慧日寺跡では、創建当時のものはほぼ残されていません。
近い時期のものならば、慧日寺を開基した徳一(とくいつ)の墓と伝えられる平安時代の石塔があります。
左の覆堂の中に石塔が安置されています。
徳一はもともとは奈良で修行を積んだようでしたが、何か理由があって、常陸国(今の茨城県)を経て、会津にやって来たようです。
ここで多くの寺を建立したらしく、茨城や会津には徳一が建立したとする伝承を持つ寺が多くあります。
この徳一、仏教に興味がある方以外には、ほとんど無名といってもいいでしょう。
でもですね、徳一は結構すごいお坊さんなのです。
かなり学識のあったようで、当時の日本仏教の最先端を走っていたといっても過言ではない、日本天台宗の祖・最澄と論争をしているからです。
最澄はさまざまな書物を表して徳一の主張に反論を加えています。
徳一の主張が取るに足らないものであれば無視すればよかったわけで、そうしなかったということは、徳一の主張が(正しい正しくないは措いて)高レベルだったことを物語っているといえないでしょうか。
だからこそ、真言宗の開祖・空海も、自ら手紙の中で徳一を「徳一菩薩」と称しているのです。
無名だけれど、ちょっとすごいお坊さん。
それが慧日寺を開いた徳一なのです。
近い時期のものならば、慧日寺を開基した徳一(とくいつ)の墓と伝えられる平安時代の石塔があります。
左の覆堂の中に石塔が安置されています。
徳一はもともとは奈良で修行を積んだようでしたが、何か理由があって、常陸国(今の茨城県)を経て、会津にやって来たようです。
ここで多くの寺を建立したらしく、茨城や会津には徳一が建立したとする伝承を持つ寺が多くあります。
この徳一、仏教に興味がある方以外には、ほとんど無名といってもいいでしょう。
でもですね、徳一は結構すごいお坊さんなのです。
かなり学識のあったようで、当時の日本仏教の最先端を走っていたといっても過言ではない、日本天台宗の祖・最澄と論争をしているからです。
最澄はさまざまな書物を表して徳一の主張に反論を加えています。
徳一の主張が取るに足らないものであれば無視すればよかったわけで、そうしなかったということは、徳一の主張が(正しい正しくないは措いて)高レベルだったことを物語っているといえないでしょうか。
だからこそ、真言宗の開祖・空海も、自ら手紙の中で徳一を「徳一菩薩」と称しているのです。
無名だけれど、ちょっとすごいお坊さん。
それが慧日寺を開いた徳一なのです。