毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「環境問題のウソ」
池田清彦「環境問題のウソ」(ちくまプリマー新書)を読んだ。帯に、「京都議定書を守る日本はバカである!」などと扇情的な文言が踊っていれば買わないわけにはいかない。「地球温暖化問題」「ダイオキシン問題」「外来種問題」「自然保護」の4つの問題について科学的な見地から、そのウソとホントを明らかにしようという主旨で自論を展開している。作者の池田清彦は生物学者であり、4つの問題のうち、彼の専門分野の「外来種」と「自然保護」に関しては、なんら異論を挟む余地はない。生態系や自然を破壊させたのはほとんどの場合、「人間による直接的、間接的な破壊で」あり、目先の保護などに無駄なお金を注ぎ込むようなことはせず、「自然保護を市場に組み込み」、「お金を払って、あるいは労働をして、自然保護をしたくなるような仕組みを」作ろうという考えは傾聴に値すると思う。
しかし、「地球温暖化問題」に関しては、ずぶの素人の私でさえも幾つかの疑問が湧いてきて納得できないままでいる。それをこれから書き出してみようと思う。
筆者は幾つかのデータを紹介しながら、「CO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とするモデルは間違っているということだ。気温の変動はCO2濃度の人為的排出が始まる前からあったわけだから、他に原因があると考える方がはるかに合理的だ」と考え、「アメリカのライドが太陽の黒点数と北半球の平均気温が相関するという論文を1987年に発表して以来、太陽活動が温暖化変動の主因ではないかと考える人は増えてきている」と論を進め、「未来の温度が主に太陽の活動で決まり、CO2はマイナーな影響しか及ぼさないのであれば、京都議定書のようなものまで作って、ものすごいコストをかけてCO2をほんのわずか減らすことにどんな意味があるのだろう」と結論付ける。さらには「京都議定書が完璧に実行されたとしても、百年後の気温上昇をほんの六年ほど遅らせることができるだけなのだ」「どう考えても地球温暖化なんて大した問題じゃない。大変だ、大変だと騒いでお金が儲かる人ならばともかく、そうでないボクは、他人の金儲けを助けるために、快適な生活を犠牲にしたりよけいに税金をとられるのは勘弁してしてもらいたいと思う」とまで言い切っている。
筆者の言だけを見るなら論理的には整合しているかもしれない。しかし、疑問点はいくつもある。まず1つに、「あとがき」で作者は環境問題に関する情報にはウソと真実が混ざり合っていると言っているにもかかわらず、自分の専門外である温暖化問題に関しては自分の考えに沿ったデータ・論文のみをそのまま引用している。鵜呑みにするなといいながらも、その当人が鵜呑みにしている姿勢が果たして科学的と言えるのだろうか。
次に、たとえCO2の削減が温暖化を防ぐのには無駄だとしても、環境問題は温暖化だけではない。化石燃料を大量に使うことによって引き起こされる酸性雨による環境破壊については、私が本書を読んだ範囲では、まるで一言も触れられていない。化石燃料の燃焼によって出されるのはなにもCO2だけではない。NOxによる酸性雨も深甚な環境破壊をもたらしている。どうしてその点に関して触れていないのか疑問に思う。
さらには、CO2を削減することがすなわち限りある化石燃料の節約につながると言う視点が欠けているように思う。「CO2を減らすには燃料の消費を減らす」⇒「化石資源の節約」⇒「化石燃料の枯渇を先送りできる」⇒「代替エネルギーの開発に余裕が生じる」などと、私が考えても分かることがどうして触れられていないのだろうか。アメリカが京都議定書にサインしない理由は、CO2を減らすために石油の使用量を減らせば国内の石油産業が痛手を蒙るからだという考えも何かで読んだことがある。アメリカがサインしないのは、科学的根拠に基づいてというよりも経済的な理由からだとしか思えない。
さらにはオゾン層の破壊についても言及されていない・・。
こうした疑問を抱えながらこの本を読み終えたのだが、一方的に作者の意見を聞かされただけのようで、「本当のところどうなんだ!」という苛立ちしか残らなかった。以前、同じ作者の本で「正しく生きるとはどういうことか」を半分ぐらい読んだのを今思い出した。面倒くさくなって読みかけのままになっているが、私の疑問に答えてくれるような本を是非とも上梓して欲しいと思う。
しかし、「地球温暖化問題」に関しては、ずぶの素人の私でさえも幾つかの疑問が湧いてきて納得できないままでいる。それをこれから書き出してみようと思う。
筆者は幾つかのデータを紹介しながら、「CO2濃度の人為的上昇のみを温度上昇の原因とするモデルは間違っているということだ。気温の変動はCO2濃度の人為的排出が始まる前からあったわけだから、他に原因があると考える方がはるかに合理的だ」と考え、「アメリカのライドが太陽の黒点数と北半球の平均気温が相関するという論文を1987年に発表して以来、太陽活動が温暖化変動の主因ではないかと考える人は増えてきている」と論を進め、「未来の温度が主に太陽の活動で決まり、CO2はマイナーな影響しか及ぼさないのであれば、京都議定書のようなものまで作って、ものすごいコストをかけてCO2をほんのわずか減らすことにどんな意味があるのだろう」と結論付ける。さらには「京都議定書が完璧に実行されたとしても、百年後の気温上昇をほんの六年ほど遅らせることができるだけなのだ」「どう考えても地球温暖化なんて大した問題じゃない。大変だ、大変だと騒いでお金が儲かる人ならばともかく、そうでないボクは、他人の金儲けを助けるために、快適な生活を犠牲にしたりよけいに税金をとられるのは勘弁してしてもらいたいと思う」とまで言い切っている。
筆者の言だけを見るなら論理的には整合しているかもしれない。しかし、疑問点はいくつもある。まず1つに、「あとがき」で作者は環境問題に関する情報にはウソと真実が混ざり合っていると言っているにもかかわらず、自分の専門外である温暖化問題に関しては自分の考えに沿ったデータ・論文のみをそのまま引用している。鵜呑みにするなといいながらも、その当人が鵜呑みにしている姿勢が果たして科学的と言えるのだろうか。
次に、たとえCO2の削減が温暖化を防ぐのには無駄だとしても、環境問題は温暖化だけではない。化石燃料を大量に使うことによって引き起こされる酸性雨による環境破壊については、私が本書を読んだ範囲では、まるで一言も触れられていない。化石燃料の燃焼によって出されるのはなにもCO2だけではない。NOxによる酸性雨も深甚な環境破壊をもたらしている。どうしてその点に関して触れていないのか疑問に思う。
さらには、CO2を削減することがすなわち限りある化石燃料の節約につながると言う視点が欠けているように思う。「CO2を減らすには燃料の消費を減らす」⇒「化石資源の節約」⇒「化石燃料の枯渇を先送りできる」⇒「代替エネルギーの開発に余裕が生じる」などと、私が考えても分かることがどうして触れられていないのだろうか。アメリカが京都議定書にサインしない理由は、CO2を減らすために石油の使用量を減らせば国内の石油産業が痛手を蒙るからだという考えも何かで読んだことがある。アメリカがサインしないのは、科学的根拠に基づいてというよりも経済的な理由からだとしか思えない。
さらにはオゾン層の破壊についても言及されていない・・。
こうした疑問を抱えながらこの本を読み終えたのだが、一方的に作者の意見を聞かされただけのようで、「本当のところどうなんだ!」という苛立ちしか残らなかった。以前、同じ作者の本で「正しく生きるとはどういうことか」を半分ぐらい読んだのを今思い出した。面倒くさくなって読みかけのままになっているが、私の疑問に答えてくれるような本を是非とも上梓して欲しいと思う。
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「帰郷」
深夜2時過ぎにヤンキースの試合の録画をセットし終えて、何気なくチャンネルを変えたら映画がやっていた。かなり眠かったが、日本映画にしては見たこともない女優が出ていたものだから、思わず見入ってしまった。久しぶりに出会った男女の会話から、だんだんと状況が分かってきた。
東京で働く晴男は、再婚する母の結婚式に出席するため帰郷する。夜、知り合いの居酒屋に飲みに行くと、かつての恋人・深雪が働いていた。閉店後の暗闇の中、昔を懐かしむようにどちらからともなく抱き合う2人。深雪は女手一つで育てている7歳の娘について、「名前はチハルっていうの。晴男くんの“ハル”、目なんて晴男くんにそっくり」と告げ、明日自宅に来てと言い残し立ち去る。翌日、晴男が訪ねて行くと、チハルをひとり残し、深雪は行方をくらましてしまう…。
ここまで見て、「これから晴男がチハルを連れて母親を探し始めるだろうな」と勝手にこの先の展開を想像できたから、一旦風呂に入ることにした。例の如く、浴槽でうとうとしながらも何とか風呂から出てきたのが、2時50分頃。夕刊を調べてみたら、この映画は萩生田宏治監督の「帰郷」だということが分かった。春男役は西島秀俊、深雪役が片岡礼子で、私はどちらもよく知らない。子供役の守山玲愛が演じなれた子役ではない素直な演技をしていて好感が持てた。終わるのが3時17分だと書いてあったので、後少しなら最後まで見ちゃうかと、ビール片手にTVの前に戻った。
晴男は、初め子供の扱いに戸惑いを見せながらも次第にチハルとの交流に心が通い始める。チハルの表情が子供らしくなることでそれがよく分かる。晴男はチハルが自分の子であると信じ、「これからずっとチハルを守って生きて行こう、これからがすべての始まりなんだ」と、ひとり雄々しく決意し、深雪の家の留守電にその思いを残す。西島秀俊の朴訥とした演技は、男の一本気な純情さをうまく表現している。見ていて、「バカじゃないの?なに空回りしてるの?」と思わないでもなかったが、こうした「いいひと」は現実に存在するかもしれないと思わせるだけの力があった。

熱を出したチハルを担ぎ込んだ病院へ深雪が駆けつけ、そこで春男が思いを伝えるのだが、深雪からチハルは晴男の子供ではないと告げられ、一緒に暮らすのは無理だと断られてしまう。結局は深雪の身勝手な行動に振り回された晴男の一人相撲に終わってしまう物語だが、最後に晴男が告白した留守電を深雪が聞き、小さな嗚咽をもらすシーンが描かれたことで話に余韻が生まれ、とうとうエンディングロールを最後まで見てしまった。
ストーリー自体は大した事件があるわけでもないし、どちらかと言えば起伏の少ない地味な映画だろう。しかし、我々の日常はこうしたちょっとした出来事で成り立っており、そうした断面を切り取って淡々と見せてくれる映画にめぐり合うと思わず見入ってしまう。つまらないと言えばつまらない映画かもしれない。わざわざ映画館まで行って見る価値があるかどうかは難しい気がする。DVDを買ってもう一度見ようとは思わない。だが、いい映画を見たかなという小さな満足感は残った。(片岡礼子という女優は2002年舞台での稽古中に脳出血で倒れ、一時生死をさまよっていたが、手術を行い奇跡的に回復し、女優に復帰した第一作がこの「帰郷」だったという)
新聞を見間違えたのか、終わったのは3時30分頃だった。うわっと思いながら急いで布団に入ったのだが、何故だか寝付けなかった。こんな遅くまで映画を観るなんてことは久しぶりだったから頭が冴えてしまったのかもしれない。何とか眠ることができたが、そのおかげで、翌朝のヤンキース戦はかなり遅刻してしまった。もうこんなことは繰り返さないようにしよう・・。
東京で働く晴男は、再婚する母の結婚式に出席するため帰郷する。夜、知り合いの居酒屋に飲みに行くと、かつての恋人・深雪が働いていた。閉店後の暗闇の中、昔を懐かしむようにどちらからともなく抱き合う2人。深雪は女手一つで育てている7歳の娘について、「名前はチハルっていうの。晴男くんの“ハル”、目なんて晴男くんにそっくり」と告げ、明日自宅に来てと言い残し立ち去る。翌日、晴男が訪ねて行くと、チハルをひとり残し、深雪は行方をくらましてしまう…。
ここまで見て、「これから晴男がチハルを連れて母親を探し始めるだろうな」と勝手にこの先の展開を想像できたから、一旦風呂に入ることにした。例の如く、浴槽でうとうとしながらも何とか風呂から出てきたのが、2時50分頃。夕刊を調べてみたら、この映画は萩生田宏治監督の「帰郷」だということが分かった。春男役は西島秀俊、深雪役が片岡礼子で、私はどちらもよく知らない。子供役の守山玲愛が演じなれた子役ではない素直な演技をしていて好感が持てた。終わるのが3時17分だと書いてあったので、後少しなら最後まで見ちゃうかと、ビール片手にTVの前に戻った。
晴男は、初め子供の扱いに戸惑いを見せながらも次第にチハルとの交流に心が通い始める。チハルの表情が子供らしくなることでそれがよく分かる。晴男はチハルが自分の子であると信じ、「これからずっとチハルを守って生きて行こう、これからがすべての始まりなんだ」と、ひとり雄々しく決意し、深雪の家の留守電にその思いを残す。西島秀俊の朴訥とした演技は、男の一本気な純情さをうまく表現している。見ていて、「バカじゃないの?なに空回りしてるの?」と思わないでもなかったが、こうした「いいひと」は現実に存在するかもしれないと思わせるだけの力があった。


熱を出したチハルを担ぎ込んだ病院へ深雪が駆けつけ、そこで春男が思いを伝えるのだが、深雪からチハルは晴男の子供ではないと告げられ、一緒に暮らすのは無理だと断られてしまう。結局は深雪の身勝手な行動に振り回された晴男の一人相撲に終わってしまう物語だが、最後に晴男が告白した留守電を深雪が聞き、小さな嗚咽をもらすシーンが描かれたことで話に余韻が生まれ、とうとうエンディングロールを最後まで見てしまった。
ストーリー自体は大した事件があるわけでもないし、どちらかと言えば起伏の少ない地味な映画だろう。しかし、我々の日常はこうしたちょっとした出来事で成り立っており、そうした断面を切り取って淡々と見せてくれる映画にめぐり合うと思わず見入ってしまう。つまらないと言えばつまらない映画かもしれない。わざわざ映画館まで行って見る価値があるかどうかは難しい気がする。DVDを買ってもう一度見ようとは思わない。だが、いい映画を見たかなという小さな満足感は残った。(片岡礼子という女優は2002年舞台での稽古中に脳出血で倒れ、一時生死をさまよっていたが、手術を行い奇跡的に回復し、女優に復帰した第一作がこの「帰郷」だったという)
新聞を見間違えたのか、終わったのは3時30分頃だった。うわっと思いながら急いで布団に入ったのだが、何故だか寝付けなかった。こんな遅くまで映画を観るなんてことは久しぶりだったから頭が冴えてしまったのかもしれない。何とか眠ることができたが、そのおかげで、翌朝のヤンキース戦はかなり遅刻してしまった。もうこんなことは繰り返さないようにしよう・・。
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大人になったらなりたいもの
こどもの日に合わせて、第一生命保険のアンケート調査「大人になったらなりたいもの」の集計結果が発表された。全国の幼児・児童を対象に行い、21万人の回答の中から1000件の内容を集計分析したものだ。このアンケートは1989年から実施されていて、その結果の推移を見ると少なからず時代を反映しているのが分かって興味深い。以下に、2006年7月から8月に行われた調査の結果を写してみる。
男子のなりたいもの 女子のなりたいもの
1.野球選手 1・食べ物屋さん
2.サッカー選手 2.保育園・幼稚園の先生
3.学者・博士 3.看護士さん
4.食べ物屋さん 4.飼育係・ペット屋さん・調教師
警察官・刑事 5.お医者さん
大工さん 6.ピアノ・エレクトーンの先生・ピアニスト
7.消防士・救急隊 学校の先生(習い事の先生)
8.お医者さん 8.歌手・タレント
9.学校の先生(習い事の先生) 9.マンガ家
10.マンガ家 10.美容師さん
男子の1位の野球選手は、メジャーリーグで活躍する日本人選手が年々増えている現在、男の子があこがれるのも当然であろう。しかし、こうした夢を実現しようと努力してきた子供たちを巻き込んだ裏取引が、ここしばらく次々と明らかにされている。暴露合戦の様相すら呈しているが、そんなもの誰もが知っている、謂わば公然の秘密に過ぎず、何を今更という感が否めない。特に高校生の特待生制度など、甲子園大会という怪物化してしまったイベントを主催する高野連があまりにも枝葉末節にこだわり、憂慮すべき現状を黙認してきたのが元凶だ、と私は思う。甲子園大会を廃止するくらいの覚悟があるのなら世間も納得するかもしれないが、相変わらずの建前に終始し、アナクロニズムを子供たちに押し付けるくらいなら、とやかく言わずに黙っていろよと言いたい。
男子の順位の中に実業家とか起業家とかが入っていないのにはホッとした。余りに拝金主義的な現代社会を反映していないのがうれしい。特に、警察官・刑事とか消防士・救急隊というような社会に絶対不可欠であるが、決して楽ではない職業に就きたいと思う男の子が多いのは頼もしい限りだ。
しかし、9位の学校の先生(習い事の先生)の中に、私のような学習塾の教師もカウントされているのだろうか。もしそうなら、そうした子供たちには、「塾の先生なんて中途半端なものはやめなさい」と強く忠告したい。自分で言うのもなんだが、進んで選ぶような職業では決してない。考え直した方がいい。
女の子については、食べ物屋さんが1位なのがいい。私の娘は小さい頃、「何になりたいの?」と聞かれるたびに「ケーキ屋さん!」と答えていた。どうしてだか分からないが、長い間そうだった(それが高じてか、今ではケーキ屋で2年近くバイトを続けている)。小学生になってからは一度もそんな質問をしたことがなかったので、娘の心がどう変わったのかは知らないが、今では研究者のような者になりたいらしい。今夏にある大学院入試にうまく受かれば、そういう道も開けてくるかもしれない。頑張って勉強してもらいたいものだ。
5位にお医者さんが入っているのは、なるほどと思った。というのは、今年私大の医学部に進学した息子を持つ私の従兄弟が、その大学の新入生の4割が女の子だと教えてくれたばかりだったからだ。娘の高校の同級生にも医学部に進学した女の子が多数いるので、これからは女医さんがどんどん増えてくることだろう。
また過酷な労働環境がしばしば問題となっている看護士が、一時期と比べて順位が落ちたものの3位に入っていることは、やさしく清らかな心を持った女の子が多いことの表れだろう。
こうした子供たちの将来の夢を見聞きするたびに、「子供たちの純粋な夢が成就するといいなあ」と思う。
大人と呼ばれてもう久しくなった私が小学生の頃に抱いていた将来の夢は、「総理大臣になること」だった・・・。どこでどう間違ったんだろう。
男子のなりたいもの 女子のなりたいもの
1.野球選手 1・食べ物屋さん
2.サッカー選手 2.保育園・幼稚園の先生
3.学者・博士 3.看護士さん
4.食べ物屋さん 4.飼育係・ペット屋さん・調教師
警察官・刑事 5.お医者さん
大工さん 6.ピアノ・エレクトーンの先生・ピアニスト
7.消防士・救急隊 学校の先生(習い事の先生)
8.お医者さん 8.歌手・タレント
9.学校の先生(習い事の先生) 9.マンガ家
10.マンガ家 10.美容師さん
男子の1位の野球選手は、メジャーリーグで活躍する日本人選手が年々増えている現在、男の子があこがれるのも当然であろう。しかし、こうした夢を実現しようと努力してきた子供たちを巻き込んだ裏取引が、ここしばらく次々と明らかにされている。暴露合戦の様相すら呈しているが、そんなもの誰もが知っている、謂わば公然の秘密に過ぎず、何を今更という感が否めない。特に高校生の特待生制度など、甲子園大会という怪物化してしまったイベントを主催する高野連があまりにも枝葉末節にこだわり、憂慮すべき現状を黙認してきたのが元凶だ、と私は思う。甲子園大会を廃止するくらいの覚悟があるのなら世間も納得するかもしれないが、相変わらずの建前に終始し、アナクロニズムを子供たちに押し付けるくらいなら、とやかく言わずに黙っていろよと言いたい。
男子の順位の中に実業家とか起業家とかが入っていないのにはホッとした。余りに拝金主義的な現代社会を反映していないのがうれしい。特に、警察官・刑事とか消防士・救急隊というような社会に絶対不可欠であるが、決して楽ではない職業に就きたいと思う男の子が多いのは頼もしい限りだ。
しかし、9位の学校の先生(習い事の先生)の中に、私のような学習塾の教師もカウントされているのだろうか。もしそうなら、そうした子供たちには、「塾の先生なんて中途半端なものはやめなさい」と強く忠告したい。自分で言うのもなんだが、進んで選ぶような職業では決してない。考え直した方がいい。
女の子については、食べ物屋さんが1位なのがいい。私の娘は小さい頃、「何になりたいの?」と聞かれるたびに「ケーキ屋さん!」と答えていた。どうしてだか分からないが、長い間そうだった(それが高じてか、今ではケーキ屋で2年近くバイトを続けている)。小学生になってからは一度もそんな質問をしたことがなかったので、娘の心がどう変わったのかは知らないが、今では研究者のような者になりたいらしい。今夏にある大学院入試にうまく受かれば、そういう道も開けてくるかもしれない。頑張って勉強してもらいたいものだ。
5位にお医者さんが入っているのは、なるほどと思った。というのは、今年私大の医学部に進学した息子を持つ私の従兄弟が、その大学の新入生の4割が女の子だと教えてくれたばかりだったからだ。娘の高校の同級生にも医学部に進学した女の子が多数いるので、これからは女医さんがどんどん増えてくることだろう。
また過酷な労働環境がしばしば問題となっている看護士が、一時期と比べて順位が落ちたものの3位に入っていることは、やさしく清らかな心を持った女の子が多いことの表れだろう。
こうした子供たちの将来の夢を見聞きするたびに、「子供たちの純粋な夢が成就するといいなあ」と思う。
大人と呼ばれてもう久しくなった私が小学生の頃に抱いていた将来の夢は、「総理大臣になること」だった・・・。どこでどう間違ったんだろう。
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2000!!

しかし、松井自身はそうした数字には大した意味合いをおいていないようだ。普段の松井の言動からすれば当然のことであるが、通算2000本安打もさほどの感慨はもたらさなかったようだ。
「すごい数字だとは思うけど、特にないなあ。これを目指してやってきたわけではないから、特別な感じはないです。引退間際でこれを目標にしていたりしたらまた違うんだろうけど」
確かにふらふらになりながらも名球会入りだけのために現役にしがみつきやっとのことで2000本安打を達成した選手も何人かいる。彼らのそうした姿も野球人として1つの見本であるのかもしれないが、松井は違う。まだまだ現役を何年も続けて行って前人未到の記録をいくつも成し遂げていかなければならない男だ。こんな2000本くらいで大きな仕事を成し遂げたような感想をもらしてもらっては困る。ましてや、今はヤンキースが苦境に陥って浮上しようと必死にもがいているところだ。これくらいの記録で大騒ぎしている暇はない。そういう意味では、変なヒット(最初は左翼手のエラーと発表された)であっても、この騒動にさっさと終止符を打てたのはよかった。
ネットを見ていたら、「次の目標は」などという馬鹿げた質問をしていた記事を見つけた。聞くまでもない質問をなぜ改めてするのか、記者の真意が分からない。そんなの「ワールドシリーズ制覇」に決まってるじゃないか!だが、ナイスガイ松井は丁寧に答えている。
「個人的に何本打ちたいとか考えていない。その時その時で何かの数字が近づいてくるかもしれないけど、あまりそういうことを意識せずに毎日いいプレーができるようにしていきたい」
「いいところで打つ。試合を決める一打ならなおいい。この球をこう打ちたいという技術的なことはあるにはあるけど、形じゃない。試合を決める一打なら、どんなバッティングでも納得のヒット。どんなに格好悪くても、ボテボテでも試合を決める一打ならいいんじゃないかな」
ヤンキース入団後、05年のホワイトソックス・井口、06年のカージナルス・田口と連続してワールドシリーズ制覇の夢は先を越されてしまった。去年の骨折を克服し、今年こそはと臨んだ今シーズンも太もも肉離れで思うようなスタートが切れなかった。チームも低迷し、苦しいことばかりだったが、この日思わぬ朗報がもたらされた。「ロケット」ことロジャークレメンスがヤンキースに復帰することが、クレメンス自身の口から明らかにされたのだ。44歳とは言え、まだまだ衰えぬ力を持った豪腕の復帰は満員のヤンキースタジアムに大きな歓声で祝福された。先発投手陣の崩壊で失点を重ねてきたチームにとって、かつての大黒柱が復帰するのはワールドシリーズ制覇に向けて大きな助けとなることだろう。

でも、「松井、2000本安打達成おめでとう!!」
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ボクシング
6日の正午、WOWOWにチャンネルを合わせたらボクシングがやっていた。ほうっと思いながら観ていたら、この後にメガマッチが行われると言う。そうか、デラ・ホーヤが試合をするとかWOWOW MAGAZINE に書いてあったな、と思い出した。私はさほどボクシングに詳しくはないが、オスカー・デラ・ホーヤくらいは知っている。確か6階級制覇を成し遂げたボクシング界のスーパースターだ。彼が久しぶりに試合をするというのだから是非見なくちゃと雑誌を見たときには思ったのだが、てっきり忘れていた。運良くチャンネルを合わせられたのも不思議だが、それじゃあ、と気合いを込めて見始めた。
「WBC世界S.ウェルター級タイトルマッチ
オスカー・デラ・ホーヤvs.フロイド・メイウェザー」
オスカー・デラ・ホーヤ(34歳)
バルセロナ五輪金メダリストで、ボクシング史上初の6階級制覇を達成
した「ゴールデンボーイ」。
プロ通算戦績は42戦38勝(30KO)4敗。
フロイド・メイウェザー(30歳)
ベビーフェイスな外見から「プリティー・ボーイ」と呼ばれ、抜群の
スピードを武器に4階級制覇を達成した。
プロ通算戦績は37戦全勝(24KO)。
リングサイドの最高額が2000ドル、一番安い席でさえ150ドルもするという高額なチケット16,000枚余りがわずか3時間で売切れてしまったと言われるほど、全米ではものものすごい注目を集めた一戦だった。デラ・ホーヤのコーチを長年務めてきたのが、メイウェザーの実の父親だったという因縁めいた話がTVで紹介されるし、「パワーのデラ・ホーヤ対スピードのメイウェザー」という図式もはっきりしていて、観ている私もいつしか興奮の坩堝と化した会場にいるような気がした。1年以上試合から遠ざかっていたデラ・ホーヤに試合勘が戻るかどうかが懸念され、TV解説者も試合の展開を何通りも予想していた。その中で、ゲストに招かれていたあおい輝彦(矢吹丈だ!!)が完全にデラ・ホーヤの応援団となって熱く思いのたけを語っていたのが面白かった。
試合開始とともに、デラ・ホーヤが攻め立てる。メイウェザーのスピードが殺されたように見え、序盤はデラ・ホーヤ有利で進んでいく。実力者同士の戦いだけに一瞬も目を離せない。あっという間にラウンドが進んでいく。5回になって、メイウェザーのパンチがデラ・ホーヤにクリーンヒットして一瞬腰が沈んだ。それまでのデラ・ホーヤの攻勢がそれを境に徐々に守勢へと変わっていく。それでもラッシュが見られるためまだまだポイントではデラ・ホーヤが勝っているように思われた。ところが9回辺りからデラ・ホーヤの手数がパタッと少なくなる。それと反比例するかのようにメイウェザーのパンチがデラ・ホーヤをとらえ始める。見ていてパンチ力はさほどあるようには思えなかったが、目に見えて疲労が激しくなったデラ・ホーヤの顔面やボディーにパンチを集めていく。あおい輝彦の口数が少なくなったことでデラ・ホーヤが苦境に立たされていることが分かる。試合から遠ざかっていたためなのか、年齢からくるものなのか、スタミナ切れは明らかだ。

結局、12回戦って両者が倒れることは1度もなかった。しかし、お互いに死力を尽くして戦ったことが私には十二分に伝わってきた。前半攻勢だったデラ・ホーヤ、後半有利に戦ったメイウェザー、どちらが勝つにしても僅差の判定に持ち込まれたが、私にはメイウェザーの方が有利に思われた。やはり最終ランドを終えた時点で元気な方が勝者になるのが当然なのではないだろうか、などと思っていると結果が発表された。3人のジャッジのうち、1人目が115-113でデラ・ホーヤ、2人目が116-112でメイウェザー、そして最後の1人が115-113でメイウェザー!2-1の判定でメイウェザーが勝って、見事5階級制覇に成功した!!
久しぶりに見たボクシングは迫力があったし、面白かった、興奮もした。しかし、K-1とかプライドを見慣れた目には、パンチだけで攻撃するのがもどかしくて、「蹴れ!」とか「投げろ!」とか時々思ってしまったのは情けなかった。
オスカー・デラ・ホーヤvs.フロイド・メイウェザー」

バルセロナ五輪金メダリストで、ボクシング史上初の6階級制覇を達成
した「ゴールデンボーイ」。
プロ通算戦績は42戦38勝(30KO)4敗。

ベビーフェイスな外見から「プリティー・ボーイ」と呼ばれ、抜群の
スピードを武器に4階級制覇を達成した。
プロ通算戦績は37戦全勝(24KO)。
リングサイドの最高額が2000ドル、一番安い席でさえ150ドルもするという高額なチケット16,000枚余りがわずか3時間で売切れてしまったと言われるほど、全米ではものものすごい注目を集めた一戦だった。デラ・ホーヤのコーチを長年務めてきたのが、メイウェザーの実の父親だったという因縁めいた話がTVで紹介されるし、「パワーのデラ・ホーヤ対スピードのメイウェザー」という図式もはっきりしていて、観ている私もいつしか興奮の坩堝と化した会場にいるような気がした。1年以上試合から遠ざかっていたデラ・ホーヤに試合勘が戻るかどうかが懸念され、TV解説者も試合の展開を何通りも予想していた。その中で、ゲストに招かれていたあおい輝彦(矢吹丈だ!!)が完全にデラ・ホーヤの応援団となって熱く思いのたけを語っていたのが面白かった。
試合開始とともに、デラ・ホーヤが攻め立てる。メイウェザーのスピードが殺されたように見え、序盤はデラ・ホーヤ有利で進んでいく。実力者同士の戦いだけに一瞬も目を離せない。あっという間にラウンドが進んでいく。5回になって、メイウェザーのパンチがデラ・ホーヤにクリーンヒットして一瞬腰が沈んだ。それまでのデラ・ホーヤの攻勢がそれを境に徐々に守勢へと変わっていく。それでもラッシュが見られるためまだまだポイントではデラ・ホーヤが勝っているように思われた。ところが9回辺りからデラ・ホーヤの手数がパタッと少なくなる。それと反比例するかのようにメイウェザーのパンチがデラ・ホーヤをとらえ始める。見ていてパンチ力はさほどあるようには思えなかったが、目に見えて疲労が激しくなったデラ・ホーヤの顔面やボディーにパンチを集めていく。あおい輝彦の口数が少なくなったことでデラ・ホーヤが苦境に立たされていることが分かる。試合から遠ざかっていたためなのか、年齢からくるものなのか、スタミナ切れは明らかだ。



結局、12回戦って両者が倒れることは1度もなかった。しかし、お互いに死力を尽くして戦ったことが私には十二分に伝わってきた。前半攻勢だったデラ・ホーヤ、後半有利に戦ったメイウェザー、どちらが勝つにしても僅差の判定に持ち込まれたが、私にはメイウェザーの方が有利に思われた。やはり最終ランドを終えた時点で元気な方が勝者になるのが当然なのではないだろうか、などと思っていると結果が発表された。3人のジャッジのうち、1人目が115-113でデラ・ホーヤ、2人目が116-112でメイウェザー、そして最後の1人が115-113でメイウェザー!2-1の判定でメイウェザーが勝って、見事5階級制覇に成功した!!
久しぶりに見たボクシングは迫力があったし、面白かった、興奮もした。しかし、K-1とかプライドを見慣れた目には、パンチだけで攻撃するのがもどかしくて、「蹴れ!」とか「投げろ!」とか時々思ってしまったのは情けなかった。
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若冲(2)
愛知県美術館で開催中の「若冲と江戸絵画」展を観賞しに行ってきた。4月13日から6月10日までの開催なので、どんなことがあっても一度は行くつもりだった。ただ、大勢の人ごみの中で観賞するのは避けたいと思っていた。昨今の若冲ブームのためいつ行っても混んでいるだろうと思ってはいたが、かえってゴールデンウィーク中の方が遠出をする人が多くて案外とすいているのではないかと、淡い期待を抱いて出かけた。
愛知県美術館は愛知県芸術文化センターの10階にある。私は初めて入ったのだが、建物の壮大さには驚かされた。1階から最上階の10階まで吹き抜けになっていて、エスカーレターでどんどん上に上っていくと、高い所の苦手な私は思わず足がすくんでしまった。何のためにこんな構造にしなけりゃいけないのか理解できないが、芸術センターだけに建物全体もオブジェと考えられているのかもしれない。(それでもよく分からないが)

10階に着いて驚いた、入場券売り場に列ができていない!あっさりと入場できてしまった。これにはいささか拍子抜けしてしまったが、私にとっては嬉しいことだ。これなら待ちに待った若冲とゆっくり対面できる。この展覧会は、魅力に満ちた江戸絵画の大コレクションとして世界的に知られている、カリフォルニアのプライスコレクションから選りスグリの109点が展示されている催しである。会場は、Ⅰ正統派絵画、Ⅱ京の画家 Ⅲエキセントリック Ⅳ江戸の画家 Ⅴ江戸琳派 の5つの部門に分けて展示されている。
Ⅱの京の画家では、円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」や長沢芦雪の「白象黒牛図屏風」という逸品に目を奪われた。屏風に描かれた絵というのは実に雄大だ。応挙は多くを描いていないが故に空間的広がりを表現しているし、芦雪の牛と象は屏風いっぱいにその姿が描かれていることで、その途方もない大きさを表現している。この部門で他に印象に残ったのは、実に多くの虎の絵が描かれていることだ。いずれの絵も、今まさに動き出さんばかりの躍動する虎の姿が毛の一本一本まで丹念に描かれている。思わず身を乗り出して細部まで見てしまう。
しかし、それもⅢの若冲の絵画が集められた部門に来たら忘れ去られてしまった。私の大嫌いな鶏の絵で有名な若冲ではあるが、展示されていた鶏の絵はさほど多くなかった。細部まで描ききった若冲の鶏が少なかったのには安心もしたが、やはり少々物足りなかった。だが、そんなことなど「鳥獣花木図屏風」の前ではどうでもいいことだった。私はただこの屏風を観るためだけにやって来たのだ。そんな思いからか、絵の前に立つと思わず目頭が熱くなってきた。もう、ただただじっと見つめるだけだった。なんて絵だ!どうしてこんな絵が描けるのだ・・!


若冲は1716年から1800年に生きた京の絵師だ。今から200年以上前に生きていた彼には、現代のように動物園で動物達を細かに観察することはできなかったであろう。この展覧会の副題(JAKUCHU AND THE AGE OF IMAGINATION)にもあるように、想像力を働かせながら描いたものであると考えるのが自然だろう。1マス約12mmのマス目を屏風1枚に付き43,000個も使ってモザイクのように描かれたこの絵の前に立てば、誰もが若冲の想像力に圧倒されてしまうことだろう。左隻には鳥が、右隻には動物が生き生きと描かれていて、自分がその中の一部になったような気さえ起こってくる。まるで曼荼羅のように一つの宇宙が表現されているかのようだ。私は見惚れるばかりで、しばらくその場を動くことができなかった。まさしく至福の時であった。
この後Ⅳ・Ⅴには、鈴木其一、酒井抱一の絵なども展示されてはいたが、もう満足しつくした私にはさほどの感慨を催させはしなかった。見終えて、図録と上の写真に撮ったミニ屏風を買って会場を後にしたが、しばらくはこの満たされた気持ちが続くことだろう。

愛知県美術館は愛知県芸術文化センターの10階にある。私は初めて入ったのだが、建物の壮大さには驚かされた。1階から最上階の10階まで吹き抜けになっていて、エスカーレターでどんどん上に上っていくと、高い所の苦手な私は思わず足がすくんでしまった。何のためにこんな構造にしなけりゃいけないのか理解できないが、芸術センターだけに建物全体もオブジェと考えられているのかもしれない。(それでもよく分からないが)


10階に着いて驚いた、入場券売り場に列ができていない!あっさりと入場できてしまった。これにはいささか拍子抜けしてしまったが、私にとっては嬉しいことだ。これなら待ちに待った若冲とゆっくり対面できる。この展覧会は、魅力に満ちた江戸絵画の大コレクションとして世界的に知られている、カリフォルニアのプライスコレクションから選りスグリの109点が展示されている催しである。会場は、Ⅰ正統派絵画、Ⅱ京の画家 Ⅲエキセントリック Ⅳ江戸の画家 Ⅴ江戸琳派 の5つの部門に分けて展示されている。
Ⅱの京の画家では、円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」や長沢芦雪の「白象黒牛図屏風」という逸品に目を奪われた。屏風に描かれた絵というのは実に雄大だ。応挙は多くを描いていないが故に空間的広がりを表現しているし、芦雪の牛と象は屏風いっぱいにその姿が描かれていることで、その途方もない大きさを表現している。この部門で他に印象に残ったのは、実に多くの虎の絵が描かれていることだ。いずれの絵も、今まさに動き出さんばかりの躍動する虎の姿が毛の一本一本まで丹念に描かれている。思わず身を乗り出して細部まで見てしまう。
しかし、それもⅢの若冲の絵画が集められた部門に来たら忘れ去られてしまった。私の大嫌いな鶏の絵で有名な若冲ではあるが、展示されていた鶏の絵はさほど多くなかった。細部まで描ききった若冲の鶏が少なかったのには安心もしたが、やはり少々物足りなかった。だが、そんなことなど「鳥獣花木図屏風」の前ではどうでもいいことだった。私はただこの屏風を観るためだけにやって来たのだ。そんな思いからか、絵の前に立つと思わず目頭が熱くなってきた。もう、ただただじっと見つめるだけだった。なんて絵だ!どうしてこんな絵が描けるのだ・・!


若冲は1716年から1800年に生きた京の絵師だ。今から200年以上前に生きていた彼には、現代のように動物園で動物達を細かに観察することはできなかったであろう。この展覧会の副題(JAKUCHU AND THE AGE OF IMAGINATION)にもあるように、想像力を働かせながら描いたものであると考えるのが自然だろう。1マス約12mmのマス目を屏風1枚に付き43,000個も使ってモザイクのように描かれたこの絵の前に立てば、誰もが若冲の想像力に圧倒されてしまうことだろう。左隻には鳥が、右隻には動物が生き生きと描かれていて、自分がその中の一部になったような気さえ起こってくる。まるで曼荼羅のように一つの宇宙が表現されているかのようだ。私は見惚れるばかりで、しばらくその場を動くことができなかった。まさしく至福の時であった。
この後Ⅳ・Ⅴには、鈴木其一、酒井抱一の絵なども展示されてはいたが、もう満足しつくした私にはさほどの感慨を催させはしなかった。見終えて、図録と上の写真に撮ったミニ屏風を買って会場を後にしたが、しばらくはこの満たされた気持ちが続くことだろう。

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BBQ
4・5・6日とゴールデンウィークの3連休だ。休みの少ない私にとっては、貴重な3日だ。息子も帰郷したことだし、楽しく過ごしたいものだ。と言っても、大したことは何もできない。少し考えた挙句に、1日目は久しぶりに庭でバーベキュー(BBQ)をすることになった。
少し前までは、年に何度もBBQをした。息子の同級生を何人か呼んでは楽しい時をすごしたものだ。昨年は息子が受験生と言うこともあって1度もしなかったから、久しぶりに楽しんだことになる。

私は practical な男ではない。どちらかと言えば「木偶の坊」である。こうしたアウトドア系には何の役にも立たない。BBQに最も必要な火を熾すのが大の苦手である。妻からバカにされることもたびたびであるが、今回はなぜか奇跡的に上手くいった。それも私の父が冬の間中、自分の小屋で薪をくべながらせっせと作ってくれた消し炭を利用したおかげである。実に簡単に火が熾ってくれた。自分がアウトドアの達人になったようで嬉しかった。


BBQと言っても家族4人で楽しむだけだ。食材も少し買い込めばこと足りる。と思っていたが、いざ買いに出かけるとあれやこれやたくさん買い込んでしまった。牛肉、豚肉、鶏肉、虹鱒、えび、イカ、たまねぎ、ピーマン、しいたけ、エリンゲ、さらには焼きそばの麺、焼きおにぎり・・。これじゃあ、援軍を頼まねばならない、急遽息子の友人シバ君に電話してみた。彼は出先で電話に出てくれたが、少しすれば参加出来ると快諾を得て、こちらはボチボチ始めることにした。


肉を食べない私の担当は、野菜と魚介類だ。炭の状態もよくなかなかの火力だ。ジュージュー音を立てながら次々と焼きあがっていく。肉を横目で見ながら、野菜や魚介類の世話をする。私はピーマンが好きだ。生でも食べられる。しいたけもみずみずしくておいしかった。妻が絶対これがいいと買ってきた叙々苑のたれが、肉だけでなく野菜や魚介類にも合う。ビールを飲みながら待っていると、父やシバ君がやって来た。レポート作りに精を出していた息子も加わって、あっという間に用意した物が皆なくなってしまった。素晴らしい!!
酔いが回った私は急に睡魔に襲われて思わず寝入ってしまい、後片付けをせずに終わってしまった。こうしたやりっぱなしの態度が毎回妻から難詰を受けるのだが、楽しい時をすごせたことに免じて今回は勘弁してもらいたい。
少し前までは、年に何度もBBQをした。息子の同級生を何人か呼んでは楽しい時をすごしたものだ。昨年は息子が受験生と言うこともあって1度もしなかったから、久しぶりに楽しんだことになる。


私は practical な男ではない。どちらかと言えば「木偶の坊」である。こうしたアウトドア系には何の役にも立たない。BBQに最も必要な火を熾すのが大の苦手である。妻からバカにされることもたびたびであるが、今回はなぜか奇跡的に上手くいった。それも私の父が冬の間中、自分の小屋で薪をくべながらせっせと作ってくれた消し炭を利用したおかげである。実に簡単に火が熾ってくれた。自分がアウトドアの達人になったようで嬉しかった。






BBQと言っても家族4人で楽しむだけだ。食材も少し買い込めばこと足りる。と思っていたが、いざ買いに出かけるとあれやこれやたくさん買い込んでしまった。牛肉、豚肉、鶏肉、虹鱒、えび、イカ、たまねぎ、ピーマン、しいたけ、エリンゲ、さらには焼きそばの麺、焼きおにぎり・・。これじゃあ、援軍を頼まねばならない、急遽息子の友人シバ君に電話してみた。彼は出先で電話に出てくれたが、少しすれば参加出来ると快諾を得て、こちらはボチボチ始めることにした。





肉を食べない私の担当は、野菜と魚介類だ。炭の状態もよくなかなかの火力だ。ジュージュー音を立てながら次々と焼きあがっていく。肉を横目で見ながら、野菜や魚介類の世話をする。私はピーマンが好きだ。生でも食べられる。しいたけもみずみずしくておいしかった。妻が絶対これがいいと買ってきた叙々苑のたれが、肉だけでなく野菜や魚介類にも合う。ビールを飲みながら待っていると、父やシバ君がやって来た。レポート作りに精を出していた息子も加わって、あっという間に用意した物が皆なくなってしまった。素晴らしい!!
酔いが回った私は急に睡魔に襲われて思わず寝入ってしまい、後片付けをせずに終わってしまった。こうしたやりっぱなしの態度が毎回妻から難詰を受けるのだが、楽しい時をすごせたことに免じて今回は勘弁してもらいたい。
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息子の帰郷
2日の夜遅くに息子が東京から戻ってきた。連休は入会したサークルの合宿で遠出するため、家に戻って来ないはずになっていたのだが、大学でレポートを提出しなくてはならない授業ができて、自分のアパートにはまだネットの回線がつながっていないため、合宿を断って急遽自宅に戻って来て片付けようと考えたようだ。今週のはじめに、妻が上京して息子の部屋で2泊する間に里心がついたのかもしれない。まあ、理由はどうあれ、久しぶりに顔が見られる私としては喜ばしいことではある。
塾の授業が終わり生徒を送りがてら、深夜12時近くに到着するのを迎えに出向いた私に向かって、息子は開口一番「何でバスなの?」とのたまった。「そりゃあ、塾が終わったついでだからな」「そうか、そうだよね」などと、わずか1ヶ月でこちらの生活の流れを忘れてしまったようだ。だが、久しぶりに見た顔は前と変わっていない、ちょっとホッとした。「お腹はすいてないか?」「うん、自分で作った味噌汁がまだ残っていたから、それを食べて出てきた」「ふ~ん・・」妻が味噌汁の作り方などを伝授してきたと言っていたが、もう実践しているとはなかなか殊勝な奴だ。「それにしても静かだね、本当に静か」「そりゃ東京と比べちゃいけないさ」「まあね、うちのそばには環七が通っていて夜も結構うるさいから」「ふ~ん、アパートはどう?」「壁が薄いから隣の物音はよく聞こえるけど、12時過ぎると静かになるからそれほど気にならない」やはり新築であっても木造アパートでは仕方ない面もあるが、めぼしい物件がなくなっていた状況では最上の選択だったと今でも思っている。
家に近付くにつれ窓の外を眺めては、「懐かしいなあ」などと言うから、「大袈裟だ。まだ1ヶ月しか経ってないぞ」「そうだけど、久しぶりだから仕方ないじゃない。懐かしいよ」確かに、私が大学に入学して最初のゴールデンウィークに帰省した時も家の周りが妙に懐かしかった記憶がある。新しい環境に慣れようと必死になって何とかペースをつかみかけた時期に戻ってくると、張り詰めていたものが解け、ふっと気が緩んで懐かしさがこみ上げてくるのかもしれない。それがふるさとの有難さというものなのだろう。
家に着いて車を降りたら、「空がきれいだ。澄み切っている」と驚いている。「東京はそんなに汚いの?」「うん、空がよどんでいる気がする」「空気も悪いだろう?」「まあね。高田馬場辺りは空気が汚いけど、大学に近付くとだんだんきれいになってくる。大学の中は結構緑が多いから」私の家の周りは緑ばかりだ。特に今は新緑の季節、息子が家を出た3月の終わりとはまったく違って緑にはね返る陽光がまぶしい。こんな環境で育った息子には大都会の空気は辛いだろう。
息子の姿を察知した犬の弁慶がワンワンと吠え立てる。そういえば、受験が終わってからの1ヶ月毎日息子が弁慶を散歩させていた。「おお、弁慶、ただいま」などと息子が言うのを聞くのも楽しい。
「はい、おみやげ」と言って、家の中で渡してくれたのが大学生協で買ってきたという「じゃがたらチップ」。

スクールカラーのパッケージはなかなかのものだが、中身は普通のチップ。でも食べたら塩のきいた海老味がおいしかった。「ゴーフルもあったけど、安いからこちらにした」なんて立派な心掛けだろう・・。
短期間ながらも、一人暮らしをして少しはピリッとしたかなと思っていたら、今から友達と出かけると言う。「もう1時だぞ。どこに行くつもりだ?」「カラオケに行こうって。いい?」「まあ、行きたけりゃ行けばいいけど・・」わずか1ヶ月でもうすっかり時間の使い方が、バカ大学生モードになっている。一人暮らしの功罪が一度に見られたようで、思わず笑ってしまった。
翌朝目が覚めるとすぐに、「息子は帰って来たか」と妻にたずねたら、「まだ帰って来てない」と答えた。「友達のところで寝たんじゃない?」と妻も呆れ顔だったが、私も少々驚いた。「朝方には帰って来るかと思っていたのに・・」「まったくね!」結局帰って来たのはお昼近くなってからだった。朝の5時までカラオケをやって、そのまま友達の部屋に転がり込んだのだそうだ。もうやりたい放題だ・・。
でも、連休中に帰って来る気などさらさらないバカ娘よりもずっとマシだけど。
塾の授業が終わり生徒を送りがてら、深夜12時近くに到着するのを迎えに出向いた私に向かって、息子は開口一番「何でバスなの?」とのたまった。「そりゃあ、塾が終わったついでだからな」「そうか、そうだよね」などと、わずか1ヶ月でこちらの生活の流れを忘れてしまったようだ。だが、久しぶりに見た顔は前と変わっていない、ちょっとホッとした。「お腹はすいてないか?」「うん、自分で作った味噌汁がまだ残っていたから、それを食べて出てきた」「ふ~ん・・」妻が味噌汁の作り方などを伝授してきたと言っていたが、もう実践しているとはなかなか殊勝な奴だ。「それにしても静かだね、本当に静か」「そりゃ東京と比べちゃいけないさ」「まあね、うちのそばには環七が通っていて夜も結構うるさいから」「ふ~ん、アパートはどう?」「壁が薄いから隣の物音はよく聞こえるけど、12時過ぎると静かになるからそれほど気にならない」やはり新築であっても木造アパートでは仕方ない面もあるが、めぼしい物件がなくなっていた状況では最上の選択だったと今でも思っている。
家に近付くにつれ窓の外を眺めては、「懐かしいなあ」などと言うから、「大袈裟だ。まだ1ヶ月しか経ってないぞ」「そうだけど、久しぶりだから仕方ないじゃない。懐かしいよ」確かに、私が大学に入学して最初のゴールデンウィークに帰省した時も家の周りが妙に懐かしかった記憶がある。新しい環境に慣れようと必死になって何とかペースをつかみかけた時期に戻ってくると、張り詰めていたものが解け、ふっと気が緩んで懐かしさがこみ上げてくるのかもしれない。それがふるさとの有難さというものなのだろう。
家に着いて車を降りたら、「空がきれいだ。澄み切っている」と驚いている。「東京はそんなに汚いの?」「うん、空がよどんでいる気がする」「空気も悪いだろう?」「まあね。高田馬場辺りは空気が汚いけど、大学に近付くとだんだんきれいになってくる。大学の中は結構緑が多いから」私の家の周りは緑ばかりだ。特に今は新緑の季節、息子が家を出た3月の終わりとはまったく違って緑にはね返る陽光がまぶしい。こんな環境で育った息子には大都会の空気は辛いだろう。
息子の姿を察知した犬の弁慶がワンワンと吠え立てる。そういえば、受験が終わってからの1ヶ月毎日息子が弁慶を散歩させていた。「おお、弁慶、ただいま」などと息子が言うのを聞くのも楽しい。
「はい、おみやげ」と言って、家の中で渡してくれたのが大学生協で買ってきたという「じゃがたらチップ」。


スクールカラーのパッケージはなかなかのものだが、中身は普通のチップ。でも食べたら塩のきいた海老味がおいしかった。「ゴーフルもあったけど、安いからこちらにした」なんて立派な心掛けだろう・・。
短期間ながらも、一人暮らしをして少しはピリッとしたかなと思っていたら、今から友達と出かけると言う。「もう1時だぞ。どこに行くつもりだ?」「カラオケに行こうって。いい?」「まあ、行きたけりゃ行けばいいけど・・」わずか1ヶ月でもうすっかり時間の使い方が、バカ大学生モードになっている。一人暮らしの功罪が一度に見られたようで、思わず笑ってしまった。
翌朝目が覚めるとすぐに、「息子は帰って来たか」と妻にたずねたら、「まだ帰って来てない」と答えた。「友達のところで寝たんじゃない?」と妻も呆れ顔だったが、私も少々驚いた。「朝方には帰って来るかと思っていたのに・・」「まったくね!」結局帰って来たのはお昼近くなってからだった。朝の5時までカラオケをやって、そのまま友達の部屋に転がり込んだのだそうだ。もうやりたい放題だ・・。
でも、連休中に帰って来る気などさらさらないバカ娘よりもずっとマシだけど。
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とうふ
ある飲食店の前を車で通りかかったら、ずらっと立てられたのぼりに「豆富」の文字が躍っていた。「?」と思って目を凝らしたら、それはどうも「豆腐」のことのようだった。「豆腐料理」を売り出そうとするのに、「腐」を「富」に置き換えたらしい。う~ん、一本取られたような気がした。豆腐の作り方はよく知らないが、大雑把に言えば、「水につけて柔らかくした大豆をつぶして煮た汁を漉し、苦汁(にがり)を入れて固めた食品」と「語源辞典」(講談社)にあるように、豆を腐らせて作るのではない。「漢字の『腐』は本来、肉がただれて腐る意であるが、固体でも液体でもないようなものをさすときにも用いられる」とあるように、その形状を指して言った名前であるようだ。しかし、よく考えれば、食べ物に「腐」という漢字が使われているのもおかしなものだ。語源を調べれば納得できるが、だれもそんなことはしない。ただ普通に「くさる」という意味を知っているだけだろう。そんな「腐」という字を食べ物にずっと使ってきたのも無神経といえば言えなくもない。そうした観点からこの飲食店が「豆富」とあえて表記したとしたなら、なかなかな感覚の持ち主であると賞賛したい。「豆に富んだ食品」、実にいい表記ではないか。
でも、「豆富」と書かれた「とうふ」が売られているのを見たことはない。そこで、市内に新しく開店したばかりのスーパーを見学しがてら、実際に「豆富」と表記された「とうふ」はないだろうか、調べてみることにした。

実にたくさんの種類の豆腐が並べられている。絹ごしだの、木綿だのと宣伝文句がうるさいほどだ。しかし、不思議なことにそのほとんどが「とうふ」と表記されている。平仮名で豆腐の柔らかなイメージを引き立たせようとしているのだろうか。その中にひときわ異彩を放つ豆腐があった。言わずと知れた「男前豆腐店」。何とここだけは堂々と「豆腐」の二文字を使っている。さすがだ。何がさすがだかよく分からないが、さすがだ。他のスーパーでは「男前豆腐店」の商品がどんどん増殖を続けていて、かなりの売り場面積を占めていたが、このスーパーではまだそんな盛り上がりを見せていない。と、思っていたら、「ジョニ男」という小ぶりな商品を見つけた。

袋に"Are you jonile tonight?" などと意味の分からぬ英語もどきの言葉が書いてある。「おいおい、大丈夫か」と思いながらも手に取ってしまったのが、間違いだった。"THE WAY TO JONIO MEISTER" と書かれた下に、この豆腐の食べ方がいくつか書かれている。"NORMAL" な食べ方としては、・一味唐辛子+ポン酢 ・紅葉おろし+あさつき+ポン酢 ・オリーブオイル+黒胡麻+岩塩 ・わさび醤油 ・醤油+ラー油+お酢・・・。そのすぐ下には "ABNORMAL"な食べ方の例がいくつか記されている。 ・はちみつ ・きな粉+黒蜜 ・メープルシロップ ・フルーツソース ・オリゴ糖 これを読んだ瞬間に、これは私に対する挑戦だ、と直感した。何がそんなにカチンときたのか分からないが、そっちがそういうつもりなら受けて立ちましょう!と豆腐代108円を払って家に持ち帰った。
どうやって食べてやろうかあれこれ考えた。よし、まずはマヨネーズと胡麻だれで試してみよう!

男前豆腐は、「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」で痛い目にあっていたから、これもどうせうまくないだろうと高をくくっていた。マヨネーズの味でごまかして食べたら案外いけるかも、などと思いながら一口食べてみた。最初はマヨネーズの味しかしなかった。しかし、しばらく口の中で味わっているうちにだんだんと豆腐の味が広がってくるではないか。「何、これは?」と思いながら胡麻だれも食べてみた。すると結果は同じだった、豆腐がうまい!マヨネーズも胡麻だれも邪魔だ、いらない。さらにポン酢も試したがまったく同じだった。こうなったら、最後はシンプルに醤油だ、と残った豆腐にかけて食べてみた。おいしい!!まったく奇を衒ったところのない昔ながらの豆腐だ!!だけど、うまい!!

とは言っても、結局は普通のありきたりの豆腐が私には一番おいしいということが分かっただけの話である。もしも、この「ジョニ男」がひどい味だったら、あんこを乗せて食べてやろうと思っていたのだが、そんなことにならずに済んだだけよかった。でも、いつか試してみたいなあ。
でも、「豆富」と書かれた「とうふ」が売られているのを見たことはない。そこで、市内に新しく開店したばかりのスーパーを見学しがてら、実際に「豆富」と表記された「とうふ」はないだろうか、調べてみることにした。


実にたくさんの種類の豆腐が並べられている。絹ごしだの、木綿だのと宣伝文句がうるさいほどだ。しかし、不思議なことにそのほとんどが「とうふ」と表記されている。平仮名で豆腐の柔らかなイメージを引き立たせようとしているのだろうか。その中にひときわ異彩を放つ豆腐があった。言わずと知れた「男前豆腐店」。何とここだけは堂々と「豆腐」の二文字を使っている。さすがだ。何がさすがだかよく分からないが、さすがだ。他のスーパーでは「男前豆腐店」の商品がどんどん増殖を続けていて、かなりの売り場面積を占めていたが、このスーパーではまだそんな盛り上がりを見せていない。と、思っていたら、「ジョニ男」という小ぶりな商品を見つけた。


袋に"Are you jonile tonight?" などと意味の分からぬ英語もどきの言葉が書いてある。「おいおい、大丈夫か」と思いながらも手に取ってしまったのが、間違いだった。"THE WAY TO JONIO MEISTER" と書かれた下に、この豆腐の食べ方がいくつか書かれている。"NORMAL" な食べ方としては、・一味唐辛子+ポン酢 ・紅葉おろし+あさつき+ポン酢 ・オリーブオイル+黒胡麻+岩塩 ・わさび醤油 ・醤油+ラー油+お酢・・・。そのすぐ下には "ABNORMAL"な食べ方の例がいくつか記されている。 ・はちみつ ・きな粉+黒蜜 ・メープルシロップ ・フルーツソース ・オリゴ糖 これを読んだ瞬間に、これは私に対する挑戦だ、と直感した。何がそんなにカチンときたのか分からないが、そっちがそういうつもりなら受けて立ちましょう!と豆腐代108円を払って家に持ち帰った。
どうやって食べてやろうかあれこれ考えた。よし、まずはマヨネーズと胡麻だれで試してみよう!

男前豆腐は、「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」で痛い目にあっていたから、これもどうせうまくないだろうと高をくくっていた。マヨネーズの味でごまかして食べたら案外いけるかも、などと思いながら一口食べてみた。最初はマヨネーズの味しかしなかった。しかし、しばらく口の中で味わっているうちにだんだんと豆腐の味が広がってくるではないか。「何、これは?」と思いながら胡麻だれも食べてみた。すると結果は同じだった、豆腐がうまい!マヨネーズも胡麻だれも邪魔だ、いらない。さらにポン酢も試したがまったく同じだった。こうなったら、最後はシンプルに醤油だ、と残った豆腐にかけて食べてみた。おいしい!!まったく奇を衒ったところのない昔ながらの豆腐だ!!だけど、うまい!!

とは言っても、結局は普通のありきたりの豆腐が私には一番おいしいということが分かっただけの話である。もしも、この「ジョニ男」がひどい味だったら、あんこを乗せて食べてやろうと思っていたのだが、そんなことにならずに済んだだけよかった。でも、いつか試してみたいなあ。
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忘れてた!
このブログを始めて2年経った。去年の今頃は1年間休まず記事を書き続けたことが嬉しくてたまらなかった。励ましてくださった方々に感謝の気持ちでいっぱいだった。ところがそれから1年経ったというのに、今年はそんなことをまるで忘れていた。別に毎日書くことでアップアップしていたわけでもないし、そんなに忙しくもなかった。ただ、単に忘れていただけのことだ。でも、何故だろう。
最初の1年間は手探りでとにかく自分の設定したゴール目指して青息吐息の連続だった。その目標を曲がりなりにもクリアーしてからは、肩の荷が下りたというか、足かせが外れたというか、とにかく身軽になれ、毎日好きなことを気楽に書けるようになった。改めて何か目標を定めたわけではない。結果として毎日書き続けて来たことにはなるが、敢えてそうしようと思っていたわけでもない。毎日一定時間PCに向かって「心にうつりゆくよしなしごとを書きつく」って来ただけのことである。もちろん、それが私には楽しみであるからこそ続けてこれたとは思う。塾を終えてから、一日の締めというか、新しい一日を出迎えるためというか、深夜の微妙な時間にこのブログにその時の思いを書き留めるという行為が私の心を穏やかにしてくれるのだろう。
面倒くさいなとか止めようかなと思ったことがないといえば嘘になるだろうが、今の私にはこのブログを閉じることは考えられない。そんなことをしたら、手持ち無沙汰で仕方なくなってしまう。「小人閑居して悪をなす」の譬えの如く、私に暇な時間があったところで碌なことにはならない。何もするあてのない時間ほど持て余すものはない。特別何かをしなくても時間に追い立てられていた方が、生きている実感がする。それを貧乏性と呼ぶなら呼べよ、と開き直って毎日を暮らして生きたい。そんな私には、このブログに割く時間が妙に心地よい。
ブログにかける時間はなにも文字を記す時間だけではない。ふっと思いついて写真を撮りに出かけたり、これはと思う本を読んでみる、そうした時間は何物にも代えがたい。ネタ探しに奔走しているわけでもないが、これを今日はブログの話題にしようと思いついた瞬間は幸せな気持ちになる。いざ書く段になって、下らぬ内容になってしまっても、自分なりにまとめることができたときにはまた幸せを味わえる。なんて安上がりな楽しみだろう。お金を使って楽しむよりもお金を使わずに楽しむ方が、充実感を味わえるのが最近分かってきた。ああ、今まで無駄に浪費してきたお金を返して欲しい、などと誰に向かうともない叫びをしたくなる。
私は以前書いた記事を読み返すことは滅多にしないのだが、一年目のコメント数の多さは尋常ではなかった。私の拙い記事を読むよりもコメントを読んだほうがずっと面白い。しかし、そうしたうねりとも呼ぶべき時期を越えて、落ち着いた気持ちで臨める現在のこのブログのたたずまいの方が本来の私には合っている。浅学非才な私の狭量からくる独断と偏見に満ちた文章を、見放すことなく付き合ってくださる方々とのここでの語らいは、私にとっては至宝であり、どんなにお礼を言っても足りないと、常に感謝している。一年前に実感した、多くの方々が私に寄せてくださるご厚情の有難さは、今でも私の心の支えとなっている。こういうことを書き出すと、ついつい大袈裟な言葉を使ってしまう悪癖がある私であるから、これ以上言葉を重ねないでおくが、本当に心から感謝している。
ゴジ健さん、竜虎の母さん、ボネットさん、師匠さん、ビーバーさん、ワールドさん、ウゴメクさん、みたぽんさん、ともやさん、ゆりかりさん、aiai-zooさん、さらにはいつもこのブログを訪れてくださる皆様、ありがとうございます。これからも我慢強くお付き合いください。
なお、ちょっとした記念にボネさんちから拝借してきた占い(Tシャツ占い)を載せておく。
「塾長」と入れたら、こんなTシャツができた。成分が今の私に妙に合致していて気持ち悪いくらいだ。(しかし、「未亡人分析学」とは何ぞや?)

最初の1年間は手探りでとにかく自分の設定したゴール目指して青息吐息の連続だった。その目標を曲がりなりにもクリアーしてからは、肩の荷が下りたというか、足かせが外れたというか、とにかく身軽になれ、毎日好きなことを気楽に書けるようになった。改めて何か目標を定めたわけではない。結果として毎日書き続けて来たことにはなるが、敢えてそうしようと思っていたわけでもない。毎日一定時間PCに向かって「心にうつりゆくよしなしごとを書きつく」って来ただけのことである。もちろん、それが私には楽しみであるからこそ続けてこれたとは思う。塾を終えてから、一日の締めというか、新しい一日を出迎えるためというか、深夜の微妙な時間にこのブログにその時の思いを書き留めるという行為が私の心を穏やかにしてくれるのだろう。
面倒くさいなとか止めようかなと思ったことがないといえば嘘になるだろうが、今の私にはこのブログを閉じることは考えられない。そんなことをしたら、手持ち無沙汰で仕方なくなってしまう。「小人閑居して悪をなす」の譬えの如く、私に暇な時間があったところで碌なことにはならない。何もするあてのない時間ほど持て余すものはない。特別何かをしなくても時間に追い立てられていた方が、生きている実感がする。それを貧乏性と呼ぶなら呼べよ、と開き直って毎日を暮らして生きたい。そんな私には、このブログに割く時間が妙に心地よい。
ブログにかける時間はなにも文字を記す時間だけではない。ふっと思いついて写真を撮りに出かけたり、これはと思う本を読んでみる、そうした時間は何物にも代えがたい。ネタ探しに奔走しているわけでもないが、これを今日はブログの話題にしようと思いついた瞬間は幸せな気持ちになる。いざ書く段になって、下らぬ内容になってしまっても、自分なりにまとめることができたときにはまた幸せを味わえる。なんて安上がりな楽しみだろう。お金を使って楽しむよりもお金を使わずに楽しむ方が、充実感を味わえるのが最近分かってきた。ああ、今まで無駄に浪費してきたお金を返して欲しい、などと誰に向かうともない叫びをしたくなる。
私は以前書いた記事を読み返すことは滅多にしないのだが、一年目のコメント数の多さは尋常ではなかった。私の拙い記事を読むよりもコメントを読んだほうがずっと面白い。しかし、そうしたうねりとも呼ぶべき時期を越えて、落ち着いた気持ちで臨める現在のこのブログのたたずまいの方が本来の私には合っている。浅学非才な私の狭量からくる独断と偏見に満ちた文章を、見放すことなく付き合ってくださる方々とのここでの語らいは、私にとっては至宝であり、どんなにお礼を言っても足りないと、常に感謝している。一年前に実感した、多くの方々が私に寄せてくださるご厚情の有難さは、今でも私の心の支えとなっている。こういうことを書き出すと、ついつい大袈裟な言葉を使ってしまう悪癖がある私であるから、これ以上言葉を重ねないでおくが、本当に心から感謝している。
ゴジ健さん、竜虎の母さん、ボネットさん、師匠さん、ビーバーさん、ワールドさん、ウゴメクさん、みたぽんさん、ともやさん、ゆりかりさん、aiai-zooさん、さらにはいつもこのブログを訪れてくださる皆様、ありがとうございます。これからも我慢強くお付き合いください。
なお、ちょっとした記念にボネさんちから拝借してきた占い(Tシャツ占い)を載せておく。
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