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はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

古代史の舞台を歩く (平城宮跡)

2015-05-24 21:01:31 | 古代史の舞台を歩く
「710年(和銅3年)、藤原京から平城京に都が移されました。784年に長岡京に都が移るまでの75年間を奈良時代といいます。」って小学校の歴史で習いましたね。
平城京は、唐の長安をモデルに設計され、南北約5キロメートル、東西約6キロメートルに及ぶ大きな都でした。政治の中心となる平城宮<大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)のほか、天皇の住まいである内裏(だいり)などがある。>が、中央北端に造られました。
 (復原された第一次大極殿)
平城京への遷都の話は、文武天皇在世中の707年といわれています。文武天皇は、以前に「藤原京を歩く」で書いたように、おばあちゃんの持統天皇に大事に育てられた天皇です。ところがこの文武天皇も、お父さんの草壁皇子と同じように25歳の若さで亡くなってしまうのです。ちょうど、平城京への遷都の話が始まった頃です。
文武天皇の息子(後の聖武天皇)は、まだ7歳でした。急遽、文武のあとを継いだのが、文武の母で、天智の娘で、持統の妹で、草壁皇子のきさきであった(血統良すぎますね。)元明天皇です。
 (大極殿から南を望む 「天子南面す」)
708年に、その元明天皇により遷都の詔が出されました。710年に遷都された当時は、大極殿と内裏、その他の官舎が建っていた程度と考えられています。現在見ている景色と、あまり変わらないということですかね。

ところで、この平城京が75年間続いていたかというと、聖武天皇により、740年に恭仁京(くにきょう)へ、744年に難波京への遷都があったので、一時的に放棄された時期がありました。745年に再び遷都され、784年の長岡京遷都まで政治の中心であったようです。しかし、長岡京遷都のあとは、一部は、東大寺や興福寺など寺町として繁栄はしましたが、多くは農村風景となっていったようです。
 (朱雀門と近鉄電車)
朱雀門の前からは、当時の朱雀大路が大宮通りまで復原?されています。この道は、古代の官道である下ッ道につながっています。
 (朱雀門から続く朱雀大路)

平城宮跡には、近鉄電車の大和西大寺駅が便利です。そのまま電車で近鉄奈良駅に向かっても、線路が平城宮跡の中を通っているので、両側によく見えます。
平城宮は、2010年に「平城遷都1300年祭」ということで大きなイベントがありました。せんと君もマスコットキャラクターとして有名になりました。
さて、2枚目の写真ですが(大極殿から南を望む)、大極殿の前にいる人たちは太極拳をしているんです。なんか関係あるんでしょうかね?(つづく)