磐梯山のふもとにある慧日寺。
今でも法灯は続いておりますが、もちろん創建当時の建物は失われてしまっています。
ただ、どんな建物があったのか、発掘調査によって明らかになりつつあります。
特に、中心建物群は詳細に調査が行われており、往時の建物が2棟復元されています。
遺跡入り口より
そのひとつが中門(ちゅうもん)。
奈良時代の大寺では、伽藍の中心建物である金堂の前に建てられ、この2つの建物の周りには回廊がロの字にめぐり両者を結んでいます。
この回廊で囲まれた空間で儀式が行われるわけです。
慧日寺跡では回廊は検出されていなかったようですが、かわりに中門と金堂との間には石が敷き詰められ、回廊に囲まれた空間を明示していたのでしょう。
背面(金堂前)から見た中門。背後に石が敷き詰められているのが分かります。
石敷を施せば儀式が行われる位置は明示できますが、回廊がなかったため、これでは結界としては不十分です。
それを補う意味で中門を作ったのではないでしょうか?
中門は、正面に柱が4本、側面には3本(桁行3間・梁間2間)、立てられていたことが発掘調査で確認されています。
そうした場合、八脚門か楼門だと想定されますが、中世の「慧日寺絵図」から八脚門と判断されたようです(建物は建て替えられても、建て替え以前の建物形式を踏襲することが多いのです)。
八脚門は、前面に柱が4本、背面にも4本柱があるので、足して8本の脚があることから付けられた名前。
ちなみに、長者ヶ原廃寺跡の南門も桁行3間、梁間2間と、慧日寺跡の中門と同じ柱配置ですが・・・・・、
この部分に柱がないので、違った形式の門(←あまり類例がない)となります。
慧日寺跡の復元中門を見ながら、長者ヶ原廃寺跡の南門はどんな姿だったのか、しばし考えをめぐらせました・・・・・・
が、あまりに暑くてどんな姿だったのか、思い浮かびませんでした。
修行不足です。
今でも法灯は続いておりますが、もちろん創建当時の建物は失われてしまっています。
ただ、どんな建物があったのか、発掘調査によって明らかになりつつあります。
特に、中心建物群は詳細に調査が行われており、往時の建物が2棟復元されています。
遺跡入り口より
そのひとつが中門(ちゅうもん)。
奈良時代の大寺では、伽藍の中心建物である金堂の前に建てられ、この2つの建物の周りには回廊がロの字にめぐり両者を結んでいます。
この回廊で囲まれた空間で儀式が行われるわけです。
慧日寺跡では回廊は検出されていなかったようですが、かわりに中門と金堂との間には石が敷き詰められ、回廊に囲まれた空間を明示していたのでしょう。
背面(金堂前)から見た中門。背後に石が敷き詰められているのが分かります。
石敷を施せば儀式が行われる位置は明示できますが、回廊がなかったため、これでは結界としては不十分です。
それを補う意味で中門を作ったのではないでしょうか?
中門は、正面に柱が4本、側面には3本(桁行3間・梁間2間)、立てられていたことが発掘調査で確認されています。
そうした場合、八脚門か楼門だと想定されますが、中世の「慧日寺絵図」から八脚門と判断されたようです(建物は建て替えられても、建て替え以前の建物形式を踏襲することが多いのです)。
八脚門は、前面に柱が4本、背面にも4本柱があるので、足して8本の脚があることから付けられた名前。
ちなみに、長者ヶ原廃寺跡の南門も桁行3間、梁間2間と、慧日寺跡の中門と同じ柱配置ですが・・・・・、
この部分に柱がないので、違った形式の門(←あまり類例がない)となります。
慧日寺跡の復元中門を見ながら、長者ヶ原廃寺跡の南門はどんな姿だったのか、しばし考えをめぐらせました・・・・・・
が、あまりに暑くてどんな姿だったのか、思い浮かびませんでした。
修行不足です。