共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はプッチーニ《蝶々夫人》の初演日〜三浦環歌唱による名アリア『ある晴れた日に』

2023年02月17日 19時45分10秒 | 音楽
昨日の天気予報通り…とまではいかないものの、今日はここ数日の中では比較的暖かな陽気となりました。小学校では子どもたちが体育の時間に外でサッカーをしていましたが、動いているうちにうっすら汗ばんでいたくらいでした。

ところで、今日2月17日は



ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)作曲の歌劇《蝶々夫人》が初演された日です。日本が舞台の作品ということもあってプッチーニの歌劇の中でも特に日本人になじみ易い作品で、色彩的な管弦楽と豊かな旋律の声楽部が調和した名作として知られています。

プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の《マノン・レスコー》で一躍脚光を浴び、その後《ラ・ボエーム》(1896年)や《トスカ》(1900年)と次々と傑作を生み出しました。プッチーニが《蝶々夫人》を書いたのは、正に音楽家として脂の乗り切ったその時期でもありました。

《トスカ》を発表してから次のオペラの題材を探していた頃、1900年に《トスカ》がイギリスで初演される時プッチーニはロンドンに招かれました。その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲『蝶々夫人』を観劇したプッチーニは感動し、次の作品の題材にこの戯曲を選びました。

作曲に際してプッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集めたりして、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだといいます。また、当時のイタリア駐在特命全権公使であった大山綱介の妻・久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めました。

《蝶々夫人》は1903年12月27日に脱稿し、翌1904年の2月17日にミラノ・スカラ座で初演されました。

現在ではイタリアオペラの主要なレパートリーとなっている《蝶々夫人》ですが、初演時はプッチーニの熱意にもかかわらず振るいませんでした。失敗の理由としては、初演版では第2幕だけで1時間半を要するなど上演時間が長すぎたことや、文化の異なる日本を題材にした作品であったため観客が違和感を覚えたという原因が挙げられています。

ひどく落胆したプッチーニでしたがすぐさま改稿に取りかかり、改訂版の上演は3か月後の同年5月28日にイタリアのブレシアで行われ、こちらは大成功を収めました。その後、ロンドン、パリ公演とプッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、21世紀の今日まで上演され続けている決定版となっています。

これまでに歴代様々な名ソプラノ歌手によって歌われてきた《蝶々夫人》ですが、日本が舞台ということもあって早くから日本人歌手によっても歌われてきました。その草分け的存在が三浦環(みうらたまき)です。



三浦環(1884〜1946年)は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手です。特にプッチーニの《蝶々夫人》を十八番とし、主人公「蝶々さん」と重ね合わされて『マダム・バタフライ』と称されて国際的に広く知られていました。

三浦環はオペラ生活40年の半分を海外で活動し、《蝶々夫人》だけでも2000回以上公演したというから驚きです。そして、



プッチーニにも直接歌唱を聴かれ、自宅にも招待されていました。

プッチーニは、三浦環の歌う《蝶々夫人》を絶賛しました。三浦環はプッチーニから

「他のプリマドンナは自分の歌を聴かせようとする自尊心の塊だが、あなたは唯一人蝶々夫人の気持ちを理解している」

という賛辞を贈られています。

そんなわけで、今日は《蝶々夫人》の中から名アリア『ある晴れた日に』を、三浦環の歌唱でお聴きいただきたいと思います。《蝶々夫人》が初演された日に、プッチーニ自身が愛した『世界の蝶々さん』の名唱をお楽しみください。



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