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はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

古代史の舞台を歩く(百舌鳥古墳群)

2015-05-13 22:51:04 | 古代史の舞台を歩く
小学生の頃、堺市の浜寺水練学校へ通っていました。阪和線が三国ヶ丘駅を過ぎると、やがて車窓に、こんもりした森が見えるのを楽しみにしていた思い出があります。「仁徳天皇陵」「前方後円墳」「日本で一番大きい」などの知識はありました。将来は「考古学者になる。」なんてことを思っていたようです。
それから50年、考古学者になる夢は成りませんでしたが、今は、ゆっくりと遺跡を訪ねたり、本を読んだりと、「考古学」を楽しむことが出来るようになりました。

さて、「仁徳天皇陵」ですが、本当に仁徳天皇が葬られているのでしょうか。仁徳天皇陵だと決められたのは、10世紀前半に編纂された『延喜式』にもとづいて、幕末から明治にかけて指定されたからです。その『延喜式』は、『古事記』や『日本書紀』にもとづいて書かれたのでしょう。『延喜式』が編纂されたのは、『記・紀』編纂から200年も経っているので、この時点であやしいところがあったのではないでしょうか。
埋葬者が誰なのかを探るには、古墳を詳しく調査するのが一番ですが、残念ながら天皇陵古墳への立ち入りは学術調査も含めて、宮内庁によって禁止されています。(天皇陵に治定されている他に、陵墓参考地というのが多数あり、要は天皇陵の治定が、あいまいなものである証と言うことでしょうが。)
従って、「仁徳天皇陵」という呼び方も、最近では「大山古墳」(だいせんこふん)というのが一般的になってきています。(他に、伝仁徳陵・百舌鳥耳原中陵・大仙古墳など)
 (大山古墳)
それでは、いったい誰が大山古墳に葬られているのでしょうか。大いなるロマンの世界に分け入ってみましょう。
第16代仁徳天皇陵(わかりやすく○○天皇陵を使います)のまわりには、第17代履中天皇陵、第18代反正天皇陵の「百舌鳥三陵」と呼ばれる古墳があります。三つの古墳が三天皇陵に治定された根拠は、『延喜式』によるのですが、それによると、最も規模の大きい「中陵」の仁徳陵が中央に、次に大きい「南陵」の履中陵がその南に、一番小さい「北陵」の反正陵が北にあるという位置関係で、それが今も生きているということなのです。
ところが、近年の考古学の進展(土器や埴輪から編年的な序列がたどれるようになってきました。)により、仁徳の息子の履中の墓(百舌鳥陵山古墳または石津ケ丘古墳)の方が古い古墳であることが明らかになってきました。息子のお墓の方が、親のお墓より古いってことは、おかしい話ですよね。
 (百舌鳥陵山古墳(履中陵))
もう一つ疑問に思われているのが、反正陵が、5世紀の大王の墓としては小さすぎるということです。さらに、反正天皇が在位した時期よりも新しい、6世紀の古墳とされています。
そう考えると、履中陵が仁徳天皇で、仁徳陵が履中天皇で、反正天皇のお墓は?ということになってきます。
そこで、もっと範囲を広げて、陵墓参考地の土師ニサンザイ古墳(日本で7番目の大きさ)も含めて考えてみようとする学者もいます。
中には、仁徳天皇は実在しなかったという説もあり、ますます混沌としてきます。

もう一つ、中国の歴史書『宋書倭国伝』に倭の五王の記述があることです。讃・珍・済・興・武の五王は誰なのか、武=第21代雄略天皇以外は議論の分かれるところです。いずれにしろ、百舌鳥古墳群にある大王のお墓と関係のある人物であると考えられています。

「百舌鳥三稜」だけでも、未だはっきりとした結論は出ていませんし、これからも研究は続くことでしょう。それが歴史ロマンなのです。
つづく。
 (今回の旅のパートナー)