感性、感受性って言い換えてもいいが、この「感性」って
生まれつきのものなんだろうか、そして、後からどのくらい
育てることってできるんだろうか?
それにある程度、年を取ってしまってからも伸ばすことって
できるんだろうか?
ということをこの数日間考えていた。
それも、若い人たちの、しかも日本人じゃない人たちのすばらしい
写真作品に触れて考えたことだ。
この飛びぬけてみずみずしい感性を目の当たりにし、これはいったいどこから
くるものなんだろう?と思った。
生まれたところ、育ったところが日本ではないというところで、違う場所で
育まれた感性があることは間違いないだろう。
それに持って生まれたもの。
何を置いても、素直な心。くもりのない目。
そういうフィルターを通して切り取られた、私も見ているはずの東京の
風景が、こんなにも新鮮に映ることに驚く。
ひとりひとり持っている感性、感受性は違う。
持って生まれたものが、環境や経験によってたぶんどんどん変化するんだろう。
でも根本の部分は変わらないはずだ。
それに、やはりどんなに素晴らしい感性を持っていても、磨かなければ
どんどん曇っていき、にぶくなってしまうだろう。
こういうことを考えていたら、茨木のり子の
「自分の感受性くらい」という詩を思い出した。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
これは最後の3行。
路を歩いてたら、ハロウィンの残骸に出くわした。