じゅんむし日記

心は急いでいる。それなのに、何も思い通りの形にはなっていかない。がまんがまん。とにかく、今できることから始めよう。

「後世への最大遺物」内村鑑三

2013-12-02 | 
人気作家の最新刊を読んだけど…
なんか今ひとつ…^^;
それで今度は、ウチにある本棚の中から選んで読むことにしました。

 1946年第1版 1976年改版

右は、小学校の卒業式の日に(息子じゃなくワタシだよっ)、校長先生からプレゼントされたものです。
「今はちょっと難しいかもしれませんが、もうちょっと大きくなったら読んでくださいね」
というようなことを、その当時言われました。

で、大きくなってから読みました。
読んだのは20代後半になってからかな…大きくなりすぎていたかも…^^;はっはっはっ

しかし…
ナント!旧仮名遣いだったため、読みにくく…
でも、苦労しつつも読み終えることが出来たのは、おもしろかったから!

そして、再読しようと思ったときに、現代仮名遣いに改版された本を買い、今回再々読です。

日々の暮らしの心がけを大切にしていくこと、そうすれば、誰でも後世に遺物を残すことができる。
当たり前のようなことなのに、気付いていなかった…そんなことを教えてくれます。
これだけの説得力を持って、人々に感銘を与え続けているというのは、すごいことだと思います。

どんな説得力か…
これはワタシには説明できません。読んでもらえば、この説得力に圧倒されると思います。

才能ある人を羨ましく思ったり、目に見えて世の中に功績を残している人と比べて、自分を卑下しなくてもいいということを教えてくれます。
普通で取り柄がなくても、後世に遺物を残してあげることができる、として、
私たちに勇気を与えてくれる、存在を認めてもらえる、素晴らしい本だと思います。
短い講演録なので、何度も読み返したいです。

↓ 自分で勝手にまとめたものです。本を読んだほうが感銘受けますっ!

人には、名を残してこの世を去りたい、という欲望を持つ場合がある。
そして、少しでも世の中をよくして逝きたい、という思いを持つ場合がある。

人は、何を残して…何を置いて逝くのがいいのだろう。
一つは、お金。
これは、誰でもできるというものではない。富を一つに集めることのできるものは、これは非常に神の助けを受くる人でなければできない。
金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならない。

二つ目は、事業。
これも一部の人に与えられたものである。
神から受けた特別の天才が要るばかりではなく、また社会上の位地がいる。

三つ目は、思想を遺す。
著述をすること(文学)、学生を教えること、である。
もしも事業が遺せなかったとしても、思想を遺せば、将来にいたって事業をなすことにつながる。
しかし、これとて、誰でもが文学者になったからといって、あまり社会に益をなすものでもなく、誰にでもできるものでもない。

それならば、どうしたらよいか。
世の中を、失望でなく希望と信じ、悲嘆ではなく歓喜であるという考えを生涯として実行し、その生涯を世の中の贈り物としてこの世を去る。
その生涯は、けっして五十年や六十年の生涯ではなく、水のほとりに植えたる樹のように、だんだん芽を萌き枝を生じてゆくものである。

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「人間にとって成熟とは何か」曽野綾子

2013-11-09 | 


なんか、とても売れているということで、
久しぶりに曽野綾子さんの本を読んでみようと思いました。

20代の頃だったか、曽野さんの「絶望からの出発」を読んでとても感銘を受け、その時からのファンです。

私が何かの出来事に対して意見をもつ時、
これは自分の経験から学んだことから来ているのかな?
いやいや、曽野さんの本からの影響のせいかな?
と、わからなくなるくらい、曽野さんの考え方が私の中に浸透しているように思います。

今回の本も、90%は共感できて、10%は違う意見でした。

人生は、常に問題が続いていて当たり前だし、不足に思うことがあって当然…(^o^)丿そうそう

威張るという行為は、外界が語りかけて来るさまざまな本音をシャットアウトする。
謙虚に、一人の人として誰とでも付き合うと、誰もが私にとって貴重な知識を教えてくれる…
(^.^)なるほど

たくさんの「そうだそうだ」「なるほど~」があります。

また、体外受精、高齢出産を経て子供を授かった衆議院議員・野田聖子さんのお子さんにふれ、
障害、病気を持って生まれてきた子供に対して、国民健康保険の補助があるため、高額医療が受けられるのは当然としながらも、
やはりそこには、国民に医療費を負担してもらっていることへの、一抹の申し訳なさ、あるいは感謝があって然るべき
、と言っています。

本当にその通りだと思います。
付け加えさせてもらえば、
受けるほうは、感謝し、また逆の立場でも、(病気の子供がいることを思い、)我が子が高額医療をしないで済んだら、やはりそのことに感謝しなければいけないとも思います。

もうちょっと付け加えれば、
学業についても、
国公立高校、国公立の大学に進んだら、安くてよかった、だけではなくて、
国民の税金を使わせていただいていることに感謝したいですし、
年金も、
(国から賄われている部分があるにしても)
50歳、60歳と若くして亡くなってしまった人たちの積立があってこそ、長生きしている人たちへの年金が賄われる部分もあると、謙虚になるべきという気がします。

しかし、
批判を恐れず、有名人の名前をズバッと出して疑問を投げかけることが出来る、というのは、羨ましいですねー。

ものを言う時には、自分のことを棚に上げなければ言えない時もある、
と、ズバッと「言いきる」中にも、ご自身をきちんと見ているところもいいなと思います。

感謝しなきゃ感謝しなきゃ、と思うだけで、まだ自然に感謝の気持ちが出てこないワタクシです(..)

成熟した大人になることは、この先も無理かとも思うのですが、
情けない自分の心に、ビシッと喝を入れるためにも、読み返したい本です。

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「心」 姜尚中

2013-09-24 | 


話題の本だったこともあり、市立図書館から借りて読んでみました。
著者のご子息が、自ら命を絶ってしまったという悲しい出来事も、小説の中に組み込まれているとかで、その辺りも興味を持って読んでいきました。

表題から見てもわかるように、夏目漱石の「こころ」と重なるところは多いです。

・表題の「心」
・書簡形式
・親友の死
・一人の女性をめぐる親友への裏切り
(この本では、青年が裏切り行為をしてしまったのではないかと悩む)
など。

夏目漱石の「こころ」を読んで何回目かに、ふと、もしこの場面がこういうふうに変化していたら、
というような物語の膨らまし方をして、そして違う小説になった、というような感じを持ちました。

↑意味わかんないね^^;スミマセン、表現がヘタで。

小説は、大学の先生である姜先生と、青年との往復書簡の形式を取っています。
その中で、
人間の間には説明しえない親和力が働く、というのは、本当にそうだなぁと思います。
(ゲーテの小説「親和力」を引用しています)

小説の中の姜先生が、青年との対話の中で”あの子”に重ねる表現が各所にでてくるので、
いつ”あの子”が物語の中心になっていくのだろうと期待しながら読んだのですが、
あの子=息子のくだりは、少ししかありませんでした。

もう少しページが欲しかったです。
もっともっと内面をえぐりだしてくるのかと思っていました。
怖いけど、でも人間の本質みたいなものが浮き出てくるのではないかと、ドキドキしながら息子のくだりを読んだのですが…。

小説ではなく、エッセイとしてご子息のことを書いたほうがよかったのかな、とも思いました。
東日本大震災という、日本にとっても大きな災害が小説に組み込まれてもいて、青年との関わりはうまく表現できていると思いますが、
どうしても息子につながるところ…
”あの子”という表現で最初から意味を持たせていたのに、やはりご子息の記述が少ないなと思いました。

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「親鸞」五木寛之

2013-08-30 | 
2011年10月文庫本刊行

作者が五木寛之さんということもあり、ずっと気になっていた本ではありましたが、
「親鸞」というだけあって、何か難しそうでとっつきにくい…(^_^;)

それで、読み終えたのがこんな時期になってしまいましたが、
下巻を読み終えた瞬間、もう、すぐに次の「親鸞 激動編上下」を買いに走りたいくらいのおもしろさでした!

親鸞の幼少期の忠範(タダノリ)という名前から、
範宴(はんねん)→綽空(しゃくくう)→善信(ぜんしん)→親鸞(しんらん)と名前が変わっていく時期までの物語です。
とても読みやすく、あたかも自分がその時代に飛び込んだような錯覚さえおこります。

世俗の人と交わり、幼少期の九死に一生を得た衝撃的な事件から始まり、
9歳で比叡山に入り、
その後、苦行難業を終えても何にも到達することもなく苦悶し続ける…。

己の業と煩悩に情けなく思い、未熟さに呆然とし、己の過ちに後悔し、悩み続けていく…。

法然の門弟となり、
そして、名前を変えるごとに、人生の大きな山を越えていく姿は、人間として魅力的です。

さらに、周辺の個性的な人物もとても魅力的で、
たとえば、
下人(げにん)の生まれであるサヨ(昔の使用人)が、親鸞(この時は綽空と名乗る)のある行いについて、叱責し言い含めている…
親鸞といえば、それを聞きながら、息をしていないかのように全身をこわばらせ、うつむいて震えている…。
そんな話を盛り込むことで、とても親鸞を親しみやすくしています。

そんな情景を書くのは、ホントさすが!としか言いようがありません。
どんな事件やエピソードも、サスペンスのようにドキドキしながら読み進めていくことができます。
鬼気迫った、気迫の場面も、素晴らしい表現で惹きつけてくれます。

伝記、ではなく、小説、ですからね。
かなり飛躍した事件もありますが、それはそれでいいのでしょう。

そして、あまりよくわからなかった仏教に関しても、少しずつ少しずつわかっていきます。

浄土真宗の教え「一念義」
一度念仏を唱えればどんな人々でも救われる…の意味なども。

善とか悪とか、簡単に区別できるものではなく、すべての人は心に闇をかかえて生きている…。
だからそんな人々が救われる教えが必要なのですね。

ホント、少しずつ、少しずつ、ですけどね。
なんとなく、そうなんだなぁ、と。

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「ラジオのこちら側で」ピーター・バラカン

2013-02-24 | 


え?ラジオのどちら側?
表?側面?
ピーター・バラカンさんが長年DJをされていることを考えれば、意味わかるでしょうに( ̄ー ̄;)
(すみません)
一瞬、題名を読んでピンとこなかったのは、アタマの回転が悪くなった証拠。気をつけないと…^^;

ピーター・バラカンさん、好きでしたねぇ。
(って、失礼な言い方。今も活躍されてます。今ももちろん好きです)

でも、やはり「好きでした」(しみじみ)
今と昔では、(年齢ということもありますけど)ラジオに対する気持ちの入り方という点では格段に違いますもの。

バラカンさんの番組では、いい音楽との出会いがありました。
感性の高い10代の頃に聴けばよかったのに聴いてこなかった^^;いい曲を、20代に一気に聴かせてもらったという感じです。
まんべんなく網羅したのではなく、穴ぼこだらけの知識が入っているだけですけどね。
でも、私にとっては貴重です(^-^)

そうそう。番組はこんな題名だった!
「ロンドン発ピーターバラカン」(NHK-FM)

騒がしくない落ち着いたしゃべり方が好きでした。

そんなバラカンさんの本…
日本の企業に”就職”(1974年)してから今日までを、時系列に沿いながら綴っています。

バラカンさん自身に沿っていますが、
音楽史・ラジオ史がわかっておもしろいです。

音楽に対しての情熱がずーっと続いていてなんだか羨ましくもなってきます。

十分年齢は重ねているはずのワタクシですが(..)、
私にとって未知の音楽を語るバラカンさんに憧れ、未知の音楽をまだまだ聴いてみたい欲求が湧いてきます。
今注目のアーティストではなく、私が生まれる前とか幼少の頃の曲だったりするんです。

私の音楽に対するワクワク感…
たま~にライブに行ったりすると一時ワクワク感が戻るのですが、すぐに遠のいてしまう…。

でも、ラジオというものがあるのですよね!!
また音楽に対する情熱が…とまではいかないけど、
ちょっとしたワクワク感が復活しつつある予感です(^-^)

とても衝撃を受けた曲に対して、たしか「ぶっ飛んだ」という表現があったかと思いますが、
へぇ~バラカンさんの中にもそういう表現があったのね、と嬉しくなりました。

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