1923(大正12)年9月1日、関東全域と静岡、山梨に甚大な被害をもたらした関東大震災。幼い子ども2人を抱えて震災を生きのびた母は、当時の模様をよく話してくれた。
当時、母方の両親は東京下町の本所に住んでいたが、祖父は、陸軍本所被服廠跡の大惨事に巻き込まれて死亡した。母が住んでいた所は火災は免れたものの、真っ赤に灼けた空を見上げながら、繰り返し起こる余震に恐怖の日々だったらしい。数日後、体中煤だらけの祖母が一人で母の元に辿り着いた時は、お化けのようだったと話していた。当時陸軍近衛兵だった父は、この混乱の時は家に帰れず、若い母はどんなに心細かったことだろう。
更に恐怖を感じたのは「朝鮮人が襲ってくる」というデマだったらしい。正しい情報が伝わらないために、社会不安がかきたてられ、多くの朝鮮人や中国人が犠牲になり、更に社会主義者の弾圧など、この混乱に乗じた事件が続発したと言う。本当に不幸なことであった。
その気丈な母も世を去って43年。震災の恐怖から、「グラッと来たら雨戸を外し、火鉢を抱えて外に出る」を実行した人だったが、今、この程度の地震が都心を襲ったらどのような大惨事になるか予想もつかない。
最近次々に大きな地震が各地で発生する。「忘れないうちに」やってくる災害に、私たちは何ができるのだろう。人間の力の限界を感じずにはいられない。
今日は「防災の日」。
昔は「二百十日はオオカゼ が吹く」と怖かったものだが、この頃の台風は夏が来る前にもやってくる。
目の前の防災リュックは、この小さな体で背負って歩けるのか、不安になるほど、パンパンにふくれあがっている…。
必要最低限に押さえないと、リュックに押しつぶされそうだ、さあもう一度点検しよう!
しかし、このリュックを背負うことがないことを切に祈るアカショウビンです。
当時、母方の両親は東京下町の本所に住んでいたが、祖父は、陸軍本所被服廠跡の大惨事に巻き込まれて死亡した。母が住んでいた所は火災は免れたものの、真っ赤に灼けた空を見上げながら、繰り返し起こる余震に恐怖の日々だったらしい。数日後、体中煤だらけの祖母が一人で母の元に辿り着いた時は、お化けのようだったと話していた。当時陸軍近衛兵だった父は、この混乱の時は家に帰れず、若い母はどんなに心細かったことだろう。
更に恐怖を感じたのは「朝鮮人が襲ってくる」というデマだったらしい。正しい情報が伝わらないために、社会不安がかきたてられ、多くの朝鮮人や中国人が犠牲になり、更に社会主義者の弾圧など、この混乱に乗じた事件が続発したと言う。本当に不幸なことであった。
その気丈な母も世を去って43年。震災の恐怖から、「グラッと来たら雨戸を外し、火鉢を抱えて外に出る」を実行した人だったが、今、この程度の地震が都心を襲ったらどのような大惨事になるか予想もつかない。
最近次々に大きな地震が各地で発生する。「忘れないうちに」やってくる災害に、私たちは何ができるのだろう。人間の力の限界を感じずにはいられない。
今日は「防災の日」。
昔は「二百十日はオオカゼ が吹く」と怖かったものだが、この頃の台風は夏が来る前にもやってくる。
目の前の防災リュックは、この小さな体で背負って歩けるのか、不安になるほど、パンパンにふくれあがっている…。
必要最低限に押さえないと、リュックに押しつぶされそうだ、さあもう一度点検しよう!
しかし、このリュックを背負うことがないことを切に祈るアカショウビンです。
コメントありがとう。
伊藤ルイさんについて、詳しいことは知りませんでした。
大杉栄の娘として生きたルイさんの人生は、困難なものだったと思いますが、市民活動家として両親の思いを発信し続けた方だったのですね。
私も、松下先生のご本を読みたくなりました。
あの大震災でお二人とも被災されたのですか。
ご心配だったことでしょうね。
我が家も子供は東京と神奈川です。
いつかは必ず襲うと言われる大地震に
どう備えたらいいのでしょう…。
島根だったのですが、揺れたそうです。
阪神大震災に我が家の子どもは二人とも遭いました。
娘は神戸市灘区で被災しました。
息子は大阪・箕面市でしたが、
マンションの1階が壊れ、住めなくなりました。
本当に地震は怖いです。
アカショウビンさまと同じリュックを持っているようですが、
私はしまいこんだままです。
低い防災意識を反省しています。m(__)m