はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

母の左手

2012-04-20 19:27:45 | 女の気持ち/男の気持ち
 母が亡くなったのは昨年の桜の花が真っ盛りの晴れた日。107歳と5ヵ月の寿命を立派に全うしての大往生だった。
 昭和19年、私が4歳になった時に父は南洋で戦死した。寡婦となった母は、担ぎ屋、病人の付き添い、作業員宿舎の炊事婦などをして、朝から晩まで働き、私を育ててくれた。
 晩年の母はよく「この手はゆ(よく)働いた手やっど」と言って、しみじみと手を眺めていた。その左手のひらは、少し内側にくぼんで引きつっていた。
 あれは私が小学3年生の時のこと。道の普請に出た母の左手に石の破片が刺さり、そこから菌が入ってグローブのように腫れた。きっと病院へ行くお金がなくてぐずぐずしていたのだ。土砂降りの雨の夜、叔父がリヤカーに乗せて病院へ連れて行ってくれた。麻酔無しだったのか、手術台の母の足を押さえていたのを覚えている。先生が手のひらにメスを入れると、うみが天井まで飛んだ。
 翌日、登校の途中で私は引き返し、母のそばを離れなかった。幼いながら母が死んだら自分も死のうと思いつめていた。この時が私たち母子の一番のどん底時代だった。
 後にこの時の1日の欠席で、小学6年間の皆勤賞をもらえなかった。
 母の苦労を見て育った私は、母を大切にしなければと思って生きてきた。でも、いつも支えられていたのは私の方だった。
  鹿児島県霧島市 秋峯いくよ 2012/4/3 の気持ち欄掲載

腫瘍とハープ

2012-03-05 18:42:08 | 女の気持ち/男の気持ち
 40歳前後から視力が衰え始めた。あちこちの眼科を受診したが原因が分からず、脳外科でMRIを撮ったら大きな腫瘍がみつかった。
 手術室に入ったのは46歳最後の日の朝。47歳最初の日は集中治療室で迎えた。
 腫瘍ができてから10年以上もたっていたそうで、癒着がひどいため温存手術になった。残った腫瘍がまたいつ大きくなりだすかという不安にさいなまれた。退院後も一向に元気になれず、引きこもり、捨て鉢な気持でただ生きているだけだった。
 見かねた母が「何か新しいことを始めるといいかも。ハープなんかどう?」と勧めてくれたのがきっかけで、姪と一緒にハープを習い始めた。
 天使の声のように清らかでやさしい音色のハープは、干上がって固まりかけていた私の心を徐々にほぐし、生き生きとした気分にしてくれた。私が飽きてやめてしまわないようにと、母は姪にもハープを勧めたらしい。その心遣いに気づいて涙がたくさん出た。
 私は今も楽しむ程度にしか弾けないが、姪は上手になり、多くのコンサートに出演して活躍するようになった。
 「もしあなたが病気しなかったら、S子がハープを弾くことはなかったろうね」と母がしみじみと言う。
 姪も「おばちゃんのおかげ。ありがとう」と言ってくれる。
  鹿児島市 馬渡浩子 2012/3/5 毎日新聞の気持欄掲載

荒尾競馬

2011-12-30 22:34:16 | 女の気持ち/男の気持ち
 騎手をしていた2人の弟がライバルとして競い合った荒尾競馬場が、23日のレースを最後に廃止されるという。
 熊本県荒尾市の競馬場は、私が子供の頃は、九州各地から集まった多くのファンで熱気にあふれていた。
 競走馬の美しい毛並みや足の速さ、馬力に感動し、騎手の手綱さばきに見とれたものだ。かっこいい騎手は、当時の少年の憧れであり、スターであった。
 馬券を買った人はレースが始まるとボルテージが上がる。目当ての馬を懸命に声援する大人をおもしろがって見ていた我ら少年団。レースが終わると、外れ馬券や予想紙が散乱していて、掃除のおばさんに同情した。競馬がない時は、友だちと馬場で競争した。砂地の長いコースにへばると、柵内にある農地で作業するおじさんが「きつかったか。これでも食って元気を出せ」と、もぎたてのトマトやキュウリをくれた。新鮮な野菜の味や香りは今も忘れない。
 競馬場に近い土地を離れて半世紀過ぎた。97年には三池炭坑が閉山した。今また競馬場が閉じられると、荒尾の二大シンボルが消えたことになる。地元の人だけでなく、よそで暮らす出身者も寂しい。
 1年前、母の死をきっかけに本籍地を荒尾から出水市に移した。思い出多い競馬場に、馬のモニュメントができれば、と思う。
  鹿児島県出水市 清田文雄 2011/12/23 毎日新聞の気持ち欄掲載

モモとクレ

2011-11-30 22:28:55 | 女の気持ち/男の気持ち
 猫が2匹いる。雌のモモ2歳と雄のクレ4歳。2匹は生まれて間もなく、それぞれ浅草寺に捨てられていたのを娘に拾われ、マンションの一室でずっと生活していた。娘の転勤先に連れて行けず、昨年12月に東京から出水へ飛行機で送られてきたのだ。
 空港の貨物室へ迎えに行くと、針金ケースの中で2匹は固まっていた。帰路の90分間、妻は2匹に語り続け、安心させようと努力した。
 2匹が入る旧子供部屋には東京で使用していたトイレが設置してあった。しかし、物陰に隠れるとその日は姿を見せなかった。
 翌日、見ると餌を食べ、トイレを使っている。そのうち必ず慣れるさと楽観していたが、10日たっても全く姿を見せない。東京からの場所の移動だけでなく、捨てられて刻み込まれた人間への不信があるのだろうか。旅先で出会ったイスラムの国の人なつっこい野良猫たちと思い比べて、私たちは胸を痛めた。
 96歳の祖母の危篤で娘が帰省し、20日ぶりの対面。
 「ばあちゃんが合わせてくれたね」
 なんと2匹はいつの間にか娘の布団の中にいた。
 葬式が終わり、娘は再び上京した。2匹の態度は一変した。呼べば近づいてきた。
 今、モモは庭の虫たちの研究に余念がない。木登り名人のクレは野鳥を捕らえては見せに来る。それぞれにしっかりと世界ができたようだ。
  出水市 中島征士 2011/11/30 の気持ち欄掲載

だから困る

2011-11-09 14:29:50 | 女の気持ち/男の気持ち


 生協のカタログにあった植物の特集。
これこれ、早春の玄関を大きな植木鉢一杯の桃色の八重咲きチューリップで飾りたい。
 注文した球根が届いたのは9月半ば。
植えるには早いので球根は保管し、
植木鉢に新しい土と肥料を入れてなじむまで置いておくことにした。
 10月になって球根を手に庭に行くと、
さらさらした土の上に、なんと、
でっかいアリジゴクの巣のようなすり鉢状の穴が無数に開いているではないか。
この大きさ、この形……。しばらく考えて出した答えは、スズメ。
このごろ朝な夕な団体でやってきてはジュクジュクさえずり合うようになった。
あんたたちがここで砂浴びをしてたってこと? 
 うーん、どうしよう。
 試しに砂を平らにならしておき、出かける度に植木鉢をみる。
毎回律儀にボコボコ穴が開いているのが楽しい。
球根に悪い、悪いと思いながら気付けばもう11月だ。
 どっちにも良い顔をしたい優柔不断な私に腹が立つ。
振り返れば、情にほだされて時期を逸することばかりしてきた。
この年まで何を学んできたのだ。
このままずるずるしていたらまともな花は咲かないぞ。
思い出すのだ、過去の数々の失敗を。
 スズメたちよお願いだ、よそにいってくれ。
ごめんね球根たち、私を許して。思いは乱れ悶々とする。
でも実をいうと、私はこんな気弱な自分が嫌いではない。
だから困る。
  北九州市 村上明季音 2011/11/9 毎日新聞の気持ち欄掲載

人生の交差

2011-11-09 14:15:51 | 女の気持ち/男の気持ち
 思いがけないはがきを受け取った。「人違いだったらごめんなさい」し書き出されたそれには、私の級友の消息が記されていた。
 差出人は私の高校の2年先輩で、この春リタイアされて北海道から故郷の阿久根市に戻ってこられたという。北海道埋蔵文化財センターに勤務されていて、そこで部下だった私の級友から私の名を聞いていた。地元の図書館に行った時、何気なく手に取った「文芸いずみ」という出水市民の文芸作品集に私の名をみつけ、もしやと思ってはがきをくださったという。
 旧友とは中学時代からのペンフレンドだ。短大2年の時、大きなリュックサックを背負って北海道を一周した際には、千歳市の彼女の家に泊めてもらった。北大の学生だった彼女に札幌の街も案内してもらった。しかし卒業後はすっかり疎遠になっていた。
 10年ほど前、息子の北大受験に同行したとき、彼女はここで学生時代を送ったのだと久しぶりに懐かしく思い出したが、もう私たちの人生が交差することはないだろうと思っていた。
 生きていれば何が起こるか分からない。生きていて良かった。ここ半年、体調不良で鬱々とした日々を送っていた私は、心底うれしかった。
 彼女は今、遺跡の発掘で大忙しという。暇な私は「返信はいらないから手紙を書かせてね」と、早速メールを送った。
  出水市 清水昌子 2011/11/8 の気持ち欄掲載

おじゃったもんせ

2011-09-24 20:31:56 | 女の気持ち/男の気持ち
 鹿児島の人とご縁があって一緒になった。
 先日、その夫の姉の葬儀があった。新幹線で鹿児島中央駅に着くと、広々と明るい構内に「おじゃったもんせ」と朱書きで大きく書かれた横断幕がかかっていた。その上に墨字で「いらっしゃいませ」と添えられている。
 ああ、この言葉、何度聞いたことだろう。帰省のたびに出迎えてくれる姉妹たちの口から発せられるその優しい響き。「これを聞くと、ああふるさとに帰ってきたんだなあとほっとする」と言っていた夫ももういない。
 中央駅から日豊本線に乗り継ぎ東洋のナポリとも言われた桜島と錦江湾を右に見ながら、今日は一人の帰省旅である。
 帖佐駅には甥が迎えに来てくれていて、姉の葬儀へ。「この姉には独身時代ことのほか世話になり、面倒を見てもらった。病気で心配もかけた」と夫が言っていたので、私が元気なうちに姉を見送る務めを果たすことができて、ほっとしている。
 歳月は流れ、甥たち姪たちもおじさんおばさんになっているが、その優しいこと。私が高齢だから気遣ってくれているのかもしれないが、鹿児島の人たちはみんな優しい。姉も90までいきたのだから心残りはないだろう。
 中央駅の「おじゃったもんせ」は、旅人を優しく迎える最高のもてなしだと思う。
 ありがとうございました。
  熊本市 酒匂禮子 2011/9/20 毎日新聞の気持ち欄掲載

ラジオ体操

2011-08-30 13:51:14 | 女の気持ち/男の気持ち
 6年前に定年退職した夫は朝のラジオ体操を家の中でするのを日課としている。ある朝、床を指さしてのたまった。
 「ラジオ体操は身体全体に良かで、わいも俺の後ろでよう見て、ここでせい」
 絵に描いたような頑固者の夫。指先まできれいにそろえて気をつけの姿勢の夫の後ろに立ち、短い足の後ろ姿をまじまじと見て、2人でラジオを聞いた。
 「両手を肩に置いて、大きく肩を回しましょう」
 軽快な声とピアノ。すると夫は両手に肩に置いたまま、ぎこちなく上体を回し始めた。思わず噴き出してしまった。夫の前に行き、「こうだよ」と肩を回すと、「そうか」とばつの悪い顔。
 ラジオ体操第一が終わり、第二へ。途中、どうにもピアノと合わないところがある。すると夫は、早送り状態で合わせた。私は笑いを必死にこらえた。確かに夫の言う通り、身体全体、おなかの皮まで痛くなるほど運動できた。
 38年間、良くも悪くも夫の背中で生きてきた。たびたび途中下車しそうになりながらも時は流れ、気が付けば3人の子と5人の孫たちとの穏やかな老後の生活があった。
 3月の大震災では、人の究極の幸せは平凡な日常であると、改めて誰もが思い知らされた。住む家があり、家族がいて、こまやかな生活がある。その最高の幸せを大切にしたいと私もまた思いを新たにした。
  出水市 塩田きぬ子 2011/8/21  毎日新聞の気持ち欄掲載

赤い半月

2011-08-13 06:33:43 | 女の気持ち/男の気持ち


 私が9歳の時のこと。夏休みになると熊本県水俣市袋の祖父母宅へ何回も行って泊まった。蒸気機関車で鹿児島県の米之津駅から隣の袋駅まで行った。冷水が飲める駅前の井戸端を通り、桜並木を歩くとすぐに祖父母の家に着いた。クマゼミが激しく鳴いていたものだ。
 掘っ立て小屋のような家の土間に立つと、すぐ前にいろりを切った板間があった。一段高い右手には仏壇があり、壁には戦死した息子2人の軍服姿の写真があった。半裸の祖父の右肩には日露戦争で受けた銃弾の傷跡が見えた。明治天皇からいただいたという勲章も見たことがある。
 祖父母は戦死した息子の年金とわずかな借地の農業で生計を立てていた。夏期にスイカを作り、水俣の市場まで担いで出荷した。商品にならないスイカをもらって帰るのが、小学生の私の任務だった。
 風呂敷に4個も包むと重いものだった。米之津駅から家までの3㌔を、割らないように歩かねばならない。が、苦にはならなかった。私は家族の喜びを運んでいたからだ。
 祖父母の家に泊まると、翌朝、夜明け前に祖父はスイカ畑へ私を連れて行った。朝露にぬれたスイカを左利きの祖父は巧みな鎌さばきで割った。冷えたスイカは腹の底の底まで染みわたったものだ。
 今年もまたクマゼミの声を聞く。そしてスーパーで赤い半月のようなスイカを見る。たまらなく切なくなる。
  出水市 中島征士 2011/7/30 毎日新聞の気持欄掲載

小さな命に

2011-07-27 11:55:22 | 女の気持ち/男の気持ち
 「車にはねられたら可哀そうだから、畑のくさむらに置きました」
 知り合いの男子高校生が声をかけてきた。電線から落下して動けなくなったスズメらしい。急いで行ってみると、まだくちばしの黄色い子スズメであった。巣立ちに失敗したのだろうか。触っても逃げようともしない。手のひらに乗せると私の指を爪でしっかりつかみ、安心しきった様子で目をうとうとさせている。それは母の胸ですやすや眠っている赤ん坊のようで、思わず母性本能をくすぐられた。
 天敵に襲われたら大変と、我が家の庭に連れて帰り、茂みに放った。うずくまったまま元気がない。夫が米を与えてみるが、食べる気配もない。私はご飯粒と水を持っていく。
 それが2日目、2.3歩よたよたと歩けるようになった。夜はパッキンケースに入れ、勝手口の土間に置く。夫と代わる代わる様子を見に行くと、なんと可愛い寝姿。首を後ろに回し、背の羽の中に突っ込んで丸い塊となり、決して鳥と分からない姿で立って眠っている。一首の擬態のようなものだろうか。
 3日目の朝であった。箱は空っぽ。辺りを捜すと勝手口の網戸の一番上に止まっていた。戸を開けた途端、元気よく空に飛び立って行った。
 その日の午後、お礼に来たのか、前の電線に親子らしいスズメが2羽。心優しい高校生の彼に朗報が伝えられる。
  山口県光市 初田照子 2011/7/27 毎日新聞の気持ち欄掲載

自身をもらって

2011-07-26 11:42:09 | 女の気持ち/男の気持ち
 6月3日深夜、新宿から被災地へ向かうボランティアツアーのバスに乗り込んだ。
 大丈夫かな?
 不安を抱えての出発。参加者は21~64歳の男女半々の42人。殆どの人が1人での参加だった。
 4日早朝に入った岩手県は緑が美しく藤の花がきれいに咲いていた。しかし陸前高田市に入った途端、景色が一変し、現実の世界とは思えない光景に息をのむ。動揺したまま活動地の田んぼに着いた。
 田んぼには畳やコンクリートの塊など想像を超える物が散乱している。ぬかるむ田んぼに足を踏み入れてがれき撤去の作業が始まった。
 ひ弱そうに見える若者たちが、顔をまっかにしながら力を合わせて重い物を運び出している。若い女性も泥だらけになりながら、懸命に働いている。若い人たちのたくましい姿を見ていると、日本は大丈夫と、明るい光が見えた思いだった。
 1人として力を抜くことなく黙々と、時には声を合わせながら作業を続ける。見ず知らずの42人が、同じ思いのもとでがっちり心が一つになった。
 私は、陸前高田市と大槌町の被災地から、人間のすばらしさを教えてもらい、生きる自信をもらった。
 被災地の方々が1日も早く心から笑える日が来るよう祈りながら、自分なりにできることをやっていきたい。
  中種子町 西田光子 2011/7/18 毎日新聞の気持ち欄掲載

かっこいい

2011-07-03 17:36:59 | 女の気持ち/男の気持ち
 義父、義母、実母と続いた長い介護生活から解放され、ほっとしたのもつかの間、彼が体調を崩してしまった。誰よりも仕事大好き。誰にも負けない筋金入りの頑固そのものの彼が。
 「後継者もいないし、おまえも年金をもらうようになったし、仕事をやめるか」とポツリと漏らす彼。やめられるはずがないと思いつつ「そらよかが。たんと働いたから、ゆっくりすっが」と私。
 でも朝の日課だった漁模様を知らせるテレホンサービスを聞いている。水産加工業という仕事には必須の情報なのだ。心が揺れ動いているのが手に取るように分かり、胸が痛んだ。
 ところがその夜、彼はあれよあれよと計画を実行し、今では太りたい彼と痩せたい私が、季節を感じながら散歩するのが日課となっている。
 彼か家業を継ぐと言ったのは25歳の時。義父はまだ50代で現役バリバリだったるなのにすべてを彼に譲ってくれたのだ。それから失敗もたくさんしたのに、義父は黙ってそれを後ろから支えてくれた。かっこよかったなあ。
 それとは少し違うけれど、老後に余裕を持って引退してくれた彼。やっぱりかっこいいと思う。
 ずっと仕事が趣味だった彼は、まだ次の楽しみを見つけていないようだ。でも、私は次の楽しみをみつけて泳ぎだした。
 お疲れ様。ありがとう。
  阿久根市 的場豊子 2011/7/3 毎日新聞 の気持欄掲載

私の語学教育法

2011-06-18 21:20:25 | 女の気持ち/男の気持ち
 「あなたの好きな当地の方言は?」。地元のタウン誌の募集に、「しけぇ」という言葉を投稿していたのをすっかり忘れていた。そして、時たま通う施療院で備え付けの冊子をめくっていて、偶然自分の文を発見した。
 《「しけぇ」=「困ったなア。参った。弱った。どうしよう」などの意で用いる。「しけバイ」とも。「時化」が語源だろうか》
 これに気を良くした私。県外に住む長女宅で4歳の孫娘と遊ぶときに、わざと多用して伝授しようと策を巡らした。こういうワルには努力を惜しまないじいじなのだ。
 作戦は見事に成功。孫は「しけぇ」を使うようになった。
 しめしめと思っていると、孫から電話が。
 「あのね、じいじ、あれは悪いコトバだから使っちゃダメだって」
 母親から禁句令が発せられたらしい。
 ところが、だ。後日再び長女宅を訪ねた時のこと。1歳半になる2番目の孫娘が、ひょいと発声したのだ。
 「しけぇ」
 これには一同驚いた。一番感激したのはほかならぬ母親の長女。なにせ「ママ」も「パパ」もまだ満足に発音できないのだから。姉ちゃんとじいじのやりとりを横でしっかり聞いて、学習していたのだ。
 かくして私の孫への語学教育法は公認され、次なるステップへの橋頭堡を築いたのである。
  長崎県佐世保市 大石敏夫 2011/6/17 毎日新聞の気持ち欄掲載

赤ちゃんが来た

2011-06-07 15:59:22 | 女の気持ち/男の気持ち
 夫婦2人暮らしのわが家に赤ちゃんがやってきた。娘が長女を出産し、里帰りしているのだ。愛犬中心の生活が一変し、にぎやかになった。
 赤ちゃんが目を開けて一生懸命に何かを見つめる顔、オッパイを無心に飲む姿、気持ちよさそうにお湯につかっている姿、愛らしい寝顔……。いくら見ても飽きない。
 それにしても昼夜かまわずよく泣く。小さな体全体の力を振り絞り、涙を流して訴える。ところがどんなに激しく泣いていても抱くとピタッと泣きやむのがかわいい。
 犬は突然の同居人にかなりまごついた様子だった。1日目、こわごわと赤ちゃんをのぞきクンクン匂いを嗅いでいた。その時、「オフ!」と一喝され、それからは立場をわきまえ、ほどよい距離感を保って眺めている。
 今まで私たちに子か孫のように扱われていたのに、その座を譲っておとなしくしている。赤ちゃんを囲んで一喜一憂する私たちを、一歩離れて見ている姿がいじらしい。「自分の家だからそんなに遠慮しなくていいのよ」と声をかけたくなるほどだ。赤ちゃんと犬がこんなにもスムーズに同居できるなんて。赤ちゃんと遊ぶ日も近いかもしれない。
 日曜日、母を訪ねて、ひいおばあちゃんと赤ちゃんの初顔合わせが実現し、念願の女性4世代の記念写真1枚目も撮ることもできた。それから4人そろった写真を撮り続けていきたい。
  北九州市八幡東区 村上嘉代子 2011/6/4 毎日新聞の気持ち欄掲載

母のぬくもり

2011-05-31 09:55:50 | 女の気持ち/男の気持ち
 終生、母の形見を手放さずにいた兄の突然の死によって、母の遺稿である短歌集が図らずも今、私の手中にある。背表紙も紙面もセピア色に変色し、私は読むより先に本の補修を余儀なくされた。
 「しほなり」と題された遺稿は母の死後、同人の方たちの強い要望とご協力により、昭和8年に刊行されている。母を知る友人たちの追悼文や序文などで幻の母の輪郭がおぼろげにも浮かび上がってくる。生みの母の何一つ知らぬ私にとって、この遺稿は母を知るすべてでもある。
 父との結婚生活はわずか3年足らず。その生活ぶりをうかがい知る歌2種が目に留まる。
 《新世帯何はなくともふたりしてこの正月を迎うたのしさ》
 《青ただみこのすがしさはやりくりの金の工面を忘れさせたる》
 貧しくとも幸せだった心情が伝わってくる。兄と私は年子で、病弱だった母は私を運だ後、体調を崩して亡くなった。病床にあって私たちを案ずる母としての思いを詠んだ歌は何種となく見られる。
 《きれぎれの命の際もかみしめて忘れはせぬぞ子はふたりなり》
 《買えやらん雛も衣装もこの母はくすりの代にするというなり》
 この時の母の思いのすべてが、優しく温かく78年の歳月を経て、しみじみと伝わって来る。
  北九州市八幡西区 城内桂子 毎日新聞の気持ち欄掲載