明日香にある牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)が復元され、一般公開が始まったので行ってきました。
古墳といえば山のように大きな前方後円墳を思いおこしますが、飛鳥時代の古墳終末期には大古墳は造られなくなります。
そんな飛鳥時代の古墳のひとつが、牽牛子塚古墳です。
復元された牽牛子塚古墳は、石張りで八角形をした古墳です。これまでの古墳のイメージとはかなり異なります。

牽牛子塚古墳を訪れるのは3回目になります。今回はきれいに整備された道を進んでいきます。

復元された牽牛子塚古墳はピラミッドのように見えます。

案内板にはあっさりと古墳の説明だけが書かれていました。被葬者のことにはあえて触れなかったのでしょうか。

墓室ですが、2室あるのがわかります。

この日は春分の日で、それなりに人が訪れていました。

古墳のまわりには明日香らしい長閑な景色が広がっています。

今回、一番興味があったのが、牽牛子塚古墳のすぐ下にある越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)でした。

こちらも古墳の説明だけが書かれていました。

立派な墓室です。

これだけではただの古墳見学ですが、せっかくなので歴史のロマンを語りましょう。まず、この古墳が八角形ということに意味があります。

飛鳥時代の天皇陵は八角墳が採用されていました。ということは、この古墳の被葬者は天皇の可能性が高いということです。

以前から研究者の間では、ここが斉明天皇(女帝)の真の墓ではないかと考えられてきました。(斉明天皇とは天智天皇の母親と言ったらわかりやすいでしょう。)

もう一つは越塚御門古墳の存在です。『日本書紀』に斉明天皇と(娘の)間人皇女を合葬(2つの墓室)した小市岡上陵とその陵前に(孫の)大田皇女を葬ったとあり、記述と一致するのです。
ここまで状況証拠がそろえば、この古墳の被葬者ははっきりしてきます。ここには、斉明天皇と娘と孫の3人の女性が眠っていたのでしょう。

下の写真は2018年9月にここを訪れた時の写真です。

整備前の墓室です。今回の整備は明日香村が主体となってされたようですが、頑張っている明日香村にエールを送りたいです。

多くの天皇陵は立ち入り禁止となっていますが、高槻市にある今城塚古墳や今回の牽牛子塚古墳は、古代天皇に会いに行ける古墳ですね。
※訪問日 2022.3.21
古墳といえば山のように大きな前方後円墳を思いおこしますが、飛鳥時代の古墳終末期には大古墳は造られなくなります。
そんな飛鳥時代の古墳のひとつが、牽牛子塚古墳です。
復元された牽牛子塚古墳は、石張りで八角形をした古墳です。これまでの古墳のイメージとはかなり異なります。

牽牛子塚古墳を訪れるのは3回目になります。今回はきれいに整備された道を進んでいきます。

復元された牽牛子塚古墳はピラミッドのように見えます。

案内板にはあっさりと古墳の説明だけが書かれていました。被葬者のことにはあえて触れなかったのでしょうか。

墓室ですが、2室あるのがわかります。

この日は春分の日で、それなりに人が訪れていました。

古墳のまわりには明日香らしい長閑な景色が広がっています。

今回、一番興味があったのが、牽牛子塚古墳のすぐ下にある越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)でした。

こちらも古墳の説明だけが書かれていました。

立派な墓室です。

これだけではただの古墳見学ですが、せっかくなので歴史のロマンを語りましょう。まず、この古墳が八角形ということに意味があります。

飛鳥時代の天皇陵は八角墳が採用されていました。ということは、この古墳の被葬者は天皇の可能性が高いということです。

以前から研究者の間では、ここが斉明天皇(女帝)の真の墓ではないかと考えられてきました。(斉明天皇とは天智天皇の母親と言ったらわかりやすいでしょう。)

もう一つは越塚御門古墳の存在です。『日本書紀』に斉明天皇と(娘の)間人皇女を合葬(2つの墓室)した小市岡上陵とその陵前に(孫の)大田皇女を葬ったとあり、記述と一致するのです。
ここまで状況証拠がそろえば、この古墳の被葬者ははっきりしてきます。ここには、斉明天皇と娘と孫の3人の女性が眠っていたのでしょう。

下の写真は2018年9月にここを訪れた時の写真です。

整備前の墓室です。今回の整備は明日香村が主体となってされたようですが、頑張っている明日香村にエールを送りたいです。

多くの天皇陵は立ち入り禁止となっていますが、高槻市にある今城塚古墳や今回の牽牛子塚古墳は、古代天皇に会いに行ける古墳ですね。
※訪問日 2022.3.21