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私はこれまでに二度町の住環境を守るため建設側に対する反対運動に参加しました。
町を上げて反対しましたが、いずれも建設を阻止できませんでした。
建設側の合法という主張を崩すことができませんでした。
すでに建設を認可していますから、市は町がお願いしても何も配慮してくれませんでした。
二つのうちの一つは、何が何でも建設を阻止したいということで、町は建設妨害までやりました。
建設側の連絡で警察まで現場に来ました。
町は、町の考えや決定を警察に説明し、破壊活動ではなく、市民運動であることを理解してもらいました。
警察は一応納得して傍観の態度をとってくれました。
すると建設側は裁判所に訴えました。
裁判所はもちろん町を助けてくれませんでした。
弁護士は町の人々が負けると予測し、建設側と示談に入り、反対運動は中止になりました。
町の人々には深い心の傷が残りました。
国も横浜市も町のことを考えてくれないという不信が残りました。
しかし市民運動は空しいと思ってもやはり反対は反対と言うべきです。
もし町の人々がしぶとく反対運動をやらなければ法律も条例も変わらないでしょう。
それにしても町の人々の苦悩を理解しない市側、建設側はどのような社会観をもって政治や事業をやっているのでしょうか。
個人より会社が上、市はそのまた上という考えがいまだに支配的で、個人の要望は町単位の要望になっても軽視されます。
市民権という言葉が空しく響きます。