今日は敗戦記念日。私の中にある8月15日は、どう考えても「敗戦記念日」なので、敢えてこう言わせてもらおう。
電気もない疎開先で戦争が終わったらしいと聞いた母は、真偽のほどを確かめるために、娘3人と生後五ヶ月の孫を伴って鹿屋に帰ることにした。
久しぶりに我が家に帰ってみると戦争は終わっていたが「近いうちに米軍が高須に上陸するらしい」との噂。不安な夜を過ごしていると「今夜中に逃げなさい」とふれが回ってきた。慌ただしく荷物を纏め上の姉は子供をおんぶし、14歳の姉と12歳の私は、寝ぼけ眼をこすりながら、母の後について家を出た。
その時は鹿屋市の街中が空っぽになったというほど、暗い夜道をリヤカーを引く人、黙々と歩き続ける人がどこまでも続いていたと言う。
私たちは疎開先の牧之原町まで帰ることになり、昼頃、T町の知人宅を訪ねて仮眠を取りおにぎりを一杯頂いて、夜明け前に出発した。
炎天下、乳飲み子を抱えて歩き続ける私たちは、多くの方々のお世話になった。海軍の兵士たちは、軍隊がストックしていた、牛肉の缶詰や果物の缶詰などを一杯リヤカーに積んでいたが、おにぎりと替えて欲しいと言う。今まで見たこともない牛肉の缶詰やみかん缶の美味しかったこと…。
その夜は市成、ここには知り合いもなく、家畜小屋の藁の中に寝させてもらった。疲れ果てた体を藁に埋め熟睡したが、夜中に体中が痒くなり、泣いたことを思い出す。
疲れてぐずる子供たち、窮屈な姿勢で乳飲み子を抱いて疲れ果てた姉、母はどんなに叱咤激励しながら60㌔以上ある道のりを歩き続けたことだろう。
気丈な母だったが、ようやく海が見える場所に出たとき「もう少しだよー」と涙を流して私を抱きしめてくれた。
各地で戦禍にあい、弾丸を避けて逃げ惑う人々を見ると、その時の我が身とオーバーラップして怒りが込み上げてくる。
いつも弱い立場のものが益々追いつめられていく不幸。
聖戦なんてありはしないのだ。
あの時の藁の寝床のチクチク痛かった思い出を忘れてはならない! と今年も心に誓った。
電気もない疎開先で戦争が終わったらしいと聞いた母は、真偽のほどを確かめるために、娘3人と生後五ヶ月の孫を伴って鹿屋に帰ることにした。
久しぶりに我が家に帰ってみると戦争は終わっていたが「近いうちに米軍が高須に上陸するらしい」との噂。不安な夜を過ごしていると「今夜中に逃げなさい」とふれが回ってきた。慌ただしく荷物を纏め上の姉は子供をおんぶし、14歳の姉と12歳の私は、寝ぼけ眼をこすりながら、母の後について家を出た。
その時は鹿屋市の街中が空っぽになったというほど、暗い夜道をリヤカーを引く人、黙々と歩き続ける人がどこまでも続いていたと言う。
私たちは疎開先の牧之原町まで帰ることになり、昼頃、T町の知人宅を訪ねて仮眠を取りおにぎりを一杯頂いて、夜明け前に出発した。
炎天下、乳飲み子を抱えて歩き続ける私たちは、多くの方々のお世話になった。海軍の兵士たちは、軍隊がストックしていた、牛肉の缶詰や果物の缶詰などを一杯リヤカーに積んでいたが、おにぎりと替えて欲しいと言う。今まで見たこともない牛肉の缶詰やみかん缶の美味しかったこと…。
その夜は市成、ここには知り合いもなく、家畜小屋の藁の中に寝させてもらった。疲れ果てた体を藁に埋め熟睡したが、夜中に体中が痒くなり、泣いたことを思い出す。
疲れてぐずる子供たち、窮屈な姿勢で乳飲み子を抱いて疲れ果てた姉、母はどんなに叱咤激励しながら60㌔以上ある道のりを歩き続けたことだろう。
気丈な母だったが、ようやく海が見える場所に出たとき「もう少しだよー」と涙を流して私を抱きしめてくれた。
各地で戦禍にあい、弾丸を避けて逃げ惑う人々を見ると、その時の我が身とオーバーラップして怒りが込み上げてくる。
いつも弱い立場のものが益々追いつめられていく不幸。
聖戦なんてありはしないのだ。
あの時の藁の寝床のチクチク痛かった思い出を忘れてはならない! と今年も心に誓った。
いつもコメントありがとうございます。
コメントいただけるのは本当に嬉しいです。
でも、うっかりして読み忘れてるアカショウビンです。
ごめんなさいねm(_ _)m
戦争が非人道的で、どんなに悲惨なものか、分かってるはずなのに…。紛争は拡大するばかり、もどかしく思います。
憲法9条だけは、守り抜きたい!
辛い体験をお聞かせ頂き、有難うございます。m(__)m
被爆地・長崎や地上戦にみまわれた沖縄、
そして、戦争を体験された方々の言葉には重みがあります。
歴史が歪曲されていく今日、戦争を知らない世代は、
もっと真摯にその方々の話に耳を傾けなければなりません。
子ども達や後世に平和をつないでいくため、
過去の過ちを認め、戦争を風化させてはならない、と思っています。
と祈ります。人間の与えるものとは違う
真の平和を!