文京区は、森鴎外、樋口一葉、石川啄木等々文学者ゆかりの地で
ある。
3月27日(日)、旧久堅町を訪ねた折り、「石川啄木終焉の地」
(旧久堅町74-46:現小石川5-11-7)を訪れる。
そこには歌碑があり、石川啄木顕彰室が設けられていた。
石川啄木は、この地で肺結核により26歳で亡くなった。
その後、その近く、小石川図書館で久堅町関連資料をコピーする。
久堅町の「旧町名案内」を確認、旧東京教育大学跡地を見て、帰
路についた。
この日の歩数:14,900歩。
10:29 春日通り
10:32
10:33
10:34 ここで左折
10:35
10:36
10:36 ここを向こうへ右折して
10:37
10:38 石川啄木終焉の地の歌碑を発見
10:38 小石川5-11-7(旧久堅町74-46)
10:40 「石川啄木顕彰室」がある。
ガイドさんが外国人を案内していた。
10:43
10:43
10:45 石川啄木終焉の地歌碑
10:45
10:46 小石川図書館へ
10:47
10:48 団平坂
10:48
10:48 小石川図書館
10:49 図書館の玄関
「久堅町」の資料を数枚コピーさせてもらう(1枚10円)。
歴史はおもしろい。
旧町名でいえば、久堅町の南側は竹早町だ。
『江戸・明治の人びと』--天保改製御江戸大絵図
中央に「松平ハリマ」とある。現在の小石川5丁目、播磨坂。
同上--「東京全図」の部分 明治11(1878)年
久堅町は、明治2(1869)年、橋戸町、久保町、宮下町飛地、門
前町(宗慶寺・善仁寺)、松平播磨守屋敷跡や旗本屋敷跡などが
合併してできた。
町名は、永久の町の発展を願って久堅町とした。
「東京市小石川全図」明治29年
小石川久堅町の北に千川(小石川)が流れる。
(注)「東京市小石川全図」はあざみ野クラブ元会長I藤さまより拝借したもの。
Iさんの伯父さまは長らく久堅町にお住まいで、菩提寺も旧久堅町に所在とお聞
きし、ビックリ!
「茗荷谷界隈MAP」
11:29 図書館2階
11:29
11:30 膨大なLPがそろっている。
11:37 区立竹早公園
11:38
11:39
11:41 区立第一中学校
11:42
11:42 一中のバス停
11:45 竹早テニスコート
11:46
11:47 創価学会
11:49
11:50
11:51 「旧町名案内」~旧久堅町~
11:52
11:53
11:55 再び春日通りへ
12:01
12:01 茗荷谷駅前
12:02 茗荷谷駅前交番 再び
12:02
12:04 区立窪町小学校 父はここには通わなかった?
12:05
12:06
12:07 文京区 教育の森公園
12:07
12:08 筑波大学・放送大学
昭和53(1978)年まで、東京教育大学があった所だ。
昭和43年当時の地図 中央に「文:教育大学」
右:小石川5丁目、小石川植物園
12:08
12:08 グループが点呼を取っていた。
12:09
12:09
12:10
12:10
12:11 茗荷谷駅前
12:10 「昭和初期の茗荷谷界隈」
12:12
12:13
12:23 大手町乗り換え
12:25
12:59 二子玉川で急行に
13:11 あざみ野着
13:12
13:23
13:33 雑木林のサクラも満開だ。
苑地ボランティアYさんのお手入れの賜物だ。
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団子坂下に母の実家がありました。
鷗外図書の近くです。
ちなみに兄は小石川高校〜。
懐かしい風景です。
お兄様は「五中」ですね~。また機会を見つけて、歩きまわってみたいと思います。