続いて復元金堂。
慧日寺の中心となる建物です。
復元中門から見るとこんな感じ
復元金堂は、まず正面に柱が6本、側面に同じく3本、すなわち正面5間、側面2間の空間があり(この部分を身舎(もや)といいます)、その四方に1間ずつ空間を付け足されています(この部分を庇(ひさし)といいます)。
※今では庇といえば、窓の上に突き出た部分をいいますが、古代~中世では身舎のまわりに付け足された空間のことを指します。
したがって、外観は正面7間(柱が8本)、側面4間(柱が5本)となります。
身舎の大部分には下の写真のような須弥壇(しゅみだん)が置かれ、その上に本尊が安置されていました。
本尊は今となっては不明ですが、近くには慧日寺と同じ僧が建立した勝常寺(しょうじょうじ)があり、そこには国宝に指定されている薬師如来坐像が安置されています。
ですので、ここの本尊も薬師如来だった可能性が高いといえます。
ところで、本尊のまわりは、1間(ま)分しかありません。
人がいられるのは青矢印の部分だけ。
この建物だけで仏教儀式を行うには、少し狭いです。
前回、金堂と中門の間には石が敷き詰められていて、ここが儀式の空間であることを明示したものと紹介しました。
外で儀式を行うのは不自然に思われるかもしれませんが、金堂は本尊を安置するのに手一杯で、人間が入り込む余地はほとんどなかったためです。
今のお寺のように、本尊の前に空間を設ければよいと思われるかもしれませんが、このころのお堂は下の写真のように、柱と屋根が一体だったので、奥行きを持たせることができませんでした。
左右方向に見えるのは梁でその上にすぐ屋根となっているのが分かるかと思います。
深い奥行きができるようになったのは、ずっと後。
柱と屋根との間に野小屋(のごや)という部分ができ、両者が分離されてから。
そうした奥行きが深い建物ができるようになったのは、本尊が安置される内陣(ないじん)と、それを礼拝する礼堂(らいどう)とに分離されるようになった平安時代の末頃。
そうした仏堂を専門用語で中世仏堂(ちゅうせいぶつどう)といいますが、その現存最古のものは、永暦2年(1161)に再建された当麻寺曼陀羅堂(奈良県葛城市 国宝)です。
当麻寺曼陀羅堂。見づらいかもしれません正面7間、側面6間で奥行きが広い構造となっています。
実は長者ヶ原廃寺跡の本堂跡も間口と奥行きとが等しく、柱配置も中世本堂である西明寺・本堂の前身堂と全く同じ。
というわけで、実は長者ヶ原廃寺跡の本堂跡は最古の中世仏堂の可能性が高い貴重な建物跡なのです。
中世本堂を可能とした野小屋。
建築技術のみが発達して生みだされたわけではありません。
本尊と近い位置で、同じ建物内で儀式を行いたいという欲求が、新たな技術を生みだしたのです。
つまり、信仰の変化が技術の変化を促したのです。
それは、今の世でも変わりはないと思います。
気持ちの持ち方ひとつで、技術革新が生みだされるのです。
閑話休題。
建物を復元することは、賛否両論あると思います。
kaneurikichiji も全面的に賛成してはいません。
けれども、どのような建物がそこにあったのか、十分に吟味され、憶測による復元をしていない、慧日寺跡・復元金堂のような復元ならば、その効果は非常に高いと考えています。
専門家でなくても、ぜひ一度ご覧になっていただきたいと思います。
1200年前の東北の仏教に触れることができるのはここだけですから。
慧日寺の中心となる建物です。
復元中門から見るとこんな感じ
復元金堂は、まず正面に柱が6本、側面に同じく3本、すなわち正面5間、側面2間の空間があり(この部分を身舎(もや)といいます)、その四方に1間ずつ空間を付け足されています(この部分を庇(ひさし)といいます)。
※今では庇といえば、窓の上に突き出た部分をいいますが、古代~中世では身舎のまわりに付け足された空間のことを指します。
したがって、外観は正面7間(柱が8本)、側面4間(柱が5本)となります。
身舎の大部分には下の写真のような須弥壇(しゅみだん)が置かれ、その上に本尊が安置されていました。
本尊は今となっては不明ですが、近くには慧日寺と同じ僧が建立した勝常寺(しょうじょうじ)があり、そこには国宝に指定されている薬師如来坐像が安置されています。
ですので、ここの本尊も薬師如来だった可能性が高いといえます。
ところで、本尊のまわりは、1間(ま)分しかありません。
人がいられるのは青矢印の部分だけ。
この建物だけで仏教儀式を行うには、少し狭いです。
前回、金堂と中門の間には石が敷き詰められていて、ここが儀式の空間であることを明示したものと紹介しました。
外で儀式を行うのは不自然に思われるかもしれませんが、金堂は本尊を安置するのに手一杯で、人間が入り込む余地はほとんどなかったためです。
今のお寺のように、本尊の前に空間を設ければよいと思われるかもしれませんが、このころのお堂は下の写真のように、柱と屋根が一体だったので、奥行きを持たせることができませんでした。
左右方向に見えるのは梁でその上にすぐ屋根となっているのが分かるかと思います。
深い奥行きができるようになったのは、ずっと後。
柱と屋根との間に野小屋(のごや)という部分ができ、両者が分離されてから。
そうした奥行きが深い建物ができるようになったのは、本尊が安置される内陣(ないじん)と、それを礼拝する礼堂(らいどう)とに分離されるようになった平安時代の末頃。
そうした仏堂を専門用語で中世仏堂(ちゅうせいぶつどう)といいますが、その現存最古のものは、永暦2年(1161)に再建された当麻寺曼陀羅堂(奈良県葛城市 国宝)です。
当麻寺曼陀羅堂。見づらいかもしれません正面7間、側面6間で奥行きが広い構造となっています。
実は長者ヶ原廃寺跡の本堂跡も間口と奥行きとが等しく、柱配置も中世本堂である西明寺・本堂の前身堂と全く同じ。
というわけで、実は長者ヶ原廃寺跡の本堂跡は最古の中世仏堂の可能性が高い貴重な建物跡なのです。
中世本堂を可能とした野小屋。
建築技術のみが発達して生みだされたわけではありません。
本尊と近い位置で、同じ建物内で儀式を行いたいという欲求が、新たな技術を生みだしたのです。
つまり、信仰の変化が技術の変化を促したのです。
それは、今の世でも変わりはないと思います。
気持ちの持ち方ひとつで、技術革新が生みだされるのです。
閑話休題。
建物を復元することは、賛否両論あると思います。
kaneurikichiji も全面的に賛成してはいません。
けれども、どのような建物がそこにあったのか、十分に吟味され、憶測による復元をしていない、慧日寺跡・復元金堂のような復元ならば、その効果は非常に高いと考えています。
専門家でなくても、ぜひ一度ご覧になっていただきたいと思います。
1200年前の東北の仏教に触れることができるのはここだけですから。