何だかんだ言いながら、ふと気づけばグダグダなゴールデンウィークもすっかり明けて、今日からまた日常が戻ってきました。昨日危惧した通り、2週間ぶりの教室で生徒たちはほぼほぼ宿題をやって来ず、先生は呆れるやら頭抱えるやら…。
ところで、たまプラーザ駅に隣接する花屋の店先には
色とりどりのカーネーションが置かれていました。そう言えば、次の日曜日は母の日です。
鉢植えやアレンジメントを眺めながらあれこれと品定めしている人たちを見ながらぼんやりとカーネーションを見つめていましたが、それもそこそこに花屋を後にしました。
私にはカーネーションを贈るべき母は、もういません。
母が癌闘病の末に52歳で他界してから、今年で26年もの歳月が流れました。あれからもう四半世紀以上経ってしまったということに、今更ながら時の流れを感じさせられます。
母が他界してから暫くは、明治生まれの父方の祖母に花を贈っていました。その祖母が108年の齢を閉じてからも3年以上経ち、今では誰に花を贈るでもなくなりました。
子どもというものは勝手なもので、自分の親は百まで生きると思っている節があります。しかし実際にはそんなことはなく、逆縁でもない限りいつか親の方が先に逝くわけです。
母が他界した時に私はまだ20代の若い頃でしたから、母が闘病の末に他界した時には暫く立ち直れませんでした。亡くなってから
『あんなことしてあげられたんじゃないか…』
『あんなところに連れて行ってあげることも出来たのではないか…』
とクヨクヨウジウジするばかりで、どうしようもないヘタレだったと思います。
今でも我が家の仏壇の遺影に向かって手を合わせていますが、ふと気づくと私自身が母が他界した齢に近づいてきています。
さしたる根拠は何も無いのですが、何となく心の何処かで
『私は母の歳まで生きられないのではないか…』
という漠たる思いを抱えて日々を生きています。今まではボンヤリとした思いだったのですが、半世紀目に突入したことを思うと、あといくらも時間が無いことにも気づくのです。
もっとも、そんなこと考えているのを母に知られたら
「そんなしみったれたくだらないことばっかり考えてないで、とっとと自分のやるべきことをやりなさい!」
とドヤされそうですが…。
そんなわけで、今となっては母の日にカーネーションなんぞ買うこともなくなりましたが、今年は小さなアレンジメントでも仏壇に供えてみましょうか…。
親孝行 したい時には 親は無し
石に布団は 掛けられまいに…