薪ストーブ暮らしが大好きでブログ書いてます。
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薪ストーブ|薪焚亭
昨日の収穫と被曝体験 環境報告94
さて、今シーズンはどのくらい採れるだろう?
ところでゴーヤ、今年は苗を1本植えたんだが、ずいぶん大きくなったのに雄花ばっかしで、雌花がぜんぜんつかない。 何か変だなと思って調べてみたら、ゴーヤは親蔓を芯止めして子蔓を促し、その後の孫蔓に雌花がつくということらしい。
スイカが子蔓に生るってのは知ってたけど、ゴーヤが孫まで行かないとならないなんて、知らんかった(笑)
まぁ、ほっといても枯れない限り、いつかは実をつけるんだろうが、早く上手く実を生らせるためには、スイカもゴーヤもとにかく親蔓の摘心が肝心っていうことなんですね。
2011年のキュウリ収穫累計 : 9本/ナス収穫累計 : 5本
大玉トマト収穫累計 : 0本/中玉トマト収穫累計 : 0本
の 応援 つうことで、今日は忘れないでくださいよぉ!
いつも駄文にお付合いありがとーございます。
追記
広島、長崎の被爆者の孫にあたるお二人の話は、とても参考、勇気付けられます。
【副島隆彦の学問道場掲示板576と577を以下転載】
[576]長崎の被爆者の孫です。
投稿者:会員6188 市原理恵子 投稿日:2011-06-17 13:23:20
はじめまして。会員番号6188番 市原理恵子です。
私の祖母は、長崎原爆投下の際、ばっと核爆発の光を浴びたり熱風を浴び「なかった」被爆者です。
85才どころか93才まで元気でした。もちろん原爆手帳は交付されています。
病気らしい病気をしたこともなく、染めていないのに髪も黒々としており、早朝から庭木の手入れをしつつ趣味の旅行を楽しんでいました。
☆
祖母は、太平洋戦争中に看護婦として働いていました。
そして、長崎に原爆が投下された知らせを受けて、派遣命令が出され、福岡から汽車と徒歩で長崎に向かいました。
(原爆がなんであるかは誰も知りません。長崎に大きな爆弾が落とされたらしいという知らせをうけて急遽派遣されました。)
当時祖母は20代後半でその派遣部隊の班長で4~5名の後輩看護婦(10代20代の女性)と一緒です。
長崎市内に到着したのは、原爆投下の2日後です。
ですので、祖母はばっと核爆発の光を浴びたり熱風を浴び「なかった」被爆者であり、
放射性物質をあびただけの被爆者に該当します。
☆
福島第一原発から出た放射性物質は大半が太平洋に流れ出していますが、
長崎では谷間に原爆が投下されており、放射性物質が風に流されることなく停留していたと思います。
その中で、長崎の水を飲み、食べ物を食べ、風に吹かれて、雨に打たれて、祖母は看護婦として働いていました。
防護服なんてありませんし、屋内避難やマスクや、屋内の水拭き・・といった概念もありません。
現地にいた期間ですが、三ヶ月か半年かは、ちょっと手元に資料がなくわかりません。
ただ、長崎原爆投下直後は医療関係者が非常に不足していますし、簡単に現地から離れることは不可能だったと思います。
この長崎派遣の後、看護学校の教員にリクルートされましたので、途中で逃げ出さず、長期の任務を全うしたのだと思います。
☆
祖母も元気でしたし、同行した若い後輩看護婦の皆さんも戦後それぞれ活躍されて、長生きされています。
放射能のせいで病気になったなんて耳にしたことがありません。
当時のことについては、あまりにも現地の状況が酷く、祖母は話したがりませんでした。
ばっと核爆発の光を浴びたり熱風を浴びた街や人々の悲惨さは、思い出すと苦しくなり、口に出して話せないと言っていました。
「戦争はしちゃいかん、あんなひどかことは絶対にいかん」と顔を伏せて言うばかりでした。
これは、私の身内の話ですが、参考になればと思い、投稿しました。
[577]広島の被爆者の孫です。
投稿者:吉川輝 投稿日:2011-06-17 17:46:03
はじめまして、会員番号3397の吉川輝です。
私も子供のころ聞いた話を紹介させていただきます。
私の祖父(明治37年生まれの当時41歳)は広島原爆投下時に爆心地から直線距離で4キロのところの広島の三菱軍需工場で徴集されていて、そこで被爆したそうです。爆風で工場の屋根が吹き飛び、祖父自身も爆風で数メートル飛ばされたそうですが、奇跡的に大した怪我もなくその場から脱出できたそうです。
そして、その日のうちに実家がある広島県北部の三次へ帰省するために、原爆で焦土と化した広島市中心部を歩いて、何とか国鉄が動いている駅(広島駅は壊滅状態)までたどり着き、列車に乗って帰ってきたそうです。
時同じくして、私の叔父(父の兄で14歳くらい)も、三次から広島へ向かっていて、熱線や爆風による怪我などはなかったものの、原爆が落ちた後に広島に到着してから被爆し、すぐに実家に帰省したそうです。
もちろん当時は放射能などはまったく知らされていないし、二人とも下痢や、体の不調、微熱などがひと月ぐらいはあったそうです。
原子爆弾が落ちて、そのような病状になったことは後からわかったことで、当時は原因不明であったと思いますし、叔父も後から考えてみるとあれが被爆における症状であったんだといわれていました。
でも、その祖父もその後90歳まで生きながらえて、大往生であったと思われますし、叔父も80歳を過ぎた今も「がん」などにもかからずまだ健在です。
そのことからも、爆弾が落とされた後の、一時的に強い放射能の中を歩いて放射性物質を吸い込んだとしても、人には破壊された細胞を直す回復機能があるのだと思います。被爆の度合いにもよると思いますが、命が奪われることはないのではないでしょうか。
【Inspector+で計測した地上1mの放射線データ】
● 自宅屋内18日06時の放射線量:0.23μSv/hr
● 自宅屋外18日06時の放射線量:0.88μSv/hr
【以下は公表値】
● 陸上自衛隊郡山駐屯地(防衛省計測)17日14時の放射線量:0.70マイクロシーベルト
● 郡山市役所前17日15時の放射線量:1.13マイクロシーベルト
● ビッグパレットの17日15時の放射線量:0.63マイクロシーベルト
● 郡山市合同庁舎前の18日05時の放射線量:1.28マイクロシーベルト
放射性物質の拡散予測図 SPEEDI
気象庁の 風向風速 3日前から現在まで
18~19日のドイツ気象庁 予想動画 もあります。 日本時間では9時間プラスですかね。
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