、退役軍人同士が集まる環境では、私たちは彼の部下であり、彼は私たちの部下であるような、そういった関係になるのです。安全な場所ですから、一緒にいると鎧は脱ぎます」とブージョワは言う。

昨年のデュッセルドルフ大会でカナダ・チームの一員として戦ったジョアンナ・ラボンテ少佐は、ヘンリー王子とメーガン妃の支援は、負傷した退役軍人の心をよりパワフルなものにしたと明かす。

「負傷したことで、私は長年、自分は無力で目に見えない存在だと感じていました。彼らは、悪戦苦闘し将来に不安を感じている私たち軍人に光を当ててくれている気がします。『あなたの旅はまだ始まったばかりで終わっていない。退役したけれど、人生の新しい段階が始まったばかり。あなたは大事な1人の人間』。そう伝えてくれているのです」

「我々は、あの素敵なカップルにとって、本当に大事な存在なのだと心から感じます。スポーツを通して回復することにはとても大きな意味がある。それを私自身にもチームメイトにも伝えています。彼らの気持ちは本物です」

今回話を聞いたインヴィクタスゲーム出場者全員が同じことを言っていた。それは、この競技大会が彼らの人生を良い方向に変えた。そしてその重要な部分を占めているのは、ヘンリー王子とメーガン妃だということ。

「インヴィクタスゲームは精神的、肉体的、感情的に私の回復を大いに助けてくれた」とナイジェリアの選手ピースメイカー・アズグブラムは言う。

「以前は、このような状態になった自分の人生にどう向き合えばいいのか不安だった(彼は戦場で銃火を浴び、左足を失った)。だが、インヴィクタスゲームに初めて出場したことで、気分がよくなり、心から愛されていると感じた」と言う。

JEREMY ALLEN

左から2番目に立つのがスパロウ首長

今回のイベントは、大会のコミュニティーのみならず、2025年大会がカナダ先住民族のファーストネイションとパートナーシップを結んでいることでも、重要な意味を持つ。車椅子カーリングイベントでは、マスケアン・ファースト・ネーションのウェイン・スパロウ首長と、スコーミッシュ・ネーションのウィルソン・ウィリアムスが、伝統的なスタイルで歓迎を行い、先住民族としての土地承認メッセージを述べた。

ヘンリー王子は「領地に入ることを許してくれた、4つのファーストネーションの民族に心から感謝します」と述べた。また、サセックス公爵夫妻はスコーミッシュ・リルワット文化センターとマウント・カリー・コミュニティー・センターでファーストネーションの人々と会った。

スパロウ首長は、「公爵は『私は和解についてもっと学びたい』とおっしゃっていました。それは非常に重要なことです。初めて会った時に、彼はもっと学びたい、どうすれば一緒に前に進んでいけるのかと聞いてきたのです。その問いかけを、私は自分のコミュニティに持ち帰りました。それが何より大事なのです。私たちには、いつまでも過去にしがみついて、クヨクヨと悩んでいる暇はありませんよ。社会として、前に進まなくてはいけないのです」と述べた。

ヒルクレスト・コミュニティ・センターでの最後のイベントが終了すると、ヘンリー王子は、今回の全イベントに同行していた記者グループに近づいてきた。そして、寒さに冗談を交えながら、厚く御礼を述べた。過去にはあれほど記者を毛嫌いしていたにもかかわらず、インヴィクタスゲームにメディアの注目が集まることに関しては、心から感謝しているようだった。

そういう瞬間には、ダイアナ妃を思い出さずにはいられない。ヘンリー王子の温かさと周囲の人々をちゃんと認められている気持ちにさせる才能はまさに母親譲りだろう。それを使って自分が大事にしている理念に光を当てる才能も然り。わずか72時間の滞在で、ヘンリー王子とメーガン妃が与えた影響は明白だった。

インヴィクタスゲームが創設されて今年で10年。2025年は7度目の大会となる。ヘンリー王子は閉会のスピーチでアスリートたちに「私は皆さんがどれほど人のために働くことが好きか、知っています。人のために生きている瞬間が多くある方々ですから」と語りかけた。そして「私たち夫婦は、これからも人のために働き続け、全国で、そして世界中で人々を鼓舞していきます」と彼らに誓い、3日間の滞在を締めくくった。

https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-news/a46846965/prince-harry-meghan-markle-canada-trip-2024-recap-240226-lift1/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗谷本の会が加藤さん偲び読む会 16日市立図書館で輪読会

2024-02-27 | アイヌ民族関連

稚内プレス 2024 年 2 月 26 日

 稚内北星学園短大(現育館大)教授などを務め平和などを題材に童話作家として活躍し昨年3月に亡くなった加藤多一さんを偲ぶ「馬を洗って・・・」を読む会が、3月16日午後2時から市立図書館で開かれる。
 稚内北星短大開学から5年ほど稚内で教授として在住し、その後は北海道の子ども、平和、アイヌ民族などテーマに数多くの児童文学作品を執筆した加藤さんを偲んで著作を読む会は、稚内などで本好きの人が集まり交流・学習会などを開いている宗谷子どもの本の会が企画した。
 読む会では戦争をテーマにした「馬を洗って」を会員や希望する参加者で輪読する。
 担当者は「読後の感想と共に加藤さんの思い出話しをしながら在りし日を偲びたい」と話し、市民多くの参加を呼びかけている。

https://wakkanaipress.com/2024/02/26/68187/


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石狩鍋モチーフの数量限定鍋に舌鼓 北海道の名付け親をたたえる「武四郎まつり」

2024-02-27 | アイヌ民族関連

三重テレビ 2024 年 2 月 26 日

北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の功績をたたえる「武四郎まつり」が25日、三重県松阪市で開かれました。

「武四郎まつり」は、松阪市出身で幕末から明治にかけて活躍した探険家、松浦武四郎について知ってもらい、アイヌ民族の文化を伝えようと毎年2月に開かれています。

石狩鍋モチーフの数量限定鍋に舌鼓 北海道の名付け親をたたえる「武四郎まつり」

© 三重テレビ

会場となった松浦武四郎記念館の周辺では、松阪牛の串焼きや松阪鶏焼肉などが販売されたほか、北海道の石狩鍋をモチーフにした武四郎鍋が数量限定で販売され、人気を集めていました。

来場者は「バターとコーン、鮭もたくさん入っていておいしかった」「武四郎のことを知らない人もいると思うので、歴史をもっと学んでほしい」などと話していました。

また2024年は、武四郎とゆかりのある北海道音威子府(おといねっぷ)村の特産品が4年ぶりに販売されたほか、当時、武四郎が巡った北海道北部にある天塩川の周辺地域をパネルで紹介するブースが初めて設けられました。

松阪市の竹上市長は「2024年は武四郎まつりが29回目、記念館が開場30周年。2025年が30回記念の武四郎まつりとめでたい続き。いろいろなイベントを組んでいきたい」と話していました。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/石狩鍋モチーフの数量限定鍋に舌鼓-北海道の名付け親をたたえる-武四郎まつり/ar-BB1iSCG3


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古式舞踊や児童劇上演 「武四郎まつり」に4000人来場 三重・松阪

2024-02-27 | アイヌ民族関連

夕刊三重新聞2/26(月) 17:40配信

アイヌの古式舞踊を披露する札幌大学の学生ら

 アイヌ民族の人たちを愛した幕末の探検家で北海道の名付け親・松浦武四郎(1818~88年)をたたえる「武四郎まつり」が25日午前10時から、誕生地の三重県松阪市小野江町で開かれた。物品販売など関連イベントもあり雨天の中で約4千人が来場しにぎわった。

(写真)小野江小6年生による武四郎の生涯をテーマにした劇=いずれも小野江町の小野江小で

 同実行委員会(委員長=山中和儀おのえ住民自治協議会会長)と市の主催。武四郎は6度の蝦夷(えぞ)地調査を行い、アイヌ民族の地位向上に尽力した。まつりは生没月である2月の最終日曜日に開催し今年で29回目となる。

 市立小野江小学校の体育館の特設ステージでは同小6年生による武四郎の生涯をテーマにした劇「武四郎物語」の上演、市と連携協定を結ぶ札幌大学ウレシパクラブの学生17人によるアイヌ民族の古式舞踊の披露などが行われた。舞踊は、自然の恵みへの感謝の気持ちを表現したもので、観客らはリズムに合わせて手拍子を取るなどして見入っていた。

 誕生地の「離れ」では、午前11時からと午後1時半からの2回、本居宣長記念館(殿町)名誉館長の吉田悦之さん、竹川竹斎子孫の東竹川家(射和町)当主の竹川裕久さん、歴史小説家の河治和香さんによるスペシャルトーク「歩いた!集めた!松阪の偉人三人衆!」が開かれた。

 3人は宣長と竹斎、武四郎について語り合い「生きた時代も業績も異なるが、よく歩き、観察し、それを記録した」ことが共通点として「これらの背景に地図好きということがあった」などと話した。

 物産と飲食エリアではみそベースにサケやコーン、ジャガイモなどを入れた「武四郎鍋」が人気を集めた。まつりはコロナ禍を経て4年ぶりに復活した「お菓子まき」で締めくくった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/a0f06afa66fb869868380e796836c8598e617b26


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

潜伏49年で死去・桐島聡が属した「東アジア反日武装戦線」とは何だったのか

2024-02-27 | アイヌ民族関連

集中連載 第1回

現代ビジネス2024.02.26 太田 昌国

1970年代中頃に起こった連続企業爆破事件に関わったとして指名手配されていた桐島聡の死去が大きな話題となった。逃亡49年の軌跡が様々に語られたが、桐島が属していた「東アジア反日武装戦線」の思想と行動が正確に振り返られることはほとんどない。

60年代から70年代的の「政治の季節」に、社会運動が犯した過ちとなし得たことを真摯に見つめてきた民族問題研究者が、「反日」の全貌を明らかにする(集中連載=全4回)。

49年ぶりに現れた「重要指名手配犯」

「自分は桐島聡だ」「最期は本名で迎えたい」――それが、まもなく命が尽きることを覚悟した人物が、入院していた病院側に発した言葉だったという。私たちにしてみれば、交番の掲示板に貼られた重要指名手配犯の顔写真で、それとなく馴染みになっていたのかもしれない人物が、49年ぶりに現われたというのだ。

49年といえば、市井の無名人でもよいが、唐突にもわかりやすい事例を挙げると、夏目漱石や坂口安吾の寿命が尽きた年齢幅と同じだ。今年死後百周年を迎えたレーニンも53歳で死んでいる。漱石や安吾のように多産な仕事を生み出し得る、あるいはレーニンのように波乱万丈なまでの出来事に埋め尽くされた人生を送り得る時間幅だ。それだけの歳月を、この桐島というひとは、他人に正体を見せることなく生きてきたようだ。ひととして、ふと、胸を衝かれるものがある。

だが、当然にも、報道は感傷とは無縁に行なわれる。しかも、半世紀前、報道の現場にいた記者が30歳前後だったと仮定して、今や80歳だ。デスクは90歳や100歳になっていよう。捜査に当たった公安の刑事だって、同じことだ。事件の詳細・時代の空気・一斉逮捕・所属メンバーのあれこれ・公判の過程と裁判の争点・判決確定後の経緯ーーそれらを知る者は、もはや、現役ではあり得ず、すでに亡くなったひとも多いだろう。

過去を知らない若いひとたちが、インターネットを検索したり、大昔の新聞縮刷版を開いたり、切れぎれの情報を片手に摑んでは「関係者」の周辺をあたふたと駆け回ったりする。勢い、報道は単純化する。

桐島が属していたとされるのは「東アジア反日武装戦線」である。この名をインターネットで検索すれば、まず必ず出てくるのが、1974年8月30日に起きた東京・丸の内の三菱重工ビル爆破事件だ。それは、確かに、死者8人・重軽傷者380人を生んだ悲惨極まりない事件だった。テレビも新聞も、三菱事件の被害写真を添えて、「公安警察が桐島聴取」の第一報を流した。ニュースの末尾では、一様に、三菱事件で亡くなった方の遺族の談話が登場する。当然にも切実な思いが語られているのだが、事実との乖離が甚だしい認識しか持たないメディアによって「語らされている」という印象を受ける。

三菱重工事件とは何の関係もなかった桐島

なぜか。同戦線には3つの部隊ーー「狼」「大地の牙」「さそり」ーーがあった。結成時期はそれぞれ異なり、基本は個別行動だった。桐島は、1974年12月に結成された「さそり」に属していたのだから、同年8月に「狼」が行なった三菱の一件とはまったく関わり合いがなかった。「さそり」の思いはむしろ、死傷者を生まない時間帯に行動を設定することで、先行者が三菱で犯した失敗を批判的に克服しようとするところにあったことが、メンバーの証言で明かされている。

スピードを至上命題とする新幹線にも似た扇情的な報道の中では、「沿線の小駅」とも言うべきひとつひとつの事実なぞは、「石のように黙殺され」るほかはないのだ。驚きのあまり拙速になされてきている現在の初期報道が、時間の経過のなかで、事実に基づいて落ち着いて行なわれるように変化していくことを望みたい。

私は、1960年代~70年代の社会運動の高揚の時代を生きた人間のひとりとして、当時のさまざまな社会運動が孕んでいた「功罪」を見極めることの重要性を一貫して考えてきた。そのような立場から、以下、その思いを綴りたい。

この原稿を執筆している時点では(1月31日~2月3日)、その人物が桐島聡であると同定されてはいないが、すでに提供されている情報からすれば、そうである可能性は高いと判断できると私は考えている。それを前提として書くことを、予めお断りしておきたい。

桐島が指名手配されているのは、1975年4月19日に東京・銀座のビルにあった韓国産業経済研究所が爆破された件に関わる「爆発物取締罰則違反」である。この日には、別な部隊によって兵庫県尼崎市のオリエンタルメタルも同時爆破されているが、いずれも深夜のことで無人であり、死傷者は出ていない。「戦線」は次のような声明を出している。

「韓国産業経済研究所は日帝企業の韓国・台湾・マラヤ侵略に奉仕する活動を停止せよ。オリエンタルメタル製造などによる『韓国工業団地視察団』の派遣を中止せよ。オリエンタルメタル製造は韓国から撤退し、在韓資産を放棄せよ」

「怪我人を出してはいけない」原則

桐島が属していた「さそり」部隊が行なったのは以下の行動であり、同じ部隊に属したふたりのメンバーに対する起訴状においては、それらには桐島も「共謀」したとされている。「東アジア反日武装戦線」に合流するに際して「さそり」が立てた原則は、「怪我人を出してはいけない」だったという。

(1)1974年12月23日/鹿島建設PH工場爆破攻撃=花岡作戦。
(2)1975年2月28日/間組本社ビル6F営業本部(さそり)・同9F電算部パンチテレックス室(狼)・同大宮工場(大地の牙)爆破=キソダニ・テメンゴール作戦。
(3)1975年4月27日/市川市間組江戸川作業所爆破+同年5月4日/江戸川区間組江戸川作業所コンプレッサー爆破。
(以上、「=」のあとに記した作戦名は、実行者によるもの)。

上記(1)では、死傷者は出ていない。
(2)では、本社ビル9階爆破で1人が加療4カ月の骨折・熱傷を受けている。
(3)では、前者で1人が加療約1年3カ月を要する頭部外傷等を受けておリ、後者では死傷者は出ていない。

「さそり」で桐島と行動を共にしたとされる人物Aは無期懲役で服役中であり、同じくBは懲役18年の実刑判決を受けたが、2003年に刑期を終えて出所し、社会復帰を果たしている。そのBに対する控訴審(1986年7月~88年8月)で弁護人が出した「控訴趣意補充書(第四回)」によれば、上記(2)で「さそり」が「残業者はもはやいないだろう」と考えた時刻に仕掛けた爆弾で負傷者が出たことで、「桐島は激しく動揺した」とされている。

だが、49年後のいままで、桐島の逮捕・取り調べ・起訴・公判は行なわれておらず、本人自身による告白もなされていないのだから、以上に記したことすべてが事実かどうかは、原理的には藪の中と言わなければならない。その上で、以下のことに触れておきたい。

「さそり」が上記(1)で鹿島建設を攻撃の対象とした理由は以下である。

戦前の1945年6月30日、秋田県花岡にある同建設の前身である鹿島組作業所で働かせられてきた中国人労働者がそれまでの酷使に耐えかねて起こした蜂起は、警察と憲兵隊によって鎮圧され、事件後の拷問も含めると400人以上が殺された。ここの中国人労働者は、戦時中の労働力不足を補うために1942年に閣議決定された「華人労務者内地移入に関する件」に基づいて強制連行されたものだ。

戦後の鹿島建設が、その責任も取らないままに、再度ゼネコン大手として君臨していることへの、(実行者の言葉を使えば)「オトシマエ」をつけようとしたのである。1980年以降、ここで働かされた中国人と鹿島建設の間では、企業責任をめぐる交渉や訴訟がなされるが、それについては連載後半で触れる。

上記(2)も、戦前から戦後を貫いてゼネコン大手として企業活動を行なう間組の企業モラルに対する問いかけである。1945年3月、長野県木曽谷のダム工事現場で強制労働に従事させられてきた中国人労働者が暴動を起こしたが、この事業を請け負っていたのが戦前の間組だった。テメンゴールはマレーシアのダム建設予定地の名だが、現地では当時ダム建設反対運動が高揚しているのに建設を強行しようとしていたのが戦後の間組だった。

「戦線」の思想と行動を批判する立場にあっても、彼らが史実についての膨大で集中的な調査・研究を行なっていた事実から目を逸らすわけにはいかない。この間行なわれているメディア報道には、これらの基本的知識を持たない人びと/事実を知ろうとも思わない人びとが、勝手気ままな発言を繰り広げている事例に満ちている。

(第2回 なぜ彼らは「連続企業爆破」を行ったのか…東アジア反日武装戦線の思想が生まれた背景 に続く)

https://gendai.media/articles/-/124853


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする