はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

わずか1年で

2011-05-29 19:12:44 | 女の気持ち/男の気持ち
 ボランティア活動を通じて知りあった「ひきこもり支援センター」の代表者から、ラーメン屋で働きたいという20代の若者を預かってほしいとの依頼があった。
 その彼は小学3年から不登校になり、中学もまったく通わず、インターネットの世界で生きてきたと言う。
 本人、父親、代表者、私の4人で面談した。青い顔にか細い肩と小さな手。質問にも下を向いたまま小声でボソボソと話し、体も心もあまりにも華奢で「ガラス細工」でできたような青年だった。
 週3日、3時間の見習いから始めることにしたが、絶対に続かないと思った。
 家内とパートさん4人に事情を話した。不安の声も上がったが、しからない、無理をさせない、褒めて自信を持たせる、ことを確認し合った。
 ラーメン屋の仕事はハードだ。体調不良でしばしば休んだが、辞めるとは言わなかった。半年が過ぎ、ウエーターと皿洗いができるようになったのを機に、わずかだが小遣いを手渡すことにした。
 思いがけない変化が起きた。自分の存在が認められた。戦力になれたとの自覚が生まれたのか、休まず明るく積極的になったのである。
 丸一年を迎えた朝、尋ねた。
 「店は楽しいか」
 「はい、楽しいです。僕はお店が大好きです」
 大きく力強い声だった。
 たった1年で……。胸が熱くなった。
  北九州市戸畑区 ラーメン店店主 長浜 寛治 2011/5/28 毎日新聞の気持ち欄掲載

男ありけり

2011-05-23 20:08:43 | 女の気持ち/男の気持ち
 深夜、テレビでやっていた追悼・木村栄文の世界「むかし男ありけり」を見る。3月22日に亡くなったRKB毎日放送の木村栄文氏がディレクターを務めたドキュメンタリー番組である。
 晩年の一時期をポルトガル・サンタクルスで過ごした最後の「無頼派」檀一雄。俳優、高倉健がサンタクルスを訪ね、壇の足跡をたどる。
 私には、父と同世代の檀一雄という作家に、異常なくらい強い思い入れがある。壇の誕生日がたまたま私と同じこともあるが、なにより、壇文学を深く読めば読むほど、壇の「孤独」が私の心をとらえて放さないのだ。
 私は、できる限りの壇の情報を集めた。生前の壇を知る、文化人にも会いに行った。結果、私が知るに至ったのは、壇が極めて礼儀正しい「常識人」であったことである。
 「火宅の人」を読む限り、壇は「破滅型文士」の代表選手としか思えない。しかし実際の壇はどうやら「火宅の人」の桂一雄とは正反対の、誠実な「常識人」であったようなのだ。
 未明、感動を残して番組は終わった。
 やはり檀一雄はいい。「天然の旅情」に誘われるまま、世界各地を旅した壇に、男として嫉妬すら感じる。そしてそんな壇を、ここまで叙情的に表現してくれた、木村栄文氏に感謝したい。
 「花逢忌」も近い。また壇に逢える。
  福岡県 嘉朝市 道根 馨 2011/5/17 毎日新聞 の気持ち欄掲載

甘えているのかも

2011-05-23 19:42:57 | 女の気持ち/男の気持ち
 「お母さん、あなたの娘よ。今そばに居るよ」
 目を閉じた母の頬に自分の頬を寄せ、耳元で何度も呼びかける。
まぶたがかすかに動き、薄く目を開け、口元が少し動く。
 あっ、意識が動いてる。
 「分かる? 私よ、宣子よ」 
 そう呼びかけると「ワ・カ・ル・ヨ」と。
 まだ植物人間ではない。そう思うとうれしさがこみ上げてくる。
 病室にいて、やせ細って小さくなった母に私がしてあげられることは、温かいタオルで顔をふき、体をさすってあげることくらい。頭や顔をゆっくりなでていると、母がまるで子どものように思えてくる。 
 が次の瞬間、本当は自分が母に甘えているのだと気づく。
 戦後の引き揚げだった我が家で、母は4人の子どもを育てるためにどれだけ心を砕き、働いたことだろう。当然のことながら、子どもをゆっくり抱き、十分に甘えさせる時間などなかった。
 当時3歳だった私は今、その時間を取り戻すかのように母に身を寄せ、体をさすり、頬をつけているのではないだろうか。そう思ったら、急に涙があふれて止まらなくなった。
 私は介護に来てるんじゃなくて、甘えにきてるんだね。お母さん。
 甘えさせてくれてありがとう。
  山口県下関市 千葉宣子 2011/5/20 毎日新聞の気持ち欄掲載

娘とわたし

2011-05-05 15:17:57 | 女の気持ち/男の気持ち
 「むちゃだいすき」と抱きしめると、「アアちゃんダイスキ」とほっぺをくっつけてきた。中学生になると背丈が伸び、わたしを見おろして口答えした。こんな娘があれよあれよというまに医療技術短大を経て看護師になって10年がたつ。
 医療の世界も日進月歩。患者さんと向き合うかたわら勉強が欠かせない。夜勤もある。泊まりがけで帰ってくるのは年に1,2回だ。命を預かる大切な仕事に励んでいると思っているので不満はない。
 娘が帰れないならバス、船、バスを乗りついで会いに行くと電話したら、出張、夜勤と続き、時間が取れないと言う。あきらめた。3週間ぶりに救助された犬の話に移ったところで娘の声が明るくなる。ワンニャン好きの娘のうれしそうな顔が見える。
 「お祈り忘れずに。体大事に」と受話器を置きかけると「近いうち東日本大震災の被災地へ応援に行ってくるね」と言うではないか。会えない寂しさが吹っ飛んだ。
 被災された方々を思い、毎日祈っている。日常を奪われた方々を励ましたい思いがつのり詩を書く。義援金を振り込む。ほかにできることはないかと考え続けていたところだった。「あなた、心を尽くして母さんの分まで御世話してきてね」と思いを託した。
 いま、この先長い年月、苦難に立ち向かわなければならない方々に寄り添い、復興を願って祈り続けようと誓う。
  鹿児島県鹿屋市 伊地知咲子 2011/5/5 毎日新聞の気持ち欄掲載

教えられました

2011-05-03 13:30:38 | 女の気持ち/男の気持ち
 昨年10月、スイスに住む娘が次男を出産しました。赤ちゃんが6カ月を過ぎた頃に帰国するとのことだったので、お祝いはその折にでもとそのままになっていました。
 ところが先日、スイス人の娘婿から「お祝いは大地震で被災された方たちのために役立ててほしい」と、娘を通じて連絡がありました。
 すでに彼は震災直後にスイスの赤十字社を経由して個人的に寄付をしていたので、さらなる今回の申し出は驚きでした。
 同じ日本に住みながら、直接被害をうけなかったがために、ややもするとこと未曾有の大災害を遠目で見がちな私たち。そんな自分を省みつつ、改めて助け合うこと、困難に遭った人を思いやる精神の大切さを教えられたような気がします。
 長い間に身にこびりついた島国根性のかたまりのような生き方を改めねばとの思いです。
 近々予定していた一家4人での帰国は、万が一でも放射能汚染の影響が幼子に及んではという懸念から、残念ながら延期になるようです。
 けれど近い将来、日本が元気で美しい国に復活したら必ず会えると信じて、楽しみに待つことにしました。
 国の内外を問わず大勢の人々の応援と思いを受け、一日も早い復興と、孫のすこやかな成長を願いながら、義援金を送らせていただくつもりです。
  北九州市 森田希和子 2011/5/2 毎日新聞の気持ち欄掲載

背中を押した春

2011-05-03 13:13:48 | 女の気持ち/男の気持ち
 今年でもう30年にもなる。
 「ダメヤッタ」と、高校の合格発表を見てきた息子が言った。万が一の望みを絶たれた息子に「どうする?」と問うと「予備校に行く」という。
 慌てて電話帳をめくり、黒崎の大学受験校に電話した。中学生はテストの結果で受け入れるので明日がテストの日ですと言われ、即申し込んだ。
 結果の報告に学校へ行くという息子を、私の前に座らせて、母親としての思いを話した。落ちたことはつらいし、悲しいし、少しは恥ずかしい気持ちもあると思う。でも、世間様に後ろ指をさされるようなことをしたわけではないのだから、ご近所の方には今まで通りに、元気にきちんとあいさつすることを約束してほしい。私も今までと同じ元気母さんでいるからと。そうすることで私自身の背中を「強くあれ」と押したのだ。
 学校から戻ってきた息子の顔は、すっきりしていた。先生に予備校のテストのことを伝え、友達とも話ができてよかったと話してくれた。
 息子と2人、予備校の玄関に立った日のことを、春がくるたびに思い出し、胸の奥が痛くなる。
  福岡県飯塚市 村瀬朱美 2011/4/29 毎日新聞の気持ち欄掲載

カミさんは神様

2011-04-23 21:32:38 | 女の気持ち/男の気持ち
 「昨夜はよく眠れた?」
 朝食がすんでパソコンの受信メッセージを検索している時、カミさんが声をかけてきた。ここのところ2人とも寝つきが悪く、午前2時、3時になってもあっへゴロゴロこっちへゴロゴロと寝返りを打っている老夫婦なのである。午前2時、3時といっても別に驚くにはあたらない。というのも寝床に入るのが午前1時ごろだから。チャンネル権を握るカミさんの見たいテレビ番組の放送時間が遅いため、寝るのが遅くなってしまうのである。そして起床は午前9時前後。
 「そういえば、昨夜は珍しくよく眠れたなあ。トイレにも2度しか起きなかったし」
そう答えて私はパソコンに向き直った。私としては一応カミさんの質問に答えたし、そこで話は済んだと考えたのであるが、カミさんはまだ私の顔を見つめており、何か言いたそうな様子をしている。その視線に気がついて、カミさんに向きを戻した。
 「だからさあ、アタシはどうだったのって聞こうよ」 
 そこで私は「どうだったの」とカミさんの言った言葉を繰り返した。普通なら「催促してから聞かれたって面白くない」となるところだろうが、カミさんは違う。
 「私もよく眠れたのよ、今朝はすっきりした気分よ」と、笑顔で答えるのである。そんなカミさんの様子を見て私は、次は催促される前に聞かなくてはと思うのであった。
  鹿児島県西之表市 武田静瞭 2011/4/23 毎日新聞の気持ち欄掲載

エジプト革命の中で

2011-04-23 21:10:21 | 女の気持ち/男の気持ち
 2カ月前、私は旅行者として反政府デモや争乱が続くエジプトにいた。アブシンバルをはじめ南部の古代遺跡のスケールに驚き、感動の幾日かを過ごした後、カイロに着いた。日本からのメールでタハリール広場のデモのことを少しは知っていたが、夜間外出禁止令で空港に足止めになるとは思ってもいなかった。真夜中、空港近くのホテルに移動できたものの、室外に出ることを禁じられたりもした。
 旅行中、ガイドをしてくれたムハマドさんは自宅が暴徒の略奪にあい、不安な日々を過ごす家族のことを心配しながらも最後まで私たちのサポートに徹してくれた。その姿に私たちは何度も胸が詰まる思いをした。 
 ホテルに缶詰になって3日目の朝、ここも危険ということで、急遽空港に避難。出国を待つ人であふれるロビーでミニ難民となった。
 独裁政権に終止符は打たれた。国民が参加する政治に変わりつつあると聞く。しかしムハマドさんをはじめ観光業を生業とする人々には厳しい日々がこれからも続いていくだろう。
 東日本を襲った巨大地震、津波そして追い打ちをかける原発事故。被災地の惨状に胸を痛める毎日に、ホテルで投函を依頼したことさえ忘れていた自分宛の絵はがきが届いた。
 あわためてゆったり流れるナイル川、そしてカイロで遭遇した数日間を思い出した。
  北九州市八幡西区 只松たより 211/4/22 毎日新聞の気持ち欄掲載

福島から避難して

2011-04-21 22:24:19 | 女の気持ち/男の気持ち
 原発事故のため、福島県南相馬市から熊本市に避難して1カ月がたった。
 3月11日午前2時半に洗濯物を取り込んでいると、烏が数十羽飛んできて、聞いたこともない声で一斉に鳴き始めた。「変だ」と夫に話した16分後、震度6弱の大揺れ。夫婦で柱にしがみつき、この世の終わりかと青ざめた。 
 福島県沿岸は、地震、津波、原発と三大被害にあった。私の住まいは原発から20~30㌔圏内だ。15日に屋内避難と言われたが、スーパーはすべて閉まっている。冷蔵庫の残り物と乾物、缶詰でしのいだ。電話も通じず、外界から遮断された状況だった。
 16日に電話が通じ、熊本市に住む夫の弟が「貸家を探しておくからこっちへ来い」と言ってくれた。30数年前に家を建てた時に原発の存在を知り、「もしも」が常に頭に合ったので、持ち出す物はまとめて置いていた。それをバッグやリュックに入れ、17日に自宅を後にした。必要なものは、パーフェクトにそろっているはずだった。
 知り合いに手紙を書こうとして愕然とした。住所録が入っていない。涙が出た。ある日、毎日新聞の「希望新聞」欄に私を案じて投稿してくれた秋田の女性がいた。名前を見た時、うれしさのあまり、また涙が出た。係の記者さんの尽力で住所もわかり、文通が出来る。毎日を愛読して40年を超えた。新聞はやっぱり大切だとつくづく思う。
  熊本市 五十嵐靖子 2011/4/21 毎日新聞の気持ち欄掲載

大震災に思う

2011-04-16 17:47:04 | 女の気持ち/男の気持ち
 長女が生まれたのは昭和34年であった。私は母子家族で母は勤めていたから実家を頼るわけにはゆかない。公務員の大方が間借りのスタートで、一つの井戸を3家族で使っていた。出産後、夫の同僚の奥さんたちは娘に産湯を使わせ、おしめをたらいで洗濯され、総菜も差し入れてくだった。あのときの人の情けは終生忘れることはないだろう。
 その年、正田美智子様と皇太子殿下のご成婚が報じられた。皇室という閉ざされた世界の壁を、熱い愛情でこじ開けて結ばれたお二人の姿に、私は強く心を揺さぶられた。
 どん底まで落ちてしまった日本。これまでの日本とは別の新しい国になるのだ。人々は明るい展望をお二人のご成婚に感じ取った。
 あれから半世紀。車、テレビ、冷蔵庫、パソコンなど電化製品に囲まれた便利な暮らしである。人っ子1人通らない団地に立ち、ふっとえたいの知れないさみしさをおぼえることがあった。そんな時団地でスタートしたボランティアグループから「一人暮らしの集い」の発起人に誘われた。私は二つ返事で引き受けた。おひとりさま同士の絆が深まっていくのが楽しみである。
 この度の大震災に、敗戦後のどん底を重ねる私と同じ世代は多かろう。昨年吹き荒れた「無縁社会」と反対の絆、助け合い、が合い言葉になった震災。きっと敗戦後と同じように試練を乗り切れると信じている。
  宮崎市 松尾順子 2011/4/15 毎日新聞の気持ち欄掲載

小さい復興

2011-04-16 17:27:43 | 女の気持ち/男の気持ち
 谷向こうの所々に山ザクラが浮かび、川土手にはツクシやスミレも顔をのぞかせた。この冬の大雪で枝折れした庭木にも、新芽のツブツブがいっぱいふきだしている。
 やぁ、もうすっかり春なんだなぁ。次々起こるできごとに、気を取られている間に。
 青空を仰ぎ、深呼吸すれば、みずみずしい風の中に、懐かしい原始のにおいがする。その風に乗って、ツバメのつーちゃんズがやってきた。去年より1週間ほど早い。
 築7年。玄関脇の巣は年ごとに増築され、どんどん豪邸になっていった。テンコ盛りのヒナが巣からこぼれ落ちる悲劇もなくなった。それが昨年、ツーちゃんズが南の島へ帰った後、正体不明のチョイワル鳥の仕業で壊されてしまったのだ。土中深くから掘り出された欠け茶碗のように。
 1年ぶりの我が家の損壊を目の当たりにして、ツーちゃんズはどんなにショックをうけたことだろう。去年と同一カップルだとしたら、の話だが。
 夜、デコボコの斜めの縁に足をかけ、寄り添って眠っていた。朝見ると、もういなかった。やっぱり無理だったか……。と、その時、1羽がツイーっと戻ってきた。口に泥の玉をくわえている。入れ替わるようにもう1羽も。
 黙々とすれ違い、泥や藁を運ぶ二羽の翼。青空が滲んで遠ざかる。こんなに小さい小さい復興の営みにさえもジンとたたずむ春。
  鹿児島市 青木千鶴 2011/4/13 毎日新聞の気持ち欄掲載

毅然と生きる

2011-04-08 17:42:07 | 女の気持ち/男の気持ち
 「俺が死んでも、毅然として生きるんだぞ」
 それが、今年5月に三回忌を迎える夫、仁一の最期の言葉だった。
 闘病中の夫と聴いた最期のコンサートの演目には「モルダウ」があった。帰る道々、「この曲大好き」と私が言うと、「うん。俺には少し切ない曲だ」と彼。
 はっとした。
 モルダウは哀調を帯びている。死を予感していたに違いない夫にかける言葉ではなかった。組んでいた腕に力を込め、肩を寄せた。
 夫が亡くなってからというもの、涙を流すばかりで家にこもりがちになった。うつにもなり、悶々とした日々を送っていた。そのうち「毅然と生きろ」と言った夫の言葉が少しずつ心の中で頭をもたげ始めた。そして、友達にも会いたい。外出もしたいという気にさせてくれた。
 先日、例年夫と出かけていたコンサートに行って来た。昨年はとても行く気力のなかったそのコンサートも、今年は思い出に浸りたいという気になって出かけたのだった。
 今年も桜が咲き始めた。闘病の頃が思い出され、涙することも少なくない。まだまだ毅然となど生きられてはいないが、「少しずつ元気になっているよ」と仏壇に語りかけながら毎日を過ごしている。
 今年の桜は見上げることができるよ、きっと。仁さん。
  福岡県春日市 安田彰子 2011/4/6 毎日新聞の気持ち欄掲載

声に押されて

2011-04-08 17:28:36 | 女の気持ち/男の気持ち
 東北を襲った大惨事からさかのぼること14時間。我が家の大事な大事な7歳半の番犬ロンがヒューンと一声鳴いて私の腕の中で亡くなった。朝を待って、納めた箱の中に庭に咲く花を入れた。ミニ水仙、ピンクのツバキ、もう散り始めていたけれど梅の花も。
 病院通い多い犬だったが、頭が良くて夫や私の言葉をよく解した。軽いうつを煩う夫を私の何倍もの優しさで慰めてくれた。犬畜生と言うけれど、そんな言葉は失礼だ。こちらの目をしっかり見て少し首をかしげる姿は、まるで人の姿そのものだった。
 結婚以来2匹目の犬の死。どんな巡り合わせなのか、最初の犬の死は9・11アメリカ同時多発テロの2日後。忘れようにも忘れられない。今度も絶対心から消えることはないだろう。私たちがペットロスの世界に入り込まないように、きっと世の中を見なさいと教えて逝ったのだ。もっと大きく深い悲しみがあるよ、しっかり頑張って生きてね、と。
 テレビでは次々と悲しみを伝える。ロンの最後の声に押し出されるように、県庁に設置された募金箱へ。 負けないでください。微力でも、私にできることで応援します。
 まず、差し込んだままのコンセントを抜きます。釣り銭をスーパーの募金箱に入れ続けます。ファイト!と祈り続けます。そう心に誓いながら。
 ロン、ありがとうね。
  佐賀市 中島君子 2011/4/5 毎日新聞の気持ち欄掲載

息子の募金

2011-04-04 22:17:58 | 女の気持ち/男の気持ち
 普段はめったに買い物になどついてこない息子が珍しく同行した。レジで支払いを終え、買い物袋に詰めていると、息子がしきりにズボンや上着のポケットに手を突っ込み、モゾモゾやっている。東北大震災の義援金の募金箱の方にチラチラと目をやりながら。どうやら財布を忘れたらしい。
 「代わりに入れてきてくれる」
 釣り銭のいくつかを取り出して渡した。息子は大きな手のひらで受け取ると、箱の置いてあるサービスカウンターに向かった。
 彼が保育園児の頃を思い出した。下関駅前を通りかかると、あしなが奨学生の街頭募金を行っていた。私も旧日本育英会の奨学金で蛍雪時代を送った一人だ。幼い息子にお金を持たせ、微力ながらと協力した。
 「ありがとね。ボク」
 頭をなでられた彼は嬉しかったのだろう。翌々週、同じ光景に出くわした彼は、「母さん」と催促した。小さな指に硬貨を握りしめ、黄色いTシャツを着た一群の中で一番美人のお姉さんを目指して一直線に走っていった。
 息子が戻ってきた。
 「何ニヤニヤしてんの?」
 「小さい時から優しい子やったからねえ」
 「また黄色いTシャツの話? 聞き飽きた」
 息子はむくれた。
 二十歳になった息子はすっかりシャイになった。
  山口県下関市 松岡淳子 2011/4/3 の気持ち欄掲載

くらべてきたよ

2011-03-17 16:27:15 | 女の気持ち/男の気持ち
 げた箱の上の小さな置物を落として割ってしまった。これは42歳になる次男が、小学校の修学旅行で買ってきてくれたものだ。
 私は当時、慣れない倉敷の地で社員の食事作りを任されていた。料理は大の苦手にもかかわらず。
 朝7時、我が家へ5人の男子社員が食事にやってくる。昼間は女子社員の昼食作りに会社まで行った。後片付けをして10人分の夕食と朝食の食材を買い、自転車に積み込んで帰宅。午後7時過ぎ、仕事を終えた社員がバラバラにやってくる。家族を含めて全員が食べ終えると11時過ぎだ。私の自由時間は皆無。疲れ切っていた。夫は前任から引き継いだ赤字の会社を建て直すのに必死で家族を顧みる心の余裕はなかった。
 私は子どもたちについついつらく当たっていたのだろう。ある日、次男が言った。
 「お母さんはどうしていつも怒ってるの」
 私は彼の気持ちに向き合うこともせず、「うるさい」と一喝してしまった。
 そんなとき、このお土産である。それは、大きく口を開けて笑っている素焼きの人間。メッセージがついていた。
 「くらべてごらん」 
 一瞬、ガツンと一撃を食らった感じがした。
 その時から今日まで30年、自分を戒めるために目につく所に置いていたのだ。粉々になったそれを見て、しまったとは思ったが、もう許してくれたんだよねとも受け取っている。
 宮崎市 若杉英子 2011/3/17 毎日新聞の気持ち欄掲載