ずっと以前のブログで「演奏をとるか、録音をとるか」をテーマにしたことがある。
つまり、「あなたは音楽愛好家ですか or オーディオ愛好家ですか」の「二択」のリトマス試験紙のような問いかけである(笑)。
この中でフルトヴェングラー指揮のオペラ「ドン・ジョバンニ」(モーツァルト)を例に挙げて、「録音よりも演奏優位」とコメントしたところ、すぐにジャズファンの方からメールが来て「ジャズの場合も演奏優先ですよ。」とあったのはちょっと意外だった。
ジャズファンといえば圧倒的にオーディオ愛好家が多くて、おそらく「音キチ」だろうから録音の方により一層こだわるはずと思っていたので・・・。どうやら勘違いしていたようでたいへん失礼しました(笑)。
それにしても、いくらCD盤といったって録音状態は周知のとおり千差万別だが、オーディオシステムの再生能力との関係はいったいどうなってるんだろう。
つまり、悪い録音ほど高級システムが必要なのかどうか・・、有識者の見解を一度訊いてみたい気がする。
ところで、このほど娘に貸していたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲がようやく手元に戻ってきた。近々帰省予定の正月用の荷物と一緒に送ってきたもので、音楽評論家によるランキングで最も評判のいい「グリュミオー」盤である。
久しぶりに「3番と5番」を聴いてみたが何だかやたらに甘美(技巧)に走り過ぎた演奏のような気がして、昔とは悪い方向に印象が変わってしまった。
このところオーディオシステムが様変わりしたせいかもしれないし、耳(脳)が成長したのかそれとも退化したのか・・(笑)。
ちなみにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の最後となる5番は作品番号(KV:ケッヘル)219だからわずか19歳のときの作品となる。一方、ピアノ協奏曲の最後となる27番はKV.595だから亡くなる年の35歳のときの作品だ。
「作曲家の本質は生涯に亘って間断なく取り組んだジャンルに顕われる」(石堂淑朗氏)とすれば、比較的若いときにモーツァルトはこの「ヴァイオリン協奏曲」のジャンルを放棄したことが分かる。
あのベートーヴェンだってヴァイオリン協奏曲の表現力に限界を感じて1曲だけの作曲にとどまっているので、このジャンルの作品はそもそも「大作曲家」にとっては「画家の若描き」(未熟だけどシンプルな良さ)の類に属するのかもしれない。
それはともかく、グリュミオー以外にもっとマシな演奏はないものかと手持ちのCDを眺めてみた。
フランチェスカッティ、レーピン、オイストラフ、ハイフェッツ、オークレール、シュタインバッハー、そしてフリッツ・クライスラー。
フルトヴェングラーのこともあって、この中から一番期待した演奏はクライスラー(1875~1962)だった。往年の名ヴァイオリニストとしてつとに有名だが、何せ活躍した時代が時代だから現代に遺されたものはすべて78回転のSP時代の復刻版ばかり。
近代のデジタル録音からすると想像もできないような貧弱な音質に違いないとは聴く前から分かるが、あとは演奏がどうカバーするかだろう。
このクライスラーさんは自分が作曲した作品を大家の作品だと偽っていたことで有名だが、通常は逆で「大家の作品を自分の作曲だ」というのがありきたりのパターンなのでほんとにご愛嬌。
「フリッツ・クライスラー全集」(10枚セット)の中から、1939年に録音された「ヴァイオリン協奏曲第4番」(モーツァルト)を聴いてみた。ちなみに昔の録音は少し大きめの音で聴くに限る。
音が出た途端に「こりゃアカン」と思った。高音も低音も伸びていなくて周波数レンジが狭く何だか押しこめられた様な印象を受けたが、段々聴いている内に耳が慣れてきたせいかとても滋味深い演奏のように思えてきた。
近年のハイレゾとはまったく無縁の世界だが、ときどきこういう録音に浸るのもいい。むしろ音質がどうのこうのと気にしないでいいから、つまり、はなっから諦めがついているので純粋に音楽を鑑賞するにはもってこいかもしれない。
はじめに「ウェストミンスター」で聴き、途中から「AXIOM80」に切り替えたが、このくらいの名演になると、もうどちらでもヨロシという気分になってきましたよ~。
名演はオーディオを駆逐する・・(笑)。