私の父の名は「恒夫」(つねお)という。
父は、大正7(1918)年4月11日に次男として生まれ、昭和54(1979)
年、満61歳と9カ月の9月29日に、心筋梗塞で亡くなった(*)。
大正7年生まれには、田中角栄、中曽根康弘などがおり、今年は生
誕102年になる。
(*)父が倒れた日のことは昨日のことのように覚えている。会社が休みの土曜日
の朝だった。私がのんびり2階で寝坊していたら、母が2階に向かって「パパが倒れ
た」と叫んだので、飛び起きて下りていくと、父が畳に座り、元気なく、「ああ、
もう大丈夫」と言う。
脈をはかるとまったく感じられないので、すぐに救急車を呼んだ。救急車には母が
同乗していったが、しばらくすると救急病院の母から電話があり、「ダメみたい」
というので、あわてて病院へ駆けつけた。亡くなるまでほんの20分くらいのことだ
った。
以下は、父と母から「断片的に」聞き、現在参照できる資料(史料
?)などからまとめたものだ。
父は、幼少期は、祖父(父の父)の仕事の関係で、中国の漢口(かん
こう、ハンカオ)の租界で過ごし、小学校は富山県の高岡市(平米
小学校?)、中学は、昭和6年、東京の本郷中学に進学。
(注)昭和6(1931)年は満洲事変が起きた年だ。
昭和11年、中学卒業後、東京美術学校を受験するが、2浪し、昭和
13年、20歳になる年に立教大学へ進学(大学に進学しなければ、
すぐに徴兵検査が待っていた)。
後年、父は「美術学校へ進学しなくて本当によかった」と言ってい
た。美術学校を卒業していたら生活して行けなかった?と私は理解
した。
立教では蹴球(サッカー)に熱中し、全日本クラスだったという
(国会図書館に行けば当時の資料が見つかる?)。
立教では西本幸雄(→こちら)と同期だった(父は西本さんには巨
人ファンであることを内緒にしていた)。
サッカーで「過酷な練習」を経験したおかげで、もしかすると、戦
争中もシベリア抑留中(後記)も生き残れたのかもしれない。
昭和18年9月、大学を6カ月繰り上げ卒業、昭和石油(現・RSエナ
ジー)に入社。
(注)学徒出陣と決まったのは、18年10月なので、父は学徒出陣ではない。
昭和18年11月、千葉県佐倉市にあった「東部第64部隊」に入隊。
以下は、入隊同期の記録による。
12月1日に内地を出発。佐倉駅-東京駅-下関(関釜連絡船)-京
城(ソウル)-平壌(ピョンヤン)-山海関-清化鎮(by rail)
開慶 第1回集合教育(東部隊隊長:長谷川大佐、教官:遠藤少尉)
19年2月1日 東部隊各中隊へ配属 一般初年兵(特に埼玉県出身
者)と教育隊編成
3月 開慶にて 幹部候補生試験 東兵団(35師団)南方(ニュー
ギニア方面)転戦にため甲種幹候教育隊を「弘兵団」(第117師
団→こちら)が引き続き孟県にて集合教育
4月 石門幹部候補生隊(甲第1870部隊)へ入隊(一部は保定南京
へ入隊)
11月30日頃 同校卒業と同時に原隊復帰(→弘兵団[鈴木啓久中将
→こちら])
20年1月 弘兵団各中隊配属
その後、満洲防衛のため、弘兵団は関東軍第44軍に編入される。
8月9日、ソ連が対日参戦。終戦となり、弘兵団主力は満洲吉林省で
武装解除となる。
その後、バイカル湖方面へシベリア抑留となり、強制労働に従事、
昭和23年下期に帰国。昭和石油に「復帰」したと考えられる。
母と結婚したのは昭和24年11月だ。
父は、身長170cm、(私と違って)体格がよく、甲種合格だった。
大学時代はがむしゃらにサッカーをし、戦時中はがむしゃらに戦争
し、シベリア抑留ではがむしゃらに強制労働に従事、戦後、高度成
長期はがむしゃらに働き、「時代」を駆け抜けた。
父は、普段はボーッとしていたが、何かをするときのコンセントレ
ーションはすごいものがあった。
父は(これまた私と違って[笑])とてもオシャレで、背広には少
しもホコリを付けず、靴も自分で磨き、常にピカピカだった。
時代が変わっても、父にも少年時代、青春時代、壮年時代があった。
60歳定年後は、「一息入れて、好きなことをやるよ」と油絵(→こ
ちら)を描いていたが、ヘビースモーカーだったことも一因か、心
筋梗塞で急逝した(61歳)。
来年は43回忌となる。
佐倉の連隊、東部第64部隊の同期入隊名簿・写真等が残っていた。
昭和18年 佐倉出発記念
右は昭和19/1/2 開慶において 正月祝いで酔う?
左上:昭和20/3/30 南陽、南関、右白河をのぞむ
<新郷小唄> 上記「同期名簿」より
1. 新郷乙女のあこがれは
黄河の濁流見下ろして
ニッコリ笑ったひげ面の
青年士官が夢なのよ
3. 花は桜木人は武士
どうせ散るなら国の為
いとし妻子と逢う時は
靖国神社の花の下
今からは想像できない、そういう「戦争の時代」だったんですね~。
小隊?
中国戦線の中隊??
40代後半の父 昭和40(1965)年頃? パイプが流行っていた?
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大正7年生まれは、
13歳で満州事変、
19歳で盧溝橋事件(日中戦争)
23歳で太平洋戦争(対米英戦争)
27歳で終戦
という時代でした。
当時は、国民がそれぞれの立場で戦ったということでしょうか・・・・・・。
よろしければまたお立ち寄りください。
なんとなく引き込まれてお父上の記録を読ませていただき、大変な時代を生き抜いて来られたのだなあとしみじみ感じました。
よく調べられて息子さんとして立派だと思いました。
父は横須賀の海軍兵学校に在籍しましたが、技師だった為、勤め先の中島飛行機に戻り終戦までずっとそこで働いていました。
その間に私が生まれたのでした。
飛行場に焼夷弾が何度も落ちて親子で逃げ惑ったことをよく聞かされました。
今の平和を大切にしなくてはいけないと強く感じます。
父は96歳まで生きてくれました。
「へ~、そうだったのですか」。
昭和16年から「3ヵ月繰り上げ卒業」=「12月卒業」が始まりましたが、もしかするとそれかもしれないですね~。
太平洋戦争後半は、海上輸送も大変で、だいぶ撃沈されましたが、よくぞご無事で(涙)。
101歳の大往生、それから一年。あらためてお悔やみ申し上げます。
ともかく今とはまったく時代が違うでしょうから、よきにつけ悪しきにつけ、想像を絶するようなことがあったのでしょうか・・・・・・。
シベリアもシベリアですが、ニューギニアもそれ以上に大変でしたね~。
シベリアは簡単にいうと60万人が抑留され、その1割、6万人が亡くなりましたが、ニューギニア戦線では、(日本の)20万人の将兵が投入され、生還者は1割の2万人だったと言われています。
(長くなりますが)昨年97歳で亡くなった、「那須の神様」と言われたプロゴルファー小針春芳(T10年生まれ)はニューギニアの生き残り。400人の部隊で生還できたのは小針を含め13人だったそうです。
お父様は中国から「休み」なしでニューギニアへ転戦されたのでしょうか?20代はすべて戦争だったんですね~。平和の世に感謝!です。